古典派までとは? わかりやすく解説

古典派まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:47 UTC 版)

和声」の記事における「古典派まで」の解説

13世紀ごろから、ある旋律に対して1つまたは2つ上の旋律同時に奏でて音楽作ることが行われるようになった。この作曲法作曲理論対位法(英語: counterpoint)という。対位法では、ある旋律が他の旋律従属するではなくそれぞれ独立した旋律感じられるように工夫するルネサンス期15世紀 - 16世紀)になると、和音意識されるようになった対位法による楽曲でも複数旋律奏でられるとき、ある部分縦に切り取ってみると、音の積み重ねとしての和音存在していると機能和声理論初動者は分析した。しかしこのような現象和声として感じることは最も保守的だったローマで御法度であった。しかし、やや緩かったヴェネツィアではオルガン二重合唱加わったことで、和音和音との連結によって音楽創るという発想徐々に対位法理論侵食するようになっていった。 その後和音同士をいかに連結すべきかという法則模索され、ラモーによりカデンツ和声終止形)の法則提唱された。J.S.バッハとその一族ラモー原則意識的にはなんら従っていないことが文献上から確認できるが、結果的におおむねカデンツの法則に従っている。こうして、フランスとドイツ和声理論ラモー以後二分されてゆく。三和音の転回形理解においてはキルンベルガーとラモーは全くの同一であったが、ヴェーバー大文字と小文字両方ローマ数字をIからVIIまで階段のように並べてから、フランスとドイツ和声理論決定的な亀裂生じた古典派18世紀後半から19世紀初頭)の時代になると、カデンツの法則則った和音連結至上のものとされるようになった

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古典派まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:20 UTC 版)

交響曲」の記事における「古典派まで」の解説

生年順に並べてある) 1658年 トレッリイタリア) - 4声のシンフォニア交響曲原型を示す 1678年 ヴィヴァルディイタリア) - 23曲のシンフォニア 1701年 サンマルティーニイタリア) - 70曲以上の交響曲交響曲始祖といわれる1710年 ボイスイギリス) - 8曲のシンフォニア 1714年 C.P.E.バッハドイツ) - 20曲のシンフォニア 1715年 ヴァーゲンザイルオーストリア) - ? 1717年 モンオーストリア) - 16曲の交響曲初め第3楽章メヌエット導入1717年 J.シュターミツ(チェコ) - 50曲以上の交響曲第3楽章に常にメヌエット配置1718年 ブリック - ? 1725年 アーベルドイツ) - ? 1732年 ヨーゼフ・ハイドンオーストリア) - 104曲の番号付き交響曲(6「朝」、7「昼」、8「夜」、9、132122哲学者」、23242526ラメンタチオーネ」、30アレルヤ」、31ホルン信号」、38、3943マーキュリー」、44悲しみ」、45告別」、4648マリア・テレジア」、49受難」、5053帝国」、55校長先生」、59火事」、60うかつ者」、63「ラ・ロクサーヌ」、64時の移ろい」、」、6769ラウドン」、707273「狩」、7682「熊」、83めんどり」、85王妃」、8889909192オックスフォード」、9394驚愕」、9596979899100軍隊」、101時計」、102103太鼓連打」、104ロンドン」)+交響曲A、B 1734年 ゴセックフランス) - ? 1735年 J.C.バッハドイツ) - ? 1737年 ミヒャエル・ハイドンオーストリア) - 40曲以上の交響曲 1739年 ヴァンハルチェコ) - ? 1739年 ディッタースドルフオーストリア) - 100曲以上の交響曲 1741年 ルケージ(イタリア) - 1743年 ボッケリーニイタリア) - 27曲(?)の交響曲 1750年 ロセッティチェコ) - 1752年 クレメンティイタリア) - 1756年 モーツァルトオーストリア) - 38曲の番号付き2、3番と37番のほとんどは他人の作)交響曲1、24、56、78、91016202526272829303132333435ハフナー」、36リンツ」、3738プラハ」、3940、41ジュピター」)+14曲(?)の番号無し 1757年 プライエル(オーストリア) - 41曲の交響曲1763年 メユールフランス) - 4曲以上の交響曲1770年 ベートーヴェンドイツ) - 9曲の交響曲1、2、3「英雄」、4、5運命」、6「田園」、7、8、9「合唱付き」)+ウェリントンの勝利+スケッチのみの10

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