古典派まで
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13世紀ごろから、ある旋律に対して1つまたは2つ以上の旋律を同時に奏でて音楽を作ることが行われるようになった。この作曲法・作曲理論を対位法(英語: counterpoint)という。対位法では、ある旋律が他の旋律に従属するのではなく、それぞれが独立した旋律と感じられるように工夫する。 ルネサンス期(15世紀 - 16世紀)になると、和音が意識されるようになった。対位法による楽曲でも複数の旋律が奏でられるとき、ある部分を縦に切り取ってみると、音の積み重ねとしての和音が存在していると機能和声理論の初動者は分析した。しかしこのような現象を和声として感じることは最も保守的だったローマでは御法度であった。しかし、やや緩かったヴェネツィアではオルガンが二重合唱に加わったことで、和音と和音との連結によって音楽を創るという発想が徐々に対位法理論を侵食するようになっていった。 その後、和音同士をいかに連結すべきかという法則が模索され、ラモーによりカデンツ(和声終止形)の法則が提唱された。J.S.バッハとその一族はラモーの原則に意識的にはなんら従っていないことが文献上から確認できるが、結果的にはおおむねカデンツの法則に従っている。こうして、フランスとドイツの和声理論はラモー以後二分されてゆく。三和音の転回形の理解においてはキルンベルガーとラモーは全くの同一であったが、ヴェーバーが大文字と小文字の両方のローマ数字をIからVIIまで階段のように並べてから、フランスとドイツの和声理論に決定的な亀裂が生じた。 古典派(18世紀後半から19世紀初頭)の時代になると、カデンツの法則に則った和音の連結が至上のものとされるようになった。
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古典派まで
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(生年順に並べてある) 1658年 トレッリ(イタリア) - 4声のシンフォニアで交響曲の原型を示す 1678年 ヴィヴァルディ(イタリア) - 23曲のシンフォニア 1701年 サンマルティーニ(イタリア) - 70曲以上の交響曲。交響曲の始祖といわれる。 1710年 ボイス(イギリス) - 8曲のシンフォニア 1714年 C.P.E.バッハ(ドイツ) - 20曲のシンフォニア 1715年 ヴァーゲンザイル(オーストリア) - ? 1717年 モン(オーストリア) - 16曲の交響曲。初めて第3楽章にメヌエットを導入。 1717年 J.シュターミツ(チェコ) - 50曲以上の交響曲。第3楽章に常にメヌエットを配置。 1718年 ブリック - ? 1725年 アーベル(ドイツ) - ? 1732年 ヨーゼフ・ハイドン(オーストリア) - 104曲の番号付き交響曲(6「朝」、7「昼」、8「夜」、9、13、21、22「哲学者」、23、24、25、26「ラメンタチオーネ」、30「アレルヤ」、31「ホルン信号」、38、39、43「マーキュリー」、44「悲しみ」、45「告別」、46、48「マリア・テレジア」、49「受難」、50、53「帝国」、55「校長先生」、59「火事」、60「うかつ者」、63「ラ・ロクサーヌ」、64「時の移ろい」、」、67、69「ラウドン」、70、72、73「狩」、76、82「熊」、83「めんどり」、85「王妃」、88、89、90、91、92「オックスフォード」、93、94「驚愕」、95、96、97、98、99、100「軍隊」、101「時計」、102、103「太鼓連打」、104「ロンドン」)+交響曲A、B 1734年 ゴセック(フランス) - ? 1735年 J.C.バッハ(ドイツ) - ? 1737年 ミヒャエル・ハイドン(オーストリア) - 40曲以上の交響曲 1739年 ヴァンハル(チェコ) - ? 1739年 ディッタースドルフ(オーストリア) - 100曲以上の交響曲 1741年 ルケージ(イタリア) - 1743年 ボッケリーニ(イタリア) - 27曲(?)の交響曲 1750年 ロセッティ(チェコ) - 1752年 クレメンティ(イタリア) - 1756年 モーツァルト(オーストリア) - 38曲の番号付き(2、3番と37番のほとんどは他人の作)交響曲(1、2、4、5、6、7、8、9、10、16、20、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35「ハフナー」、36「リンツ」、37、38「プラハ」、39、40、41「ジュピター」)+14曲(?)の番号無し 1757年 プライエル(オーストリア) - 41曲の交響曲。 1763年 メユール(フランス) - 4曲以上の交響曲。 1770年 ベートーヴェン(ドイツ) - 9曲の交響曲(1、2、3「英雄」、4、5「運命」、6「田園」、7、8、9「合唱付き」)+ウェリントンの勝利+スケッチのみの10
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