古典派の時代とは? わかりやすく解説

古典派の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 05:54 UTC 版)

チェコの音楽」の記事における「古典派の時代」の解説

三十年戦争とこれに続くプロテスタント弾圧のために、数多く音楽家亡命したその後新教徒頭脳流出続きドレスデン宮廷仕えたヤン・ディスマス・ゼレンカ (1679 - 1735)、ベルリンフリードリヒ大王コンサートマスターとなったフランツ・ベンダ (1709 - 1786)、その弟で北ドイツ・ゴータで活躍したゲオルク・ベンダ (1722 - 1795)、マンハイム楽派重要なメンバーであるヤン・ヴァーツラフ・スタミツ (1717 - 1757) とその2人の息子カール・シュターミッツ (1745 - 1801)、アントン・シュターミッツ (1754 - 没年不明)、同じくマンハイム楽派フランツ・クサヴァー・リヒター (1709 - 1789) などが含まれており、後期バロック音楽から古典派音楽への移行期にあって古典音楽の礎を築く上でチェコの音楽家たちが重要な役割演じている。 一方チェコ国内では、こうした才能国外流出加えカール6世治世後半から財政悪化しその後オーストリア継承戦争がそれに拍車をかけるとなって社会全体沈滞していた。1786年モーツァルト来訪翌年の「ドン・ジョヴァンニ初演の成功といった華やかな幕間劇はあったものの、プラハ音楽院院長であったフリードリヒ・ディオニュス・ヴェーバーがベートーヴェンの交響曲第3番を「全く未熟な作品」と評するなど、保守的な風潮支配的であったこうした風潮から、宗教的理由とは別に、自ら国外活躍の場求めた音楽家たちも多かったベートーヴェン親友であったアントニーン・レイハ (1770 - 1836)は、演奏家としてウィーン活躍したフランス渡りパリ音楽院名物教師として、数々逸材送り出している。このほかに、イタリアでオペラ作家となり成功したヨゼフ・ミスリヴェチェク (1737 - 1781)は、モーツァルトへの影響通じてウィーン古典派振興寄与しヤン・ヴァンハル (1739 - 1813)とレオポルト・コジェルフ(1747 - 1818)、パヴェル・ヴラニツキー (1756 - 1808)、ヤン・ヴォジーシェク (1791 - 1825)は直接ウィーン古典派一員加わったデュセック(1760 - 1812)とアダルベルト・ギロヴェッツ(1763 - 1850)は、ウィーン古典派の(特に器楽曲の)伝統国外移植するうえで、レイハとは違うかたちで影響力があった。さらに生まれこそバイエルンであったが、幼少期プラハ移りプラハ音楽学んだ後、ウィーンフランスでオペラ改革などで活躍したクリストフ・ヴィリバルト・グルック (1714 - 1787)、チェコからの移住者家庭生まれベートーヴェン弟子にして有名な練習曲集作者カール・ツェルニー (1791 - 1857)、といった人々含め古典派音楽最初期からロマン派への移行期にかけて多くチェコの音楽家たち活躍している。 再びチェコ国内に目を転じると、沈滞する都市部対し地方では、オロモウツ文化的隆盛影響され音楽、特に器楽演奏盛んになるなかでも特筆すべきは、モラヴィア西南部のクヴェステンベルク伯(ドイツ語版)領ヤロムニェジツェ(英語版)で活躍したフランティシェク・ヴァーツラフ・ミーチャ (1694 - 1744) である。彼は、1730年チェコ語台本オペラ作曲した。これは当時としては、他に例を見ない希有なことであり、チェコ音楽史上重要な位置占める。作曲者ミーチャは、元々は農民であった1772年チェコ旅行したイギリス人チャールズ・バーニーは、「ボヘミアでは農民の子供も商人の子供も皆、一般初等教育の場で音楽教育施されている」ことを驚きとともに書き記している。これは、地方貴族の館での器楽演奏盛んになるにつれ、楽団員養成するために各地音楽教育なされるようになったためである。 その中心となるのがカントル呼ばれる音楽教師であったカントルとは元来教会男性歌手のことを示す言葉であったが、神を賛美するために特に優れた歌手選ばれ会衆先導したことから指導者さらには学校教師一般意味するようになった。この時代教師のほぼすべては歌手であり、オルガニストであり、合唱指揮者であった。後にドヴォルザークマルティヌーらの才能いち早くいだしたのは、こうしたカントルたちであったカントルまた、土地領主のため作曲行った。特にクリスマス用の作品と「パストラル牧歌)」の分野多く作品を遺している。 各地優秀なカントル現れたが、中でもヤクプ・シモン・ヤン・リバ (1765 - 1815) の「クリスマス・パストラル」は、その芸術性高く評価されている。また、舞曲多く作られている。舞曲では、たとえば「ヴァラシュスコ舞曲」といった各地方民俗音楽基づいた舞曲好まれた。この時代音楽もう一つ特筆すべきは「ハナー・オペラ」とよばれる民衆オペラ存在である。これはテクストにハナー地方英語版)の方言多用したオペラで、1740年頃から作られ始めている(日本農村歌舞伎イメージに近いもの)。 18世紀チェコでは、都市部では指導的な音楽家流出する一方で農村部では民族主義あるいは国民主義音楽への下地着実に形成されつつあった。

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