古典派の時代
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三十年戦争とこれに続くプロテスタント弾圧のために、数多くの音楽家が亡命した。その後も新教徒の頭脳流出は続き、ドレスデン宮廷に仕えたヤン・ディスマス・ゼレンカ (1679 - 1735)、ベルリンでフリードリヒ大王のコンサートマスターとなったフランツ・ベンダ (1709 - 1786)、その弟で北ドイツ・ゴータで活躍したゲオルク・ベンダ (1722 - 1795)、マンハイム楽派の重要なメンバーであるヤン・ヴァーツラフ・スタミツ (1717 - 1757) とその2人の息子カール・シュターミッツ (1745 - 1801)、アントン・シュターミッツ (1754 - 没年不明)、同じくマンハイム楽派のフランツ・クサヴァー・リヒター (1709 - 1789) などが含まれており、後期バロック音楽から古典派音楽への移行期にあって、古典音楽の礎を築く上でチェコの音楽家たちが重要な役割を演じている。 一方、チェコ国内では、こうした才能の国外流出に加え、カール6世の治世後半から財政が悪化し、その後のオーストリア継承戦争がそれに拍車をかける形となって、社会全体が沈滞していた。1786年のモーツァルトの来訪、翌年の「ドン・ジョヴァンニ」初演の成功といった華やかな幕間劇はあったものの、プラハ音楽院院長であったフリードリヒ・ディオニュス・ヴェーバーがベートーヴェンの交響曲第3番を「全く未熟な作品」と評するなど、保守的な風潮が支配的であった。 こうした風潮から、宗教的理由とは別に、自ら国外に活躍の場を求めた音楽家たちも多かった。ベートーヴェンの親友であったアントニーン・レイハ (1770 - 1836)は、演奏家としてウィーンで活躍した後フランスに渡り、パリ音楽院の名物教師として、数々の逸材を送り出している。このほかに、イタリアでオペラ作家となり成功したヨゼフ・ミスリヴェチェク (1737 - 1781)は、モーツァルトへの影響を通じてウィーン古典派の振興に寄与し、ヤン・ヴァンハル (1739 - 1813)とレオポルト・コジェルフ(1747 - 1818)、パヴェル・ヴラニツキー (1756 - 1808)、ヤン・ヴォジーシェク (1791 - 1825)は直接ウィーン古典派の一員に加わった。デュセック(1760 - 1812)とアダルベルト・ギロヴェッツ(1763 - 1850)は、ウィーン古典派の(特に器楽曲の)伝統を国外に移植するうえで、レイハとは違うかたちで影響力があった。さらに生まれこそバイエルンであったが、幼少期にプラハに移り、プラハで音楽を学んだ後、ウィーンやフランスでオペラ改革などで活躍したクリストフ・ヴィリバルト・グルック (1714 - 1787)、チェコからの移住者の家庭に生まれ、ベートーヴェンの弟子にして有名な練習曲集の作者カール・ツェルニー (1791 - 1857)、といった人々も含め、古典派音楽の最初期からロマン派への移行期にかけて多くのチェコの音楽家たち活躍している。 再びチェコ国内に目を転じると、沈滞する都市部に対し地方では、オロモウツの文化的隆盛に影響され、音楽、特に器楽演奏が盛んになる。なかでも特筆すべきは、モラヴィア西南部のクヴェステンベルク伯(ドイツ語版)領ヤロムニェジツェ(英語版)で活躍したフランティシェク・ヴァーツラフ・ミーチャ (1694 - 1744) である。彼は、1730年にチェコ語の台本でオペラを作曲した。これは当時としては、他に例を見ない希有なことであり、チェコ音楽史上で重要な位置を占める。作曲者のミーチャは、元々は農民であった。1772年にチェコを旅行したイギリス人チャールズ・バーニーは、「ボヘミアでは農民の子供も商人の子供も皆、一般の初等教育の場で音楽教育が施されている」ことを驚きとともに書き記している。これは、地方貴族の館での器楽演奏が盛んになるにつれ、楽団員を養成するために各地で音楽教育がなされるようになったためである。 その中心となるのがカントルと呼ばれる音楽教師達であった。カントルとは元来教会の男性歌手のことを示す言葉であったが、神を賛美するために特に優れた歌手が選ばれ会衆を先導したことから指導者、さらには学校教師一般を意味するようになった。この時代、教師のほぼすべては歌手であり、オルガニストであり、合唱指揮者であった。後にドヴォルザークやマルティヌーらの才能をいち早く見いだしたのは、こうしたカントルたちであった。カントルはまた、土地の領主のため作曲も行った。特にクリスマス用の作品と「パストラル(牧歌)」の分野に多くの作品を遺している。 各地に優秀なカントルが現れたが、中でもヤクプ・シモン・ヤン・リバ (1765 - 1815) の「クリスマス・パストラル」は、その芸術性が高く評価されている。また、舞曲も多く作られている。舞曲では、たとえば「ヴァラシュスコ舞曲」といった各地方の民俗音楽に基づいた舞曲が好まれた。この時代の音楽でもう一つ特筆すべきは「ハナー・オペラ」とよばれる民衆オペラの存在である。これはテクストにハナー地方(英語版)の方言を多用したオペラで、1740年頃から作られ始めている(日本の農村歌舞伎のイメージに近いもの)。 18世紀のチェコでは、都市部では指導的な音楽家が流出する一方で、農村部では民族主義あるいは国民主義音楽への下地が着実に形成されつつあった。
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