原子模型の歴史とは? わかりやすく解説

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原子模型の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 04:05 UTC 版)

原子模型」の記事における「原子模型の歴史」の解説

近代的な原子概念1810年頃にドルトンによって確立されたが、彼が原子atom古代ギリシア語不可分なものを意味する語から)という名を与えたように当初原子それ以上分解することは不可能であり内部に構造存在しないもの考えられていた。 1830年ファラデー電気分解研究行い溶液電流を流すときに溶液中で電気電極まで運ぶものとしてイオン提唱した。さらに1884年アレニウス電離説を提唱し溶液中に電荷を持つ原子存在することを提唱した。これは原子電荷を持つ何かを内部持っていることを示唆していた。 1869年ヴィルヘルム・ヒットルフは、内部減圧にしたガラス管内で放電行なうガラス管蛍光発するが、これが陰極から出ている何らかの放射線ガラス管当たって出ていることを発見した。この放射線陰極線1890年代J.J.トムソンによって電荷質量測定されて、原子よりも極めて軽いマイナスの電荷帯びた粒子、すなわち電子であることが明らかにされた。 一方1897年ピーター・ゼーマン原子線スペクトル磁場をかけると複数の線に分裂するゼーマン効果発見したローレンツやラーモアはこの現象原子中に電気持った粒子存在しており、それが磁場影響を受けるために起こると解釈した。 これらのことから、1901年ウィリアム・トムソンケルヴィン卿)は原子広がった分布を持つ正電荷中に負電荷を持つ電子運動している構造を持つというモデル提唱したJ.J.トムソンはさらにこのモデル安定性追求し電子正電荷の中で同心円状軌道をとり、それぞれの軌道上には規則正しい角度電子配置され回転運動しているというモデル1904年提唱した。そして電子配置パターン元素化学的性質関係していると考えた。このモデルは、電子小粒フルーツ正電荷をそれが混ぜ込まれ生地例えブドウパンモデル(英: plum pudding model)と呼ばれるまた、1902年ルイス立方体モデル (cubical atom) を発表した。 このモデルに対してジャン・ペラン長岡半太郎中心に正電荷を持つがあり、その周囲電子回転運動するモデル考えた1901年ペランソルボンヌ大学講義で、1903年長岡東京数学物理学会で、それぞれ初め発表している。ペラン自身モデル太陽系なぞらえて-惑星モデル長岡土星の輪安定性に関するマクスウェル研究参考モデル導いたことから土星モデル呼んだまた、フィリップ・レーナルト陰極線用いた研究から、電気的に中性電気双極子から成るディナミーデン模型提唱した。しかし、これらのモデルはあまり注目されなかった。 また、トムソン長岡原子模型では原子1個が含む電子の数は数百個~数万個と考えられていた。 1908年から1910年にかけてと1913年4度ハンス・ガイガーアーネスト・マースデン金箔によるα線ラザフォード散乱観察するガイガー=マースデンの実験ラザフォード指導の下で行なった最初3回実験結果から、ラザフォード1911年原子中心にプラス電荷を持つ重い原子核存在する結論付けた。これにより、-惑星モデル土星モデルのように原子核周り離れて電子周回していることが判明した。 しかし、-惑星モデル土星モデル想定していたよりも原子核大きさはるかに小さかった。また原子核正電荷の量も判明し原子中の電子の数はトムソン長岡考えていたよりもはるかに少ないことも判明したラザフォードはこれらの結果をまとめた原子模型提案し、後にこの原子模型ラザフォードの原子模型呼ばれるようになった。これは、原子質量のほとんどが原子核集中するもので、太陽系のほとんどの質量太陽集中する太陽系モデルのようなものであった。 しかし、古典力学によれば原子核周り回転運動する電子電磁波放射して運動エネルギー失い、やがて原子核落下してしまう。また、原子発光線スペクトルであるという観察事実説明することができなかった。この問題解決するため1913年ボーアプランクの量子仮説原子内の電子適用し電子原子核周り円運動しているが、角運動量プランク定数整数倍を2πで割ったものとなる軌道だけが許されるという量子条件仮説提唱した。そしてこの許される軌道間を電子が移るときには、そのエネルギー差にあたる光子放出し、その振動数アインシュタインの光量子仮説に従うとした。このボーアの原子模型により水素原子発する線スペクトル波長理論的に説明する事が可能になった。アーノルト・ゾンマーフェルトはこの量子条件楕円軌道にも拡張するボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件発表し、これにより多電子原子にも理論拡張された。またボーアは、様々な原子線スペクトルから1つ軌道(殻)に入ることができる電子の数が限られていることを見出したまた、最も外側にある殻に入っている電子の数が周期表対応することも提案した。 しかし、これらのモデル電子古典力学基づいてある軌道上運動しているという前提構築されていたため、光の散乱などの実験事実説明ができなかった。 これを解決する糸口となったのは1923年ド・ブロイによって提唱され物質波概念である。その後実際に電子線回折実験電子波動性を持つことが確認された。そして、ド・ブロイ考え方発展させたシュレーディンガー1926年提唱したシュレーディンガー方程式を解くことにより、電子運動量子力学によって説明する現在の原子模型導かれた。 原子核についての研究もほぼ同じ時期進められた。1918年ラザフォード窒素ガスα線当てる水素ガス生成することを見出した。これは窒素原子壊され水素原子ができたためであり、窒素原子構成要素として水素原子があるものと考えてこれを陽子命名した。しかし原子核陽子だけからなる考えると原子核電荷質量同時に説明できない。そのため原子核中には過剰の陽子電荷中和するだけの電子電子)が存在していると考えられていた。 1930年α線リチウムベリリウムホウ素照射すると非常に透過力の高い放射線が出ることがW・ボーテとH・ベッカーによって発見された。1932年チャドウィックはこの放射線正体陽子とほぼ同じ質量を持つ電気的に中性粒子であることを示し、これを中性子命名した。これを受けてハイゼンベルク原子核陽子中性子からなるという現在のモデル提唱したこのようにして現在の原子模型確立した

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「原子模型の歴史」を含む「原子模型」の記事については、「原子模型」の概要を参照ください。

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