再生回路の発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:22 UTC 版)
三極管を用いた再生回路を含む増幅回路や発振回路の研究や発明は、皮肉にも、ド・フォレストの会社が倒産した1911年頃から盛んになった。研究や発明は多くの国、多くの研究者の間でほぼ同時に並行して行われた。 例えば、オーストリア人のリーベン(Robert von Lieben)、ライス(Eugen Reisz)およびストラウス(Siegmund Strauss)はリーベン管と呼ばれる水銀蒸気入り三極管を開発し、1911年にフランスで三極管を使った増幅器の特許(フランス特許番号13,726)を取得している。この特許には高周波信号の増幅や2段構成の増幅器も含まれていた。さらに、ストラウスはこの三極管を用いた発振回路の特許を1912年12月12日にオーストリアで申請した。この発明はさほど重要とは判断されず、特許の申請はオーストリアでしか行われなかった。そのためストラウスの発明が広く知られることはなかった。 リーベンらはドイツの会社と交渉を行い、1912年の初め頃にはテレフンケンやシーメンス、AEGなどいくつかの会社が参加してリーベンコンソーシアムを組織しリーベン管の研究と改良を行っていた。このような経緯から、テレフンケンのエンジニアだったマイスナー(Alexander Meißner)も、ストラウスの研究とは独立して、1913年3月にリーベン管による正帰還を用いた発振回路を考案し実験を行った。発振回路の周波数は約500kHz(波長600m)、出力は12Wだった。6月にはこの発振回路を使いベルリンとその西 36Km に位置するナウエン(Nauen)との間の無線電話の実験を行った。さらに、この発振回路の応用としてフィードバックを用いた再生回路も考案された。1913年にリーベン管を使ったフィードバック回路による受信機がナウエンとアメリカ(Sayville)とに設置されて大西洋間の通信に使われ、大幅に受信性能が向上した。発振回路は1913年4月10日に、再生式の高周波増幅回路と検波回路とを組み合わせた再生検波回路は1913年7月16日にドイツでテレフンケンが特許を取得した。 アメリカでは、1911年にマサチューセッツ州のジョン・ハモンド研究所で無線操縦システムを開発していたエンジニアのローウェンスタイン(Fritz Lowenstein)が、オーディオンを用いて単純な増幅器と発振器を作成した。過去にテスラのアシスタントとして働いていたローウェンスタインには、水銀灯の負性抵抗を利用した電話用の増幅器の知識もあり、水銀灯によく似たド・フォレストのオーディオンが増幅器に使えるかどうかに関心があった。11月に増幅器の設計は終わり、電話機をつないで試験を行い問題なく動くことを確認した。 ローウェンスタインは、魚雷の無線操縦システムで舵の制御に使うため、低周波発振器も設計した。この発振器の試験中に15KHz程度の当時としては高い周波数でも発振可能なことを発見し、1912年初め頃にはこれを利用した無線電話機の実験を同じ建物内の2つの研究所間で行った。 ローウェンスタインはオーディオンを用いた電話用の増幅回路についてのみ1912年4月に特許申請を行った(米国特許番号1231764)。オーディオンの低周波発振(ハウリング)は当時よく知られた現象であり、また増幅ができれば発振器が作成できることは当たり前と考えたため、発振回路の特許は取得しなかった。ローウェンスタインの研究が広く注目されることはなかったが、一部の研究者や電信会社の経営者にはこれらの情報が伝わり、オーディオンを用いた回路の研究が刺激されることになった。 このような流れを受け、会社の倒産後ニューヨークからカリフォルニアに移り電信会社に雇われていたド・フォレストはオーディオンを用いた増幅回路の研究を開始し、1912年の夏に増幅回路についての一連の実験を始めた。当時ド・フォレストが実験を行っていた増幅回路もハウリングが発生し、それを抑え込むために苦労している。8月には増幅回路の出力を入力に戻すことで低周波の発振がおこることを確認した。この時のメモは後の再生回路の特許訴訟においてド・フォレストが勝訴する重要な証拠の一つになった。 同じころ、後にスーパーヘテロダイン方式の発明などで有名になるアームストロングは、ハウリングを抑え込むのではなく積極的におこす方法を考えていた。高校のころからアマチュア無線クラブの一員として活動していたアームストロングは、この当時コロンビア大学で電気工学を勉強する学生だった。友人から1911年に譲り受けたオーディオンを使い、さまざまな受信回路の実験を行っていたが、最初のうちは鉱石検波器と同じくらいの感度しか得られなかった。 その後、たまたま受話器の端子間にコンデンサを接続したとき、信号がはっきりわかるほど強くなった。この現象からオーディオンが高周波で発振しているかもしれないと考え、1912年夏のある日、オーディオンのプレート出力に可変のコイルとコンデンサとを接続し同調回路となるようにしてみると、今度は信じられないほどの強さで信号が受信できるようになった。しかし、この当時オーディオンの動作原理と機能は正しく理解されておらず、どうしてこのような現象が起こるのかわからなかった。 再生回路の発明は幸運で、動作する回路を組み立てるのは数時間の作業だったが、回路内で起こっている現象を解き明かすには何か月もかかった、と後になってアームストロングは述べている。 アームストロングの組み立てた受信機は当時としては非常に感度がよく、ニューヨークでサンフランシスコ-ホノルル間の通信を受信している。さらに、マルコーニの巨大な無線局でも受信が困難だったアイルランドからの信号も受信できた。 1912年9月に自分の受信機を友人に見せ、1913年1月13日に発明の証明のため受信機の回路図に友人のサインをもらい、1913年の初めにはコロンビア大学でデモンストレーションを行った。1914年1月31日には、当時アメリカマルコーニ無線電信会社で働いており後にRCAの社長として活躍するデビッド・サーノフに再生受信機のデモンストレーションを行い、受信性能の高さを納得させている。この時のアームストロングはまだ学生で約200ドルの特許申請費用が払えず、父親からの補助は大学卒業後にしかもらえなかったため、特許申請はコロンビア大学を卒業した直後の1913年10月29日で、1914年10月6日に特許(米国特許番号1113149)として成立した。 特許成立後の1915年にアームストロングはIEEEの前身のIRE(Institute of Radio Engineers、無線学会)でオーディオンの増幅特性と再生検波回路の動作原理についての発表を行った。ド・フォレストはこの発表に対する手紙による応答として、この発表の数年前にフィードバックによる発振回路を考案済みと回答している。また、この時点でもド・フォレストはオーディオンの動作原理について正しく理解しておらず、オーディオンの特性のばらつきについての手紙による議論でアームストロングに論破されている。
※この「再生回路の発明」の解説は、「再生回路」の解説の一部です。
「再生回路の発明」を含む「再生回路」の記事については、「再生回路」の概要を参照ください。
- 再生回路の発明のページへのリンク