スカイラブ
名称:スカイラブ
開発機関・会社:アメリカ航空宇宙局(NASA)
運用機関・会社:アメリカ航空宇宙局(NASA)
打ち上げ年月日:1973年5月14日
運用停止年月日:1974年2月8日(有人滞在計画終了)1979年7月11日(大気圏突入)
打ち上げ国名・機関:アメリカ/アメリカ航空宇宙局(NASA)
打ち上げロケット:サターンV
国際標識番号:1973027A
人類初の月旅行をめぐるアメリカと旧ソ連の競争は、アメリカの勝利におわりました。しかし、ベトナム戦争と、これにともなう不景気のため、アメリカの宇宙計画は、アポロ以後、縮小をよぎなくされました。スペースシャトルの基本設計方針は1972年に決まったものの、この時期、アメリカには今すぐに、実現できる宇宙計画の見通しがたっていませんでした。そこで、アポロ計画の打ち上げロケットや宇宙船の予備部品を用いて、ソ連のサリュート宇宙ステーションよりも大型のステーションを建造するというプランに注目が集まりました。
スカイラブの本体は、アポロを打ち上げたサターンVロケットの第3段部をベースとしていました。第3段の燃料タンク部分の大きな空間を基地として用いるため、転用とはいえ、ソ連のサリュートよりもはるかに大きな居住空間を確保することができました。残る1段目と2段目により、スカイラブは軌道に打ち上げられました。宇宙飛行士は、アポロ宇宙船の、月面着陸船をのぞく、司令船と機械船とに乗り込み、サターンVロケットで軌道に上がり、スカイラブ本体とドッキング後、スカイラブ本体に乗り移るてはずになっていました。宇宙飛行士の帰還には、もともと大気圏突入用に作られていたアポロ司令船が使われる予定でした。
しかし、本体の打ち上げの途中で、太陽発電パネルのうち、側面から展開される2枚の片方が、隕石遮蔽膜の一部とともにもぎとられてしまいました。このため、宇宙飛行士の到着前の基地内の温度は52℃にも上昇してしまい、乗り込みに先立って、まず、宇宙ステーションの修理から始めなければなりませんでした。
滞在計画は3次におよび、1974年の終了後も、スペースシャトル完成後の訪問が予定されていましたが、1970年代末、太陽活動が活発化したため、地球の高層大気が膨張、大気抵抗が増加したため、最初の予定よりもはるかに早く、1979年7月に大気圏へ突入、消滅しました。
1.どんな形をして、どんな性能を持っているの?
総重量76t、全長36m(ドッキング時)で、軌道作業室は全長約15m、直径6.6m、作業容積270m3、ドッキング・アダプターは全長5.7m、直径3m、作業容積343m3、太陽望遠鏡台座は全長約4m、直径約3m、アポロ司令船・機械船は全長約10m、直径約4mです。
2.宇宙でどんなことをして、今はどうなっているの?
長期間の宇宙滞在、とりわけ無重量状態が人間の体にもたらす影響の調査と、そのマイナス面の防止策、太陽望遠鏡による太陽観測、コホーテク彗星の宇宙からの観測、学生から公募した、無重量を利用するさまざまな実験など多数おこないました。
1974年2月に有人滞在計画を終了し、1979年7月に大気圏突入して、消滅しました。
3.この宇宙ステーションにのりこんだ宇宙飛行士は?
スカイラブ2には、チャールズ・C・コンラッド、ポール・J・ワイツ、ジョセフ・P・カーウィン(1973年5月25日~6月22日。28日49分)、スカイラブ3には、アラン・L・ビーン、ジャック・R・ルースマ、オーウェン・ギャリオット(1973年7月28日~9月25日。59日11時間9分)、スカイラブ4には、ジェラルド・P・カー、ウィリアム・R・ポーグ。エドワード・ギブスン(1973年11月16日~1974年2月8日。84日1時間16分)がのりこみました。
スカイラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/06 09:01 UTC 版)
スカイラブ
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スカイラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 15:30 UTC 版)
「マクロス・ザ・ライド」の記事における「スカイラブ」の解説
ハクナとチェルシーのチームのスポンサー企業。惑星エデンの喫茶店から銀河ファミリーレストランの大手チェーン店まで成長した。イベントコンパニオンの派遣業務も手がけており、培養食品メーカーのリグ・シンセミートなどの関連企業を持つ。企業モットーは「文化と愛」。ユェイン・ラウはここの二代目社長。
※この「スカイラブ」の解説は、「マクロス・ザ・ライド」の解説の一部です。
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スカイラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 20:19 UTC 版)
飛びつき式のギロチンドロップ。スワンダイブ式で決めることもある。三代目超神龍時代はスカイハイというネーミングだった。
※この「スカイラブ」の解説は、「渡辺陽介」の解説の一部です。
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スカイラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 15:03 UTC 版)
詳細は「スカイラブ計画」を参照 1968年、アポロ計画の余剰品のロケットや宇宙船を使用して科学的探査を行うことを検討する、アポロ応用計画が発足した。計画の内容のほとんどは宇宙ステーション建設に集中し、また実際、それはスカイラブ計画となって実現することになる。スカイラブを打ち上げたサターンVはINT-21とも呼ばれる二段式ロケットで、アポロ計画の中で唯一月へと向かわなかったものであった。 初期の段階では、サターンIBでS-IVBを軌道上に打ち上げ、宇宙空間で使用済みの燃料タンクを居住区に改造する「湿式改造 (wet workshop)」方式が計画されていたが、後にこの案は捨て去られ、S-IVBを宇宙ステーションに改造したスカイラブを地上であらかじめ製作し、サターンVで軌道上に打ち上げる「乾式改造 (dry workshop)」方式へと変更された。実際にはサターンIBで使用される予定だった第二段がスカイラブに改造され、バックアップ用に製作されたサターンVの第三段は、現在はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。 スカイラブには1973年5月25日から1974年2月8日にかけて、都合三組(9名)の飛行士が滞在し、本体は1979年7月11日に大気圏に再突入した。 スカイラブは、当初はスペースシャトルが初飛行するまで軌道上にとどまってくれるものと期待されていた。シャトルのエンジンを使って軌道を上昇させ、将来的な宇宙ステーションとして使用することも検討されていたが、シャトルの初飛行が1981年にまでずれ込んでしまったため、実現しなかった。また現在の視点から振り返ってみれば、スカイラブは使用目的が限られており、改造したり部品を補充したりして使い続けることができるようには設計されていなかった。
※この「スカイラブ」の解説は、「サターンV」の解説の一部です。
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