シャンガム時代のパーンディヤ朝と諸外国による記録とは? わかりやすく解説

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シャンガム時代のパーンディヤ朝と諸外国による記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 20:57 UTC 版)

パーンディヤ朝」の記事における「シャンガム時代のパーンディヤ朝と諸外国による記録」の解説

パーンディヤ朝に関する最古の記録のひとつに紀元前3世紀マウリヤ朝アショーカ王による 紀元前273年から 同232年の間に刻まれ磨崖詔勅銘文挙げられる。またMinakshipuramで、ジャイナ教徒苦行用いるための石を切り出してつくった寝台の石に紀元前2世紀から1世紀同定できる銘文発見され、ネドゥンジェリアンが登場する同時期のパーンディヤ朝鋳造貨幣銘文にもこの王の名を見つけることができる。一方ヨーロッパ側にもメガステネスによるパンダイヤ伝承ヘラクレスが娘のパンダイヤにインド南部支配させ彼女の支配した地域もパンダイヤと呼ばれた。)やプリニウスによる女王伝承インドのパンダエ王国女王のおさめる国であるというもの)が残されている。これは、南インドに現在でも女性族長とする部族がいるが、そういった情報歪んだ形でヨーロッパ伝わったためと考えられている。ストラボンは、紀元前22年ローマ帝国パーンディヤ朝からの使者来訪したという記録残している。パーンディヤ朝は、最初コルカイというインド亜大陸南端にあった港の支配者であったが、やがてマドゥライ遷都した。 紀元後60年から 100年頃に書かれた「エリュトゥラー海案内記」には、パーンディヤ朝に関して豊富な記述をみることができる。例えば「ネルシンダ(Nelcynda)は、ムツリス(Muziris)と川を隔てた場所にあり、海辺から500スタジア離れた場所にある。そしてもうひとつ王国、パンディアンに属する町である。パンディアンは、川のそばに位置し、海から150スタジア離れた場所にある。」と書かれている。しかし、紀元前後から3世紀頃のパーンディヤ朝について詳しい記録残しているのは、やはり、パーンディヤ朝首都建てられ文芸院シャンガムの会員であった詩人たちによるシャンガム文学作品)やセイロン史料である。パーンディヤ朝君主たちは、伝説上の「シャンガム」学芸院を保護した伝えられパーンディヤ朝君主たちの中にもシャンガムの詩人がいたとされるシャンガム文学には、たくさんの詩人たちによってパーンディヤ朝の王たちの業績伝えられている。「タライヤランガーナム(Talaiyalanganam)の戦い勝利者」と呼ばれるネドゥンジェリアン、「アーリヤ軍の征服者」と呼ばれるもう一人のネドゥンジェリアンなどの王の業績がシャンガム文献の中で語られている。アカナヌール(Akananuru)やプラナヌール(Purananuru)の中に見られる短い詩だけでなく、10長詩パットウパットウに含まれるマスーライカーンシー(Mathuraikkanci)とネドゥナルヴァダーイ(Nedunalvadai)という2つ長大作品にもシャンガム時代呼ばれる1世紀から3世紀パーンディヤ朝社会様子商業活動垣間見ることができる。 ただし、シャンガム時代パーンディヤ朝におけるできごと正確な年代を知ることは非常に困難である。残存しているシャンガム文献時代すら決定するのが困難なのである例外なのは、いわゆるシャンガム時代より後の時代書かれたものであることで共通認識されている長編叙事詩であるシラヴァーティハーラムと仏教に関する叙事詩であるマニメーハライであって、これらの詩が、すばらしい名詩の形態をとりながら私たち歴史伝えてくれる。それぞれの詩からは、詩人記した本の奥付」にあたる「日付」や詩の主題になる出来事、詩に関係する王や族長の名前やその時代の業績について賛辞を見つけることができる。詩人援助した多くの王や族長の名前を詩の「日付」やまれに詩そのもの本文から見つけることができる。しかし、同時期の異なった王統お互いに付き合わせて並べてみるという作業は、史料混乱や「日付」の史料価値疑問を呈する研究者もいて、実証には非常な困難がつきまとっている。 紀元前43年から同29年までパーンディヤ朝セイロン支配したという記録2世紀にはチョーラ朝のカリカーラ王に従わされていたが、210年ごろの王であるネドゥンジェリアンがチョーラ朝ケララにあったチェーラ朝の連合軍破ったという記録がある。このようなパーンディヤ朝繁栄をささえたのは、スリランカインド南端海岸行われた真珠養殖で、当時世界で最高級真珠生産されていた。真珠取引中心としたローマとの海外交易で、パーンディヤ領内思しき遺跡からはおびただしいローマ貨幣出土をみることができる。シャンガム時代並行ないしややおそい時期諸外国記録として中国魚豢によって書かれ3世紀ごろの『魏略』に「盤越(上古音:bān-guad)」なる国について、「盤越国一名漢越王なり。天竺東南数千里に在りて、益部(益州)と相近し其の人小さきこと中国人等し。蜀人の賈(商人)至るが似(ごと)し。」との記述がある。パーンディヤ朝からベンガル湾渡ってイラワジ川遡って四川省に至るいわゆる西南シルクロード」の交易路存在示唆している。また ローマ帝国の「背教者」と呼ばれる皇帝ユリアヌス時代361年パーンディヤ朝からの使者訪れている。ローマ帝国交易センターは、パーンディヤ領のヴァイハイ川の河口で、マドゥライ南東位置するアラガンクラムにあったパーンディヤ朝は、プトレマイオス朝エジプト交易関係があって、プトレマイオス朝滅亡後エジプト経由してローマ通交があった。また前述のように3世紀中国とも通交があった。1世紀古代ギリシャ歴史家ダマスカスニコラウスは、初代皇帝アウグストゥス治世である西暦13年ダマスカスで、インドの王「パーンデォン」若しくは「ポールス」によって遣わされ使者会っている。

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