シャンギャンハダの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:52 UTC 版)
「サルフの戦い」の記事における「シャンギャンハダの戦い」の解説
一方、杜松の西路軍との合流を目指して北からサルフに向かっていた馬林の軍は、杜松が戦死した時、サルフの北にあるシャンギャンハダ(Šanggiyan hada)という地点にいた。3月2日、杜松軍壊滅の情報を得た馬林軍は、シャンギャンハダに後退して塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。 後金軍は火器への対策として、戦場で下馬した乗馬歩兵が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵が突撃をかけるという戦法を編み出しており、この戦いでもその作戦を採ろうとした。しかしシャンギャンハダに到着したヌルハチ率いる後金軍の本隊が、高地を占領して明軍の塹壕を上から攻撃しようとすると、明軍はこれを阻止しようと後金軍に攻撃をしかけ、後金軍が騎馬のまま突撃を敢行する乱戦となった。馬林と不仲な潘宗顔を司令官とする明軍の後方部隊は自陣を固めて馬林の本隊を救援しようとせず、まもなく馬林は敗走した。 続いて潘宗顔の陣を攻撃した後金軍は、下馬した兵によって敵の戦車を排除した後、騎兵の突撃を行い、潘宗顔も壊走させた。馬林・潘宗顔の敗報を聞いたイェヘの援軍は後金軍との戦いを放棄し、自国に撤退した。
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