グランディ決議
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グランディ決議(グランディけつぎ、伊:Ordine del giorno Grandi)とは、1943年7月25日、当時のイタリアの最高諮問機関であるファシズム大評議会において採択された、当時のイタリア王国の首相であるベニート・ムッソリーニに対する首相退任要求決議である。
- 1 グランディ決議とは
- 2 グランディ決議の概要
グランディ決議
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「グランディ決議」の解説
1943年7月24日、大評議会が開かれるにあたり、評議員資格を持つ者の中から28名が召集され、ヴェネツィア宮の「鸚鵡の間」に集まった。ヴェネツィア宮には200名の警察部隊と国家義勇軍1個大隊が警備任務に就いていたが、ムッソリーニ直属の衛兵部隊はローマ空襲に対する救助任務に送り出されていた。大評議会議長でもあるムッソリーニは緑色に染められた国家義勇軍の制服を身に着け、評議員達も黒シャツ隊式の夏服を纏っていた。部屋の中央に置かれた議長席の両脇には最古参幹部のエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、PNFにとって最後の党書記長となる第8代書記長カルロ・スコルツァ(イタリア語版)らが座り、残りの26名が順々に席を並べていた。この日、シチリア島の中心地パレルモが陥落したとの報告が入り、出席者達は重苦しい空気で会議を待っていた。 午後5時14分、ムッソリーニが「両半球図の間」から「鸚鵡の間」に移動して議長席に座ると、スコルツァが『統領へ敬礼』と呼びかけ、全評議員が立ち上がって『ア・ノイ(我らがもの!)』と唱和してローマ式敬礼を行い、評議会が開催された。 まず最初にドイツ軍の軍事行動についてムッソリーニが所見を述べ、戦局が「極めて危機的な状態にある」という事実を認めつつも戦争の継続を主張した。第一次世界大戦におけるカポレットの戦いを引き合いに出し、当時の政府が単独講和案を跳ね除けてローマからシチリアに遷都してでも戦い抜く決意を固め、遂には協商国の南部戦線を守り抜いたことを例に挙げている。また休戦や講和については連合国が戦いを挑んでいるのは「イタリアであってファシズムではない」と指摘している。グランディが提出を予定している決議案も単に状況を混乱させるだけのものであると一蹴しているが、『合議は拘束する』として決議の結果には従うとした。 ムッソリーニの後にはかつてのファシスト四天王であるデ・ボーノ元帥、チェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキ(イタリア語版)議員が発言したが、議論に影響する発言は避けている。元文化大臣ジュゼッペ・ボッタイは協商国と同じく枢軸国(ドイツ)はイタリアを十分に支援するとしたムッソリーニの主張を退け、状況から見て意義のある本土決戦は不可能であると主張した。むしろムッソリーニが暗に苦境を認めたことは継戦派の幻想を打ち砕く「大槌」であると述べている。そしてボッタイの次に発言の席に立ったグランディは「サヴォイア家に統帥権と憲法上の大権の掌握」を求める決議案を大評議会に提出した(グランディ決議)。グランディは基本的に現状の国家指導を批判する姿勢を取ったが、前述の通りムッソリーニにとっても有用であるという持論も述べている。ムッソリーニ個人への批判は行わず、全体主義体制構築のために選択された独裁制に批判の矛先を向けた。ムッソリーニとファシズムの高潔な理想は独裁と統制社会という現実の手法によって道を誤ってしまった、というのがグランディの言い分だった。グランディは「かつての貴方に、我らのムッソリーニに、我々が付き従ったムッソリーニに戻って欲しい」と語り、最後に「ドゥーチェ、我々とあらゆる責任を分け合いましょう」という言葉で演説を終えた。 次に発言したのは娘婿の外務大臣ガレアッツォ・チャーノだった。チャーノもまたムッソリーニを批判することはせず、ドイツの破滅的で専横的な戦争計画への批判を行った。特に自身も締結に関与した鋼鉄条約に「1942年まで両国は戦争を回避する」という条文をドイツが破った時点で、最初から独伊間に外交上の信義などないと指摘した。チャーノは「我々は裏切り者ではない。我々の方こそ裏切られたのだから」と語り、同盟破棄についていかなる歴史家の否定的評価も恐れる必要はないと述べている。一方、継戦派・親独派の評議員である元党書記長ロベルト・ファリナッチは王家に大権を返却することでより団結した指導体制の構築するというグランディの提案に賛同した。ただし休戦や講和を取りまとめることを意図していたグランディと違い、戦争継続に向けてサヴォイア家を抱き込むためであった。 議論は真夜中にまで及び、冷房もない宮殿に滞在する評議員には明らかに疲れの色が滲んでいた。動議に最初賛成したのは10名程度だったが、延々と続く議論の中で評議会出席経験がなく議論に不慣れな人々へのグランディによる執拗な説得が展開され、全会一致の方向へ進み始めた。ムッソリーニが評議員の疲労を考慮して議論を翌日に再開すると発言すると、グランディが食い下がったために結局は30分の休憩を挟んで再開となった。覇気に欠けるムッソリーニは対抗した根回しを行うことはなかったが、その代わり、再開された評議会でムッソリーニは国民と党の間の亀裂を協調するグランディに「決議が通れば党はその亀裂に飲み込まれる」と強く批判する演説を行った。この演説は決議案の意味について評議員達に再考を促す結果を齎し、決議賛成に傾いていた一人である書記長スコルツァを翻意させることに成功した。スコルツァはムッソリーニとPNFを中心としたファシズム体制への回帰を主張する新たな動議を提出し、グランディやボッタイらを驚嘆させた。 他に複数の評議員が賛成を取り消しはじめ、グランディは急遽議論を切り上げて決議を要請した。ムッソリーニは議決を取るか取らないかの権限すらあったが、支持が戻りつつあるにも関わらず議論を続けず、スコルツァに命じて決議を取らせた。議決の結果は28名中、賛成19名・反対7名・棄権1名となり、サヴォイア家への独裁権返上を求める決議は可決された。ムッソリーニは黙々と書類を整理しながら「これでファシズム体制は危機を迎えた」と発言して席を立った。 グランティらに説き伏せられて動議に賛成票を入れた中立派の殆どは動議の意味する結果が理解できておらず、議案の結果を周囲に尋ねたり、ムッソリーニへ敬礼するなどしている。
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