奄美群島の歴史 琉球時代

奄美群島の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 08:00 UTC 版)

琉球時代

1266年、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されている。これは南端の与論島の事であると言う説(与論町史[20])と、交易の存在を元にした創作説とがある[注釈 5]

前述(按司世)の通り13世紀までの奄美群島・琉球は按司が割拠、相互に合従連衡や衝突が続いたが、その一方で琉球は次第に按司が糾合し三山王国を建て発展し琉球側が優勢となって来たと考えられ、実際に14 - 15世紀頃から琉球勢力の影響が奄美群島にも及び始める。

三山や、15世紀半ば成立の琉球王国は日本・中国(明)との中継貿易を盛んに行っており、奄美群島地域を巡っても現地勢力、琉球勢力および海商や倭寇、大和勢力との衝突が繰り返されたと考えられる。

琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している[注釈 6]。なお、三山時代から琉球に征服を受けるまでの間、喜界島は琉球の勝連按司の勢力下にあったとされる(「喜界町誌」)。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏1416年北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国によって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年第一尚氏4代尚思達王が奄美大島を征服。1450年から1462年まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。

琉球でも1458年天順2年)、喜界島の利権を巡って護佐丸・阿麻和利の乱が起き、最終的に尚徳王が全権を掌握する。1466年に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置き、琉球の版図とした。

しかし外征続きで、当時の国情を無視した膨張政策によって中山は人心を失い、尚徳が早世したのち首里で群臣のクーデターにより尚円王が擁立、王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代した。

琉球王国の大島支配体制は、全域支配の成った1466年成化2年)、那覇に泊地頭[注釈 7](泊港)を置き、奄美群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また、琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見している(『親基日記』)。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。

朝鮮王朝実録』の「成宗実録」成宗二十四年(1493年)条には、琉球と「日本甲船」が奄美で紛争となり、琉球が勝利したと記されている。「日本甲船」が大和のいずれの勢力か、あるいは九州船商の部隊、倭寇のいずれかは不明である。

15世紀末から16世紀に入ると、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれる。この頃から大島でも間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子や、その配下の与人・目差・掟・里主などを置いた。数多の家譜にその記録が現在も残っている。

一例をあげれば、末裔の愛加那で有名な笠利家の祖笠利為春が1504年に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋子となっており、2代当主・為充が東間切首里大屋子に、第3代・為明が笠利間切首里大屋子に任命され(1568年)、為充・為明の琉球王からの任命書が現存している。

奄美群島は琉球の泊地頭[注釈 7]により管轄されたが、現地豪族として徳之島の大按司が与論島、沖永良部島をも、奄美大島の大按司が喜界島および大島周辺島(加計呂麻、請、与路)をも管轄した。

しかし奄美群島一円を制圧した後も在地豪族による琉球への従属や反乱の離合集散が相次ぎ、琉球からは度々外征を受け鎮圧され、琉球は親方を派遣しての直接統治に乗り出した。喜志統(きしとう)親方は那覇首里の喜志統親雲上であり、1522年に笠利大屋子[注釈 8]として大島の笠利間切に赴任し、琉球王府派遣役人の家系・喜志統として代々大島の笠利を治め、6代恩太良肥の時代に薩摩侵攻(1609年)を受けている。

また、第二尚氏4代尚清王1497年弘治10年) - 1555年嘉靖34年))の頃、大島の有力な大親に与湾大親( - 1537年)が居たが他の大親に讒言され失脚、後に名誉回復される。

また、1571年にも大島で大規模な反乱があり尚元王により鎮圧されている。この反乱では先の与湾大親の子孫が武功を挙げ馬氏として琉球にて興る。鎮圧の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。[21]

大島において祭政一致政策の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を版図に収める事ができた要因として、王国権勢の相対的拡大、および室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げられる。

日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心および影響力は次第に衰微した。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したとも言える。

例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩大隅の守護を務める島津氏や、種子島氏などは交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。

しかしこの時代は本土では室町時代から戦国時代に至る期間であり、島津氏も一族内や近隣領主、さらには九州島内での抗争や戦争に明け暮れ、南島の情勢に際し渡海遠征などは現実的でなかった。

16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。

1587年天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、秀吉から琉球に課された琉球軍役(兵糧米)を薩摩が半分肩代り(琉球は半分を負担)した事などを理由として、琉球王国に対する圧力を更に強めていった。

琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。


注釈

  1. ^ a b なお九州島(太宰府)の出先は筑前国の博多や、肥前国の彼杵半島(松浦)や五島列島薩摩半島の一部(阿多郷)などである。
  2. ^ 1305年嘉元3年)の称名寺所蔵行基図14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』共に、南島の領域として「龍及國」と記されている。
  3. ^ つまり近世に造り出された寓話・逸話的なものではなく
  4. ^ 1306年嘉元4年)
  5. ^ 当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。
  6. ^ もっとも、生産の終焉については、琉球王国の成立による交易の活発化で中国産磁器との競争に敗れた(またその事は同勢力の弱体化に繋がる)、琉球王国の征服によるものか等、諸説あるがまだ確定はしていない。
  7. ^ a b 自奥渡上之捌理(おくとよりうえのさばくり)」(奥渡より上の捌理)と言う役職が元である
  8. ^ 嘉靖之始大島之内笠利間切大屋子職。 大島最古の琉球辞令書は「笠利間切宇宿大屋子辞令書」(1529年(嘉靖8年))。
  9. ^ 例として、明治期まで琉球の間切制度が温存されて国郡制や薩摩藩本土の外城・郷・門割といった制度は導入されず、公的な地図(例:元禄国絵図天保国絵図)においても琉球国の一部とされた。
  10. ^ 琉球王国領域からの形式上の離脱は、1872年(明治5年)新暦10月16日琉球藩の設置時点か、それとも1879年4月4日の琉球処分時点かで議論がある。また、本土廃藩置県(明治4年11月14日太政官布告(第595) ウィキソース「小倉縣以下十一縣ヲ置キ管地ヲ定ム」)には「鹿児島県 薩摩国一円 外琉球国」とあるため、本土廃藩置県の時点で編入されたとする見方もできる(その場合、日本と琉球王国との二重編入状態となる期間がある)
  11. ^ 『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事』

出典

  1. ^ 中山清美、「兼久式土器分類試論 : 奄美大島マツノト遺跡出土土器を中心に」『先史琉球の生業と交易 -奄美・沖縄の発掘調査からー』巻2、pp171-178、2006年、熊本、熊本大学 [1]
  2. ^ 高宮、伊藤編(2011年)pp.196 - 198
  3. ^ a b 大木(2005)
  4. ^ a b 義富(2007)
  5. ^ 安里(1996)
  6. ^ a b 木下(2002)
  7. ^ a b 安里(2013)
  8. ^ 高梨(2005)
  9. ^ a b c d e f 中村(2014)
  10. ^ 安里(2013)
  11. ^ 中村(2014)
  12. ^ a b c 安里(2013)
  13. ^ 山極(2015)
  14. ^ 知名町教育委員会(2011)
  15. ^ 漂到流球国記 (寛元元年9月・有絵・2年5月・6月) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム”. shoryobu.kunaicho.go.jp. 2020年2月29日閲覧。
  16. ^ 東喜望 (2001). “南西諸島の平家・源氏伝承”. 白梅学園短期大学紀要 37: A13-A28. 
  17. ^ 高宮、伊藤編(2011年)pp.204 - 205
  18. ^ a b 安里(2013)
  19. ^ a b 『国指定史跡小湊フワガネク遺跡 小湊集落の歴史と文化』(2014年)奄美市教育委員会
  20. ^ 歴史・伝統文化 / 与論町ホームページ”. www.yoron.jp. 2018年12月21日閲覧。
  21. ^ 奄美諸島編年史料 古琉球期編上
  22. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達[注釈 11]
  23. ^ 鹿児島県. “奄美の世界自然遺産登録”. 鹿児島県. 2023年3月29日閲覧。
  24. ^ Centre, UNESCO World Heritage. “Amami-Oshima Island, Tokunoshima Island, Northern part of Okinawa Island, and Iriomote Island” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年3月29日閲覧。
  25. ^ 十島村公式サイト「十島村略年表」
  26. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、140頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  27. ^ 「いくらなら本土と同じ生活が…」両陛下、奄美への思い”. 朝日新聞DIGITAL (2017年11月16日). 2022年6月18日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奄美群島の歴史」の関連用語

奄美群島の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奄美群島の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの奄美群島の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS