黄遵憲 黄遵憲と日本

黄遵憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 02:08 UTC 版)

黄遵憲と日本

同文同種の日本?

黄遵憲と日本の関わりは深く、日本での体験は彼の人生・思想に大きな影響を与えている。外交官となって諸外国を巡っているが、最も関わりの深い国は日本であったろう。日本とは国益をめぐって激しい対立を演じたが、一方で多くの知己を得た。その知己を通じ得た情報をまとめあげ中国に日本がどういう国か紹介もしている。また清朝の改革にあたって明治維新に倣うべき点があると考え、同志の康有為や梁啓超にも影響をもたらした。黄遵憲は近代における知日家・親日家の先駆ともいうべき人物なのである。

とはいえ、彼も来日当初から知識や親しみを持っていたわけではない。当時の中国の人々のそれとさして変わりないものであったであろう。古くから国交があることは知っていても、それは文字の上だけに過ぎず、またそれも全く十分なものではなかった。よって最初は中華思想的発想から、日本の文化は中華文明の亜流、もしくは同文同種といった程度の認識しか黄遵憲は抱いていなかったのである。そうした人物が直接体験によって異文化を見いだしていくことはごく自然の成り行きであった。

駐日公使たちが日本の土を踏んだのは、明治維新よりおよそ十年後であるが、その当時の日本は官民一体となって西欧化に取りくんでいた時期であって、黄遵憲はまずその点に厭でも気付かざるを得なかった。黄遵憲は、頑固な保守派ではない。したがって富国強兵殖産興業については何らわだかまり無く納得できた。しかし明治になって日本人の服装をはじめとする文化・習慣は一変したが、こうした変革、すなわち文明開化を目の当たりにするとき、黄遵憲には文化の源流たる中華を蔑ろにし、西欧文明に心を売りわたしたとしか考えられなかったのである。

漢学者と桜

ただ黄遵憲が当初文明開化に否定的だったのは、中華思想のみが原因だったわけではなく、彼が親しくしていた日本人にも同様な考えを持つ者が多く、それに影響されたのも一因である。一流の文化人で構成されていた公使団のもとには伊藤博文や榎本武揚大山巌といった政府の要人や、あるいは宮島誠一郎明六社(めいろくしゃ)同人の中村正直も訪れるなど、一時期公使館詣が流行したほどであったが、ごく親しくつきあったのは西欧化に批判的な漢学者たちであった。たとえば大河内輝声(おうごうちてるな、源桂閣と号す)や石川英(鴻斎、石川丈山の九代目子孫)、岡鹿門(千仞)、重野安繹(成斎)、青山延寿(鉄槍、『大日本史』編纂に関わる)、亀谷行(省軒)、巌谷修(一六)といった人々が足繁く公使館を訪ねた。彼らは西欧文明に全くの無理解というわけではなかったが、少なくとも批判的であった人たちと言わねばならない。なおこのうち中村や重野ら幾人かはアジアの提携振興をめざす団体、興亜会に参加している。

大河内輝声

黄遵憲は日本語を話せなかったので、その意思疎通は漢文による筆談によって文化交流が図られた。当時の日本の知識人たちは、文の善し悪しは別として普通に漢文の読み書きができたため、これが可能であった。筆談は多岐にわたるが、漢学者たちは公使館を訪れるたびに詩文の批評・添削を請うたり、著作への序文を求めたりすることが多かった。黄遵憲の批評は率直で、やや手厳しかったようだ。しかしそれは悪意から瑕疵を指摘したのではなく、胸襟を開き真摯な態度で、見せられた詩文に臨んだからに他ならない。序文を寄せたものとしては、たとえば『日本文章規範』(石川英編)、『明治名家詩選』(村上佛山校閲・城井錦原修纂)などがある。

漢学者のうち大河内輝声は特に関わりが深かった人である。彼は元高崎藩藩主であるが、数日に一度は公使館を訪れていた。その際の筆談記録は見つかったものだけで71冊(厚さ134cm)にものぼり、当時の日中交流を探る上で貴重な資料となっている。その大部分は大東文化大学 大河内文庫に所蔵されている。また『日本雑事詩』の初稿を保存したいと黄遵憲に求め、自宅に日本雑事詩最初稿塚を造ってそれを収めた。今その塚は野火止の平林寺に移築されている。

しかしそうした人々とのつきあいが多くとも、日本で暮らしていれば次第に単なる同文同種で片づけられない異文化としての日本が顔をのぞかせてくる。たとえば貧しく質素であっても庭木を愛する素朴な庶民、客が訪ねくれば細やかな気配りをする妻女、そして積極的に海外のことを知ろうとする日本人の好奇心など、黄遵憲は日本の美点を素直に認め賞賛している。特に彼が愛した日本の風習は花見であった。在日期間中、さきの漢学者たちと連れだって毎年欠かさず花見を行い、桜を織り込む詩文も残している。たとえば隅田川での花見の詩に「東皇第一に桜花を愛す」(東皇とは春の神)と詠み、その解説において「墨江の左右、数百樹有り、雪の如く霞の如く、錦の如く荼の如し。余一夕の月明かり、再びその地に遊べば、真に身を蓬萊の中に置くが如し」と述べている。実は日本人が桜の花見を非常に好むことを中国に広めたのは黄遵憲であった。

認識の深化

中国とは異なる日本固有の美点を見出すこと、それは翻って故国との対比を促し価値観が多元化するきっかけとなった。その結果黄遵憲の中の中華思想は徐々に動揺させられ、中華はその文化・文明の影響を他国に及ぼすだけの一方通行的存在から相互に影響を受ける存在へと徐々に変化していく。また服装等の文化を一変させるような文明開化が明治維新と一体不可分であり、それによって日本が富国強兵を達成しているという眼前の事実を黄遵憲は認めざるを得なくなるのである。苦悩の末に彼は附会説を採用することにより中華思想と現実を融和させる。つまり彼は西欧の学問とは、墨子の学が西に伝播して発達したものだと考えることにより、そうした西欧に追随する日本の改革を是認する方向へと思考を改めるに至る。こうした理解を後世の我々が浅薄として笑うのは容易い。しかし当時いかに中華思想が強固なイデオロギーであったかを想起するとき、そして生まれた瞬間からその影響下で育ってきた黄遵憲の前半生を知るとき、そこから半歩足を踏み出すのにも多大な努力を要したことに思い至るであろう。その点で黄遵憲の思想的苦闘は評価されてよい。

以上のような認識の深化が明確に形を為すのは、日本を離れアメリカ駐在を経て得られたものであった。日本滞在中はまだ文化面における欧化主義に批判的な意識が残っていたようだ。そのため当時を代表する知識人であった中村正直(ベストセラー『西国立志編』や『自由之理』の著者)と交遊しながら、その思想に感銘を受けた様子はみられない。しかし日本が注目すべき国であるという認識はすでに滞在中から黄遵憲は抱いており、それに伴いあまりに明治日本の実情が中国に知られていないことを憂慮していた。また在日期間中特に黄遵憲の関心をもったのは、日本の富国強兵政策である。故国が内憂外患を抱えて四苦八苦する現状を憂えていた彼は、以前より如何に改革すべきかということが頭より離れなかったため、明治維新を参考にしようという使命感にとらわれた。そうした考えから日本の資料を友人の漢学者や宮島誠一郎に依頼して収集し、編纂したのが『日本国志』と『日本雑事詩』なのである。

『日本国志』の編纂

『日本国志』が一応の完成を見たのは1887年(光緒13年)である。作った四部のうち一部を手元に留め、のこりは総理衙門や李鴻章、張之洞に提出した。1890年(光緒16年)には版木に付されたものの刊行されず、実際に印刷したのは1895年(光緒21年)である。時あたかも日清戦争の敗戦後であって、明治日本の情報が渇望されていた時期であった。この書によって日本及び明治維新がどういうものであったか広く知られるようになったのである。日清戦争の賠償金は二億両であったが、そのために「此書早く布けば、歳幣二万万を省かん」(前述袁昶の言)、つまり『日本国志』が早く知られていれば、(いたずらに戦争を求める人たちを黙らせ)賠償金二億両を支払わずとも済んだものを、と嘆息されたことは有名。

日本国志(光緒24年上海図書集成印書局)表紙

体裁は『通典』や『通志』に則り、構成は以下のようになっている。「中東年表」(中国と日本年号対照表)、「国統志」(日本史)、「隣交志」(外交史)、「天文志」、「地理志」、「職官志」(官職)、「食貨志」(財政)、「兵志」、「刑法志」、「学術志」、「礼俗志」(社会風俗)、「物産志」、「工芸志」。全40巻、総字数50万字強。日本語に翻訳するならばその数倍の字数が必要となることは言うまでもない。

体裁や構成は伝統にしたがってはいるものの、その中身は大きく異なる。この著作の特徴としてまず挙げねばならないのは、その編集方針である。それまでに編まれていた他の海外地理書とは違い、『日本国志』は自民族中心的な部分が無く、事実の記載を重視する。また事実を記載する上でも古き時代よりも新しい時代、特に幕末から明治を詳しく叙述している。そして事実を記した後、「外史曰く」ではじまる黄遵憲の評論を付しているが、そこでは時に祖国との対比がなされている。これは比較によって明治日本を手本とした改革の道筋を示さんがためであった。また見た目も工夫が施され随所に数字や統計、表が用いられ、日本や欧米の書物の良いところを取り入れようとしたようだ。

この『日本国志』は二つの役割を持っていた。まず改革の手本を示すこと、そして明治日本の現状紹介である。前者について言えば、五箇条の御誓文廃藩置県秩禄処分地租改正等は無論触れられており、制度改革全般、政治・経済・軍事・文化問わず細かく述べている。後者の現状紹介は、単なる紹介というよりも必然的に改革の結果を示す形となっている。

この『日本国志』は日清戦争後にあっては、非常に大きな影響があったと言わねばならない。中国における明治維新観を決定づけたばかりか、それに範を取った改革、戊戌変法を推進する原動力の一つともなったからである。戊戌変法を推進した康有為・梁啓超ら変法派は改革案の立案に際しこの書から着想を得ている。たとえば康有為には光緒帝に献呈した『日本変政考』という書物があり、この書は光緒帝が改革を決意するきっかけとなった書でもあるが、この書の中には『日本国志』からまるまる引用された箇所があって、日本の実情を示す際の根本資料として『日本国志』が扱われている。具体的な政策のモデルとしてだけではなく、『日本国志』の中の尊皇攘夷運動についての記述は、改革の必要性を切に感じていた清末の青年、たとえば譚嗣同や唐才常といった変法派に属しながら革命志向があった者達に、強い共感をもって読まれた。大久保利通木戸孝允といった明治の元勲の名前は当時にあっても『日本国志』によってよく知られた名前だったのである(『人境廬詩草』巻三には「近世愛国志士歌」という幕末志士を称える詩もある)。

同に亜細亜に在り

黄遵憲について語られるとき、ほとんど必ず「愛国者」と「日中友好を唱えた人」といった類のことばがついてくる。近代の日中関係史を紐解くとき、この二つがなかなか両立しがたいことに気付くが、彼には違和感なくこれらのことばが同居する。外交官として国益を守るために強硬な態度で日本政府との交渉に臨んだが、日本人に憎悪されることなく、伊藤博文からは逆に敬意をもたれるような人柄であった。戊戌変法末期に日本公使に採用されたのも、日本側からの要請があったためである(ただし公使として赴任前に政変が発生し、渡日できず)。明治維新を高く評価し、その成功を中国にも率先して伝えようとし、また晩年には一族の若者や門弟を日本に留学させるなど、親日的である点は終生変わらなかった。以下に示す詩にあるように黄遵憲は、日中が手を結び、共に西欧列強に対抗することを夢見ていたのである。詩「陸軍官学校開校礼成賦、呈有栖川熾仁親王」(陸軍官学校開校の礼に賦を成し、有栖川熾仁親王に呈す)に次のような一節がある(陸軍官学校は陸軍士官学校を、有栖川熾仁親王は有栖川宮熾仁親王を指す)。

「陸軍官学校開校礼成賦、呈有栖川熾仁親王」後半の一部を抜粋



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