同に亜細亜に在り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:38 UTC 版)
黄遵憲について語られるとき、ほとんど必ず「愛国者」と「日中友好を唱えた人」といった類のことばがついてくる。近代の日中関係史を紐解くとき、この二つがなかなか両立しがたいことに気付くが、彼には違和感なくこれらのことばが同居する。外交官として国益を守るために強硬な態度で日本政府との交渉に臨んだが、日本人に憎悪されることなく、伊藤博文からは逆に敬意をもたれるような人柄であった。戊戌変法末期に日本公使に採用されたのも、日本側からの要請があったためである(ただし公使として赴任前に政変が発生し、渡日できず)。明治維新を高く評価し、その成功を中国にも率先して伝えようとし、また晩年には一族の若者や門弟を日本に留学させるなど、親日的である点は終生変わらなかった。以下に示す詩にあるように黄遵憲は、日中が手を結び、共に西欧列強に対抗することを夢見ていたのである。詩「陸軍官学校開校礼成賦、呈有栖川熾仁親王」(陸軍官学校開校の礼に賦を成し、有栖川熾仁親王に呈す)に次のような一節がある(陸軍官学校は陸軍士官学校を、有栖川熾仁親王は有栖川宮熾仁親王を指す)。
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