道徳 道徳判断

道徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 08:40 UTC 版)

道徳判断

人は何が良い行い(道徳的)で、何が悪い行い(非道徳的)なのかを判断することができる。道徳心理学者と道徳哲学者の議論の中心の一つは、何が道徳判断を導いているのかであった。ジャン・ピアジェローレンス・コールバーグは、道徳判断は理性の産物であり、子供は経験学習によって理性的判断を発達させると考えた。一方ジェローム・ケーガンのような認識直観主義の心理学者は、道徳判断が自動的に、瞬時に行われ、理性よりも直観感情に密着していると仮定した。

直観主義者は、花を見て「赤い」と感じるのと同じように道徳判断を“感じる”のだと主張した。直観的判断のモデルは、大まかに次のように分類することができる。

  • できごとを認識すると、感情が道徳判断を行うエージェントを呼び起こす。デイヴィッド・ヒュームが唱え、近年では神経学者アントニオ・ダマシオや心理学者ジョナサン・ハイトが支持した。
  • できごとを認識すると、感情と理性が平行して道徳の推論と判断を行う。ヒュームとカントの折衷モデルといえ、神経哲学者ジョシュア・グリーンによって支持された。
  • できごとを認識をすると、意識的な解釈が行われ、その解釈が道徳についての直観を呼び起こし、感情と理性的推論を生成する。政治学者ジョン・ロールズが唱え、マーク・ハウザーが支持している。

道徳判断は、社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。いくつかの感情、例えば同情、罪の意識、怒りは、道徳判断の中心をなすが、他の感情も道徳判断に関連している。しかし、明確に道徳判断に関連する脳の部位はないようである。道徳判断は、記憶が脳の様々な部位を利用するように、感情や認識などの細かな領域を利用しているようである。

人間の道徳判断は、常に一貫しているわけではない。後述のトロッコ問題では、わずかな状況設定の変化によって、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。友人から金を盗む行為は非道徳的だと感じるが、先日その友人から金を盗まれていたのだと聞けば非難は弱まるか消え去る。見知らぬ人への危害よりも、自分自身や知人への危害のほうが強い憤りを呼び起こす。殺人を極めて非道徳的だと考えながら、同時に死刑制度を強く支持する人も少なくない。復讐は道徳的な大義名分を要求する。逆に言えば、大義名分は報復の正当性を人々に納得させる。戦争や部族抗争の研究によれば、加害者は必ずと言ってよいほど、相手が不当だという憤りを標的に対してもっている[9]

フィリップ・ジンバルドーは、監獄実験で、与えられた仮想的な役割に従って、看守役の一般人が囚人役の一般人を虐待することを示した。スタンレー・ミルグラムは、服従実験で、一般人の道徳心が権威に屈することを示した。ミルグラムによれば、単に権威によって指示されるだけでなく、相手の顔が見えない、過失が相手側にあるというような付加的条件の下では、より道徳心が働きにくいようである。また、死を意識させるような文章を読ませられるだけで、その後の道徳判断に影響が出る。見知らぬ人への敵意をかき立てられ、道徳違反者へはより厳しい罰を求めるようになる[10]。これは恐怖管理理論と呼ばれている。

道徳と罰

「道徳を守ることは正しいことである」と広く考えられており、「なぜ殺人はいけないのか」「なぜ人を不幸に陥れてはいけないのか」というように道徳に対して疑問を示すこと自体が非道徳的であると嫌悪されることもある。我々は、直接自分に関係がない場合であっても他人の行動を気に掛け、道徳と規範に従っているかに注視する。道徳に反する行為は、通常、本人に罪悪感を、それを目撃した第三者には嫌悪感怒り報復など強い感情的反応を引き起こす。また慣習的規範よりも、通文化的な道徳的規範のほうが憤りは激しい。さらに、違反者に対して寛容な態度を取る者へも同様の憤りを引き起こす。

人は非道徳的な行為の犠牲者になったり、それを目撃した場合に、一般的にその行為者を処罰したいという強い願望をもつ。マナーやエチケット、慣習的規範への違反は軽率で粗野だとみなされるだけであるが、道徳的規範への違反は、処罰の欲求を呼び起こす。政治学者フィリップ・テトロックによれば、規範への違反を目撃し、違反者が罰を逃れていると考えるとき、人は違反者への加害を抑制する道徳心の閾値を切り下げるようである。そして厳しい処罰を要求し、違反とは関連のないことにまで判断が影響する。例えば、違反者の曖昧な態度をより敵対的とみなすようになり、不可抗力の要因の役割を割り引いてみるようになる[11]

マーク・ハウザーとファレイ・カシュマンはトロッコ問題などを利用し、どのような原理が道徳判断(特に危害に関する)に影響を与えるのかを調査した[12][13]。彼らによれば、

  • 行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬようなできごと)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される。
  • 意図の原理:意図をもってとった行動は、意図をもたずにとった行動よりも非道徳的だと判断される。
  • 接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される。

心理学者ジョン・ダーレーによれば、大学生の被験者は刑罰の抑止力を考慮するよりもその犯罪にふさわしいと思われる刑罰を望んだ。刑罰の抑止力を考慮するよう注意された後でも、やはり「因果応報」である処罰を望んだ。「罰が課されない限り、社会と被害者は正義が執行されなかったという感覚をもち続ける」。彼は『なぜ罰するのか?:罰の動機としての抑止力と因果応報』と題された論文で、処罰の欲求は犯罪抑止力に関する要因(例えば犯罪の露見可能性や社会的影響)とは関連が薄く、人々はより単純に罪の重大さをランク付けし、もっとも深刻な犯罪にはその社会でもっとも重い罰(例えば追放終身刑死刑拷問を伴う死刑)を与えなければならないと考えるのだと結論した[14]


  1. ^ 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版. “道徳(どうとく)とは”. コトバンク. 2020年7月27日閲覧。
  2. ^ ピーター・シンガー著、山内友三郎、塚崎智監訳『実践の倫理』新版、昭和堂、1999、p. 6.
  3. ^ Jonathan Haidt and Craig Joseph, Intuitive Ethics: How Innately Prepared Intuitions Generate Culturally Variable Virtues, Daedalus, 133, 4, 2004.
  4. ^ 「韓国が歴史問題にあんなにしつこい」深い理由(東洋経済オンライン)”. Yahoo!ニュース. 2022年8月1日閲覧。
  5. ^ M. S. Tisak and E. Turiel, Children's conceptions of moral and prudential rules, Child Development, 55, 3, pp.1030-1039, June 1984.
  6. ^ Richard A. Shweder and Jonathan Haidt, The Future of Moral Psychology: Truth, Intuition, and the Pluralist Way, Psychological Science, 4, pp.360-365, Request Paper, 1993.
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  8. ^ Children Prioritize Humans Over Animals Less Than Adults Do”. 20220912閲覧。
  9. ^ スティーブン・ピンカー著、山下篤子訳『人間の本性を考える』下、NHKブックス、2004, p.65-66.
  10. ^ Rosenblatt, Abram, et al. "Evidence for Terror Management Theory I: The Effects of Mortality Salience on Reactions to Those Who Violate or Uphold Cultural Values." Journal of Personality and Social Psychology, 57, 1989, pp.681–690.
  11. ^ J. H. Goldberg, J. S. Lerner, and P. E. Tetlock, Rage and reason: The psychology of the intuitive prosecutor, European Journal of Social Psychology, 29, pp.781-795, 1999.
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  13. ^ Fiery Cushman, Liane Young, and Marc Hauser, The Role of Conscious Reasoning and Intuition in Moral Judgment : Testing Three Principles of Harm, Psychological Science, 17, 12, pp.1082-1089, 2006.
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  16. ^ a b M. Hauser and P. Singer, Morality without religion, Free Inquiry, Dec. 2005; Project Syndicate, Dec. 2005.
  17. ^ Scott Atran and Ara Norenzayan, Religion's evolutionary landscape: Counterintuition, commitment, compassion, communion, Behavioral and Brain Sciences, 27, 2004.
  18. ^ Alan Macfarlane(アラン・マクファーレン),Japan Through the Looking Glass,2007, Profile Books, page194
  19. ^ Lafcadio Hearn,Japan:An Attempt at Interpretation,1904,Dodo Press,page54,138
  20. ^ John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281,ジョン・ダワー、敗北を抱きしめて、下巻、8ページ、2001年、岩波書店
  21. ^ J. Haidt and J. Graham, When morality opposes justice: Conservatives have moral intuitions that liberals may not recognize., Social Justice Research, 20, 98-116, 2007..
  22. ^ フランス・ドゥ・ヴァール著、西田利貞、藤井留美訳『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』草思社、1998.(原題 "Good Natured")
  23. ^ Dogs Understand Fairness, Get Jealous, Study Finds, NPR News, Dec. 9, 2008 at 12:16am.
  24. ^ アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳『生存する脳―心と脳と身体の神秘』講談社、2000.(原題 "Descartes' Error")
  25. ^ J. Greene, L. Nystrom, A. Engell, J. Darley and J. Cohen, The Neural Bases of Cognitive Conflict and Control in Moral Judgment, Neuron, 44, 2, pp.389-400, 2004.
  26. ^ P. M. Churchland, Toward a Cognitive Neurobiology of the Moral Virtues, Topoi, 17, 2, Sept. 1998, pp.83-96.
  27. ^ Jonathan Haid, Moral psychology and the misunderstanding of religion, www.edge.org, 2007.
  28. ^ Circi, Riccardo; Gatti, Daniele; Russo, Vincenzo; Vecchi, Tomaso (2021-08-01). “The foreign language effect on decision-making: A meta-analysis” (英語). Psychonomic Bulletin & Review 28 (4): 1131–1141. doi:10.3758/s13423-020-01871-z. ISSN 1531-5320. https://doi.org/10.3758/s13423-020-01871-z. 
  29. ^ J. Haidt and C. Joseph, The moral mind: How 5 sets of innate moral intuitions guide the development of many culture-specific virtues, and perhaps even modules., in P. Carruthers, S. Laurence, and S. Stich (Eds.), The Innate Mind, 3, 2007.
  30. ^ Jonathan Haidt, The New Synthesis in Moral Psychology, Science, 316, pp. 998-1002, May 2007






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