道徳
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道徳と政治
道徳は、政治的に利用されることもある。為政者に都合の良い教えを道徳とし、社会的な規範とすることによって人民を容易に拘束できるので、封建社会や(禁欲主義・精神主義志向の強い)社会主義国家、権威主義・全体主義国家などでは領民を精神面で押さえつけることに利用された。
現代では、自分の属する社会への奉仕は愛国者と称賛され、集団に従わない場合は不道徳な非国民と非難されることもある。また、近代以前の社会(特に東洋)においては、法律と道徳・慣習的規範の未分化状態が長く続いていた。また、中近東諸国では、ムタワと呼ばれる、法的拘束力をもって道徳面での国民の教育・取り締まりを担う組織も存在する。
日本では、江戸時代に、荻生徂徠が道徳と法の明確な分離を主張し、以後、国学に継承されていった。
道徳性の議論
道徳哲学
現存するもっとも初期の道徳の存在を示す証拠は、ハンムラビ法典のような法律と禁止のリストである。またホメロスやイソップ物語のように、登場人物自身が道徳的振る舞いをすることによって人々に道徳を教える逸話的な物語も多い。孔子やブッダ、トマス・アクィナスの教えも、逸話や警句として人々に伝えられた。このような中世以前の道徳教育は、美徳や宗教と関連し、原理や合理性よりも直観や感情に訴え、実行と習慣を強調していた。
西洋では18世紀以降、啓蒙主義者たちが特定の集団の価値観や宗教に依存しない道徳基準を探し始めた。大きな流れの一つが、カントの義務論に代表され、広義にはロックやホッブスの社会契約説も含まれる形式主義的倫理である。もう一つは、ベンサムに代表される功利主義を含む帰結主義的倫理である。形式主義は、その内容よりも、形式論理への言及によって道徳的判断を行う。帰結主義は、予測される行動の結果によって道徳判断を行い、最高の結果をもたらすものが優れた道徳判断だとみなされる。この二つに共通するのは、道徳的判断は合理性に基づかなければならず、感情と直観によって行われてはならないと考える点である。
道徳心理学
この視点の共通性は、現代の倫理学者ロールズやマッキンタイアによって洗練され、新しいコンセンサスを築いた。道徳とは、利害が対立する人どうしのジレンマを解決することであり、哲学者エドムンド・ピンコフスは、これを「板挟み倫理学」と呼んだ。心理学では、倫理的行動主義(道徳は経験によって形成される)と発達主義(経験は道徳心の発達を助ける)に大きく分けられる。バラス・スキナーは、道徳も連合と強化の産物だとみなした。発達主義に属するローレンス・コールバーグは、子供たちがどのようにジレンマ(例えば瀕死の妻を助けるために薬を盗んでもよいか?)を解決するのかを調査した。コールバーグは、道徳の基盤を公正さであるとみなしたが、キャロル・ギリガンは、コールバーグがそれ以上に(少なくとも女性にとっては)親切さの倫理が重要であると主張した。他者への思いやりや世話は、正義に関する判断の副産物ではない。最終的にコールバーグを含めた道徳心理学者は、公正さと親切さのどちらも重要であると受け入れ、道徳とは個々人を守ることであると同意した。個々人を守らず助けもしない規範は、単なる社会的慣習であると見なされた[21]。
道徳に関する問題でもっとも論争的だったのは、規範と道徳の区別である。正義、権利、危害や幸福に関するルール(例えば、盗むな、殺すな)はどの社会でも変わることがない。一方で、子供たちが教えられる慣習的規範(例えば大人を呼び捨てにするな)は、社会や伝統によって大きく異なる。しかし大部分の文化ではこの二つは密接につながっており、しばしば混同される。ドナルド・ブラウンによれば、規範の存在もヒューマン・ユニバーサルである。そして、どの文化でも、他人が規範に従っているかどうかを気に掛け、違反者へは懲罰的な態度を引き起こす。
コールバーグの元学生の心理学者エリオット・テュリエルは、道徳とは人が他人と関わる上での規範だと述べ、個人中心的な道徳観を提唱した。テュリエルによれば、子供はすでに5歳頃には慣習的規範と道徳判断の区別ができ、道徳判断は、人に対する危害、権利の侵害、主張の衝突などの社会的要因を除けば、社会システムから影響を受けない。そして、規範の理解と道徳の理解は、平行して発達する。コールバーグとその後に続いた実験的な研究は、精神分析と行動主義に替わって道徳心理学の中心となった。
社会生物学と霊長類学
1975年に昆虫学者エドワード・ウィルソンは、道徳が倫理学者と社会科学者だけのものではなくて、自然科学者、特に生物学者もその議論に加わるべきだと主張した。それ以来、多くの社会生物学者と霊長類学者が道徳の起源と進化について論じてきた。1990年代には、生物学者から二つの大きな著作が発表された。一つは、霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールの“Good Natured(気立ての良さ)”[22]であり、ドゥ・ヴァールは、霊長類に(道徳があるとは主張しなかったが)共感と愛情、社会秩序、互恵関係、コミュニティ、紛争と和解の概念が存在し、ヒトの道徳の基盤と共通であると述べた。公平さの感覚は、イヌ[23]など他の社会性動物でも発見されている。
神経科学
1990年代のもう一つの大きな著作は、神経科学者アントニオ・ダマシオの“Descartes' Error(デカルトの誤り)”[24]であり、神経学者が道徳の議論に参加する先駆けとなった。ダマシオと同僚は、前頭葉の前部と中部を損傷した患者が、19世紀のフィネアス・ゲイジと同じように、感情を用いた意思決定が困難になると指摘した。そのような患者は現実的な判断能力を大きく損なっているにもかかわらず、理論的な社会知識を保持している。神経倫理学者ジョシュア・グリーンは、トロッコ問題を解明するために従来の倫理学の論理の代わりに、fMRIを利用した。グリーンによれば、人を突き落とす際には否定的な反応が起きるが、その際にfMRIでは腹内側前頭皮質が強く反応する。同時に、功利主義的な判断には前頭前野背外側部が関わっていそうである。理性と道徳的直観が衝突するとき、前頭前野背外側部と前帯状皮質の反応が見つかる。そして、前頭側頭型認知症の人は迷わずに功利主義的な判断を行う[25]。
道徳の認知科学
認知科学者は、道徳の生物学的基盤を明らかにしようと試みている。ポール・チャーチランド[26]は、ニューラルネットワークモデルによって道徳心の発達を明らかにしようとした。ジョシュア・グリーン、マーク・ハウザー、ジョナサン・ハイト、ポール・ブルームを含む他の研究者は、道徳心に遺伝的基盤があり、道徳判断と感情は密接に結びついていると考えている。彼らは、理性と同じくらい感情、脳、他の動物と人類の進化について注目している[27]。認知科学によれば、第二言語は道徳的意思決定において重要な役割を果たす。母国語で考える場合、道徳的な意思決定をする際に結果を最大化するために危害を受け入れる傾向があり、第二言語で考える場合、道徳的な意思決定においてリスクを回避する傾向がある[28]。
道徳的ジレンマ
グリーンらは、道徳的ジレンマに関するトロッコ問題を人々に質問した。
- 暴走するトロッコのレールの先に5人がおり、逃げる暇はない。途中で分岐があり、その先には1人がいる。テッドは線路の分岐を切り替えることができる。切り替えれば5人は助かるが1人は死ぬ。テッドがポイントを切り替えることは道徳的に見て許されますか?
- 暴走するトロッコのレールの先に5人がおり、逃げる暇はない。レールの上に橋が架かっており、テッドはその上にいる。テッドの隣には太った人がいて、その人を突き落とせばトロッコは止まる。テッドがその人を突き落とすことは道徳的に見て許されますか?
どちらも1人が死んで5人が助かるか、5人が死んで1人が助かるという点で等しい。もし道徳判断が理性的に行われるのであれば、回答は一貫しているはずである。しかし、多くの人は先の質問には許されると答えるが、後の質問には許されないと答える(つまり一貫していない)。そして、その理由を明確に答えられない。この傾向は、有神論者でも無神論者でも変わらず[16]、西洋文明とほとんど接触のないカリブのクナ族(トロッコはカヌーに置き換えられた)でも同様であった。
ハイトによれば、多くの場合に道徳的判断は直観的に行われ、判断の後に合理的な理由付けが行われる。アメリカ、ポルトガル、ブラジルの人々に次のようなストーリーを話し、その行為は許されるかどうかを質問した。
- 愛犬が交通事故で死んだとき、イヌがおいしいと聞いていた家族は愛犬を調理してディナーで食べた。
- ある兄妹はキスをするのが好きで、周りに誰もいないときに人に見つからない場所を探して激しくキスをした。
被験者の多くが、誰かを傷つけたり権利を侵害する行為でなければ規制されるべきではないと考えていたにもかかわらず、4割から8割の被験者がこれらの行為は許されないと判断した。そしてその理由を上手く説明できなかった[7]。 人間の道徳判断は二重過程理論に基づいており、直観的な道徳推論システムは、次の五つにモジュール化されている。危害/親切、公正さ/互恵関係、グループ性/忠誠、権威/尊敬、純粋さ/高潔さ [29]。これらは、進化の過程で異なる目的を果たすために形成された。少なくとも規範の学習が始まる前に発達し、文化普遍的な道徳と文化ごとに多様な規範を作り出す。彼によれば、進化の産物であるために判断は直観的であり、微妙な道徳ジレンマを上手く解くことができない[30]。
ハウザーによれば、道徳には普遍文法のような生得的で基本的な文法、「道徳普遍文法」が存在し、それが社会的状況や経験の変数によって異なる規範を作り出す。テュリエルは、わずかな変数の違いとして人工妊娠中絶の議論を例にとる。プロライフとプロチョイスは、中絶を非道徳的とみなすかみなさないかで鋭く対立する。しかし、双方とも命に対する価値観が異なるのではなく、どの時点から命とみなすかが異なる。そして「いつ胎児はヒトになるのか」の直観的信念に基づいて、賛成/反対の判断が行われると指摘する。
脚注
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