軍服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 13:31 UTC 版)
変遷
西洋においては、封建制度の時代には軍装が統一されることはなかったが、17世紀以降、主権国家の確立、特に絶対王政国家の成立を受け国家の軍隊として制服の統一も図られるようになった。制服の着用はグスタフ2世アドルフのスウェーデン軍が最初であると考えられていたが、それ以前からドイツ、オランダ、デンマークに於て行なわれていたと指摘されている[a]。
16世紀頃から銃の普及により甲冑が意味をなさなくなり、軽装となっていった。兜もすたれ、二角帽子などが使用された。当時の軍服は礼装と兼用されており、戦列歩兵などが敵を威圧するためや、火薬の硝煙が漂う戦場の中で指揮官が部隊を識別するために、派手な色合いのものが好まれた。しかし、17〜18世紀頃は染色技術が発達しておらず、財政上の理由もあって[注 1]、全軍を煌びやかな服装で統一することは18世紀末まで困難だった。南北戦争の南軍が灰色系統の軍服を多く使用した理由も、技術的・財政的な制約が考えられる。
また、連続射撃ができず射程が短いという銃の性能が低い、この時代においては、火薬の硝煙により視界が限られている中で、射程に入る前に発砲させるため(マスケット銃等前装式の銃は、発射後次の発射まで時間がかかるため、その時間で接近し自らの射程に入れて攻撃することができる)、シルエットを大きくし実際よりも接近しているように見せる工夫がなされた。この時代の軍服の標準として高い帽子が採用されたのはそのためである。イギリス近衛兵のベアスキン帽にその名残がある。
普仏戦争の頃までは派手な軍服を使用している国が多かったが、銃の長射程化と命中精度の向上及び無煙火薬の発達に伴って、派手な色の軍服では狙撃を受けやすくなり[注 2]、第一次ボーア戦争の頃から薄青・灰色・カーキ色系の上下の軍服(戦闘服)に移行していった。
第一次世界大戦が始まると、革製ヘルメットやシャコー帽あるいは通常の軍帽は野砲の弾丸の破片等に対して無防備であることから、革製ヘルメットやシャコー帽は廃止され、通常の軍帽と併用する形でスチールヘルメットの着用も進んだ。
第二次世界大戦中、アメリカ軍は、通常勤務服たる常装と戦闘服装とを分離した。第二次世界大戦後、各国とも常装と戦闘服装とを分離するようになっていった。また、民間の趨勢に合わせて、立襟(立折襟)から背広型への移行が進んだ。
日本軍においては、第二次世界大戦中、戦闘服装の分離は進まず、陸軍では通常勤務服兼用のままで終戦を迎えた。海軍では「略装」(褐青色の背広型)を「第3種軍装」として使用した。
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三角帽子をかぶった退役軍人(2004年頃)
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二角帽子をかぶったナポレオン・ボナパルト
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フランス軍風軍装をする徳川慶喜(1886年-1887年)
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1869年当時の仏砲兵士官
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1898年当時の米海軍提督の夏服
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19世紀後半の米海軍提督(マシュー・ペリー)
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19世紀後半の米陸軍将軍(ウィリアム・シャーマン)
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19世紀後半の米陸軍将軍(南軍のロバート・E・リー)
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1916年当時の米国陸軍将校。立襟乗馬ズボン(ドワイト・D・アイゼンハワー)
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第一次世界大戦頃の背広型軍服の英国陸軍将軍(ホレイショ・キッチナー)
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1945年当時の米英ソ軍の軍服(ヤルタ会談にて、ポツダム三巨頭)
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