第三次イタリア戦争 第三次イタリア戦争の概要

第三次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 20:12 UTC 版)

第三次イタリア戦争
イタリア戦争

16世紀フランドル人画家によって描かれたパヴィアの戦い
1521年 - 1526年
場所イタリアフランススペイン
結果 神聖ローマ帝国とスペインの勝利
衝突した勢力

フランス王国

ヴェネツィア共和国
神聖ローマ帝国
スペイン王国
イングランド王国
教皇領
指揮官
フランソワ1世 (捕虜)
ロートレック伯爵英語版
ギヨーム・ド・ボニヴェ英語版 
ピエール・ド・バヤール英語版 
カール5世
シャルル・ド・ラノワ英語版
第5代ペスカーラ侯爵英語版
ブルボン公シャルル3世
フランツ・フォン・ジッキンゲン英語版
ゲオルク・フォン・フルンツベルク
初代サフォーク公爵
プロスペロ・コロンナ英語版

1521年、フランス軍がナバラ王国ネーデルラントに侵攻したことで戦争が勃発。ピレネー山脈を越えて進軍してきたフランス軍はスペイン軍に撃退され、神聖ローマ帝国軍はフランス北部に逆侵攻したがそこで足止めされた。

教皇、皇帝、そしてヘンリー8世はすぐさまに対フランス同盟を結成、イタリア半島での戦いを再開させたが、フランソワ1世とカール5世は主戦場をフランス北東部とみなしたため、イタリアでの戦いはほとんど重きをなさなかった[1]。1522年4月27日のビコッカの戦い英語版で皇帝軍と教皇軍がフランス軍に勝利したことで、フランスはロンバルディアから追い出された[2]。戦場が再びフランス本土に移動した一方、ヴェネツィアはドージェが交代したため単独講和した。イングランドは1523年にフランスを攻撃、同年相続権争いでフランソワ1世を見限ったブルボン公シャルル3世がフランソワ1世を裏切り皇帝と同盟した。フランスは翌年ロンバルディアを再度侵攻したがまたもや失敗、ブルボン公にスペイン軍を率いてプロヴァンスに侵攻する機会を与えた。

ここにきてフランソワ1世は親征を決行、1525年にミラノを攻撃した。しかし、パヴィアの戦いで大敗して捕虜になったことで戦争は終結を迎えた。フランスは講和を模索しなければならなかったが、フランソワはスペインで囚われていたため、彼の母ルイーズ・ド・サヴォワが外交を主導した。彼女はオスマン帝国スレイマン1世の宮廷へ使節団を派遣、スレイマン1世に神聖ローマ帝国への最後通牒を出させた。これは後のフランス・オスマン同盟英語版の素地となった。スレイマン1世はこの機会に乗じて1526年の夏にハンガリー王国を侵攻、モハーチの戦いでカール5世の同盟者ラヨシュ2世を戦死させた。こうした外交努力と背後からの一撃にもかかわらず、フランソワ1世はマドリード条約への署名を余儀なくされ、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄した。しかし、フランソワ1世は解放されるや条約の履行を拒否して戦争を再開した。マドリード条約以降の戦いはコニャック同盟戦争と呼ばれる。

イタリア戦争はこの後30年間続くが、最終的にはフランスのイタリア占領の野望は潰えることになる。


注釈

  1. ^ 戦争自体は1521年から1526年までの5年だが、戦闘は1525年のパヴィアの戦いで実質的には終了したので「四年」戦争と呼ばれている。
  2. ^ シャルル自身も第4代ブルボン公ジャン1世の男系子孫ではあるものの傍系であり、結婚の前はモンパンシエ伯であった。

出典

  1. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, p. 140.
  2. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, 142–43.
  3. ^ James Corkery, Thomas Worcester, ed (2010). The papacy since 1500: from Italian prince to universal pastor. Cambridge: Cambridge University Press. p. 35. ISBN 978-0-521-72977-2. https://books.google.com/books?id=3YycTeoSyk8C&pg=PA35 
  4. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 316–318.
  5. ^ Monreal and Jimeno, Conquista, p. 67.
  6. ^ a b Blockmans, Emperor Charles V, pp. 51–52.
  7. ^ Oman, Art of War, pp. 173–174.
  8. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 88.
  9. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 52
  10. ^ Oman, Art of War, pp. 176–178.
  11. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Taylor, Art of War in Italy, pp. 125–126.
  12. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57.
  13. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 25–26.
  14. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 335; Norwich, History of Venice, p. 439.
  15. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 45.
  16. ^ Gunn, "Suffolk's March", pp. 631–633.
  17. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27.
  18. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27–28.
  19. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28; Taylor, Art of War in Italy, pp. 53–54.
  20. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28.
  21. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 28–29.
  22. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Guicciardini, History of Italy, pp. 343–344; Konstam, Pavia 1525, p. 29.
  23. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 89.
  24. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 30-33.
  25. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 34.
  26. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 34–35.
  27. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 36–39.
  28. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 40–41.
  29. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Konstam, Pavia 1525, pp. 42–43.
  30. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 43–45.
  31. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 59; Konstam, Pavia 1525, pp. 46–50.
  32. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 50.
  33. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 52–53.
  34. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 56–74; Taylor, Art of War in Italy, pp. 126–127.
  35. ^ a b Konstam, Pavia 1525, p. 76.
  36. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 348.
  37. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 358–359.
  38. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 357–358.
  39. ^ a b Merriman, Suleiman the Magnificent, p. 129.
  40. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 358.
  41. ^ Knecht, Renaissance Warrior, p. 242.
  42. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359.
  43. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21.
  44. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 357. 神聖ローマ帝国のフランスに対する要求はまず皇帝の宮中伯ビューレンによって当時まだピッツィゲットーネで囚われていたフランソワ1世にもたらされた。フランスの県を要求したのは皇帝側についたブルボン公に相応な報酬をあげるためである。
  45. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359
  46. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 360.
  47. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 363.
  48. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 60, 68; Guicciardini, History of Italy, pp. 363–364; Oman, Art of War, p. 211.
  49. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21. 条約では「異教者」の消滅の必要が強調された。
  50. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 366.
  51. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 365–366. グイチャルディーニによると、クレメンス7世は「皇帝が偉大になることは必ず自分の(皇帝への)隷属に繋がる」と考えたという。
  52. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 369, 392.


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