第三次イタリア戦争 初期の戦闘

第三次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 20:12 UTC 版)

初期の戦闘

6月、ブレダ伯ハインリヒ3世英語版率いる皇帝軍英語版はフランス北部に侵攻して、アルドル英語版ムーゾン英語版を破壊しトゥルネーを包囲英語版、陥落させた。しかし、快進撃を続けた帝国軍はメジエール包囲戦英語版ピエール・テライユ英語版アンヌ・ド・モンモランシーの抵抗を受けて失敗、進軍が停止してしまった。フランソワ1世はすぐ軍を集めて反撃[6]、1521年10月22日にヴァランシエンヌでカール5世自ら率いる帝国軍の主力と会戦した。ブルボン公シャルル3世の度重なる要請にもかかわらずフランソワは攻撃を躊躇い、カール5世に撤退の時間を与えた。フランソワがついに攻撃を命令したときには雨が激しくなって有効な攻撃ができず、帝国軍は戦闘を回避して戦場から離脱した。そのすぐ後、ボニヴェ領主ギヨーム・グッフィエ英語版ギーズ公クロード率いるフランスとナバラ王国の連合軍はビダソア川河口部の戦略的要所フエンテラビーアを包囲・陥落させ、その後の2年間スペイン北部に脅威を与え続けた。

第三次イタリア戦争のロンバルディア戦線。主な戦場であるビコッカ、セージアとパヴィアが赤字で表記されている。

11月ごろにはフランスの状況は大分厳しくなっていた。カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇レオ10世は11月28日に対フランソワ同盟を結成した[8]。フランスのミラノ代官であるロートレック伯爵英語版は帝国軍と教皇軍からミラノを守備する任務についていたが、衆寡敵せずプロスペロ・コロンナ英語版に敗れ、11月末にはミラノから追い出されアッダ川沿いまで追い詰められた[9]。そこでスイス傭兵の増援を受けたが、支払えるお金のないロートレックは傭兵の要求を聞き入れてすぐに帝国軍との戦闘を開始した[10]。1522年4月27日、ロートレックはコロンナ率いる帝国軍と教皇軍をミラノ近くのビコッカで攻撃した(ビコッカの戦い英語版)。ロートレックの計画はフランス軍に優勢のある大砲で攻撃して優勢を徐々に拡大する、というものだったが、血気盛んなスイス傭兵がすぐ攻勢に出てスペインの火縄銃部隊を攻撃したのでやむを得ず大砲での攻撃を取りやめた。しかし、傭兵はペスカーラ侯爵フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァロス英語版率いるスペイン軍とゲオルク・フォン・フルンツベルク率いるランツクネヒトに散々にやられてしまった。敗れた傭兵は出身のカントンに戻り、傭兵を失ったロートレックは防衛するだけの兵隊すら不足してロンバルディを諦めた[11]。対抗する軍勢がいなくなったイタリアではコロンナとダヴァロスがジェノヴァを包囲英語版、5月30日に降伏させた[12]


注釈

  1. ^ 戦争自体は1521年から1526年までの5年だが、戦闘は1525年のパヴィアの戦いで実質的には終了したので「四年」戦争と呼ばれている。
  2. ^ シャルル自身も第4代ブルボン公ジャン1世の男系子孫ではあるものの傍系であり、結婚の前はモンパンシエ伯であった。

出典

  1. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, p. 140.
  2. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, 142–43.
  3. ^ James Corkery, Thomas Worcester, ed (2010). The papacy since 1500: from Italian prince to universal pastor. Cambridge: Cambridge University Press. p. 35. ISBN 978-0-521-72977-2. https://books.google.com/books?id=3YycTeoSyk8C&pg=PA35 
  4. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 316–318.
  5. ^ Monreal and Jimeno, Conquista, p. 67.
  6. ^ a b Blockmans, Emperor Charles V, pp. 51–52.
  7. ^ Oman, Art of War, pp. 173–174.
  8. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 88.
  9. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 52
  10. ^ Oman, Art of War, pp. 176–178.
  11. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Taylor, Art of War in Italy, pp. 125–126.
  12. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57.
  13. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 25–26.
  14. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 335; Norwich, History of Venice, p. 439.
  15. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 45.
  16. ^ Gunn, "Suffolk's March", pp. 631–633.
  17. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27.
  18. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27–28.
  19. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28; Taylor, Art of War in Italy, pp. 53–54.
  20. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28.
  21. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 28–29.
  22. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Guicciardini, History of Italy, pp. 343–344; Konstam, Pavia 1525, p. 29.
  23. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 89.
  24. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 30-33.
  25. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 34.
  26. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 34–35.
  27. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 36–39.
  28. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 40–41.
  29. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Konstam, Pavia 1525, pp. 42–43.
  30. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 43–45.
  31. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 59; Konstam, Pavia 1525, pp. 46–50.
  32. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 50.
  33. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 52–53.
  34. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 56–74; Taylor, Art of War in Italy, pp. 126–127.
  35. ^ a b Konstam, Pavia 1525, p. 76.
  36. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 348.
  37. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 358–359.
  38. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 357–358.
  39. ^ a b Merriman, Suleiman the Magnificent, p. 129.
  40. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 358.
  41. ^ Knecht, Renaissance Warrior, p. 242.
  42. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359.
  43. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21.
  44. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 357. 神聖ローマ帝国のフランスに対する要求はまず皇帝の宮中伯ビューレンによって当時まだピッツィゲットーネで囚われていたフランソワ1世にもたらされた。フランスの県を要求したのは皇帝側についたブルボン公に相応な報酬をあげるためである。
  45. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359
  46. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 360.
  47. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 363.
  48. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 60, 68; Guicciardini, History of Italy, pp. 363–364; Oman, Art of War, p. 211.
  49. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21. 条約では「異教者」の消滅の必要が強調された。
  50. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 366.
  51. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 365–366. グイチャルディーニによると、クレメンス7世は「皇帝が偉大になることは必ず自分の(皇帝への)隷属に繋がる」と考えたという。
  52. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 369, 392.





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