第三次イタリア戦争 背景

第三次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 20:12 UTC 版)

背景

1515年9月のマリニャーノの戦い英語版カンブレー同盟戦争を終息へと向かわせたが、その平和は1518年までには崩れ始めた。当時の西欧大国(フランス、イングランド、スペイン、神聖ローマ帝国)はロンドン条約英語版で相互不可侵と軍事同盟を約するなど、表面上は友好的だったが、神聖ローマ帝国の継承では意見が合わなかった。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ハプスブルク家の世襲体制を確固にすべく、孫のスペイン王カルロス1世(後の皇帝カール5世)を次期の皇帝に推した一方、フランス王フランソワ1世は自らを推した。しかし、両者ともそれぞれの事情があった。宗教改革の創始者マルティン・ルターが帝国貴族の間で影響力を増しつつあるため、教皇と神聖ローマ帝国は対応に追われた。イングランドが起用したウルジー枢機卿は大陸ヨーロッパでの紛争に介入する野心的な外交政策を断行して、イングランドと自分の影響力を増大させようとしたため、フランソワ1世の障害となっていた。

1519年時点でのカール5世の領土

マクシミリアン1世が1519年に亡くなったことで、皇帝選挙がヨーロッパ政治の表舞台に出た。教皇レオ10世はカール5世の権力が強すぎることを恐れてフランソワ1世を支持したが、カール5世の選出を阻止し得ないことがわかると、フランソワ1世を見捨ててカール5世支持にのりかえた[3]選帝侯たちはザクセン選帝侯フリードリヒ3世を除いて全員がハプスブルク家とヴァロワ家の候補の両方への支持を表明した。というのも、マクシミリアン1世は生前、選帝侯たちに「カールに投票する代わりに50万フローリンを払う」という約束をし、フランソワは300万フローリンの支払いを確約、さらにカールは支持を得るためにフッガー家から大金を借入、支払い金額を釣り上げたためである。この賄賂には教皇も参加しており、レオ10世はマインツ大司教に教皇使節の位を約束している。しかし、選挙の行方を決めたのは賄賂ではなかった。民衆たちのフランス人皇帝への反感は強く、選帝侯は決められずにいたが、カールが兵隊を選挙地フランクフルトの近くへ向かわせると、選帝侯たちは意を決してカールに投票した[4]。彼は1520年10月23日に戴冠したが、その時点ではすでにスペイン王位とネーデルラントでのブルゴーニュ公国領地を影響下に収めていた。

イングランドでは外交を担当するウルジー枢機卿ヘンリー8世の大陸への影響力を増すべく、イングランド王国がフランソワ1世とカール5世の間の調停者になることを申し出た。その第一歩としてヘンリー8世とフランソワ1世が金襴の陣で会見し、その直後にカレーでウルジー枢機卿がカール5世をもてなした。この二つの会見の後の1521年12月にレオ10世が急死したため、ウルジー枢機卿はコンクラーヴェの準備としてカレーで仲裁会議を開催し、自分の名声をあげようとした。しかし、翌年4月まで続いた会議は、なんらの成果ももたらさなかった。

ジャン・クルーエ英語版によるフランソワ1世。フランソワ1世は神聖ローマ皇帝になる野望をもってヨーロッパを戦火へと投じた。

1520年12月、フランスは戦争の準備をはじめた。しかし、ヘンリー8世は平和を破る者への介入を宣言したため、フランソワ1世は公的にはカール5世を直接攻撃できなかった。その代わり、彼はドイツとスペイン領への先制攻撃を支援した。まず、ロベール3世・ド・ラ・マルク英語版ムーズ川沿岸を攻撃、同時にフランスとその同盟者であるナバラ王の連合軍がサン=ジャン=ピエ=ド=ポルを占拠、続いて(このときスペインに占領されていた)ナバラ王国全土に侵攻した[5]。この侵攻は名目的には18歳のナバラ王アンリ・ダルブレが率いたが、実際に軍を指揮したのはアンドレ・ド・フォワ英語版であり、資金と装備はフランスが提供した[6]。フランスの計画はすぐに破たんした。ムーズ川の攻撃はネーデルラント総督のブレダ伯ハインリヒ3世英語版に撃退され、ド・フォワはパンプローナを占領英語版したものの1521年6月30日のノアインの戦い英語版で敗北してナバラからの撤退を余儀なくされた[7]

一方の皇帝カール5世は1521年3月のヴォルムス帝国議会マルティン・ルターを対処することに忙殺されていた。皇帝は宗教改革により帝国が解体することを恐れ、教皇レオ10世もルターが教皇の権威を否定したことにより決別、二人は手を組むことを決めた。フランツ・フォン・ジッキンゲン英語版ザクセン選帝侯フリードリヒ3世を後ろ盾とするルターに対し、皇帝と教皇大使のジロラモ・アレアンドロ英語版は1521年5月25日にヴォルムス勅令を発布、ルターをローマ教会から破門するとともに帝国アハト刑に処した。皇帝はさらに当時フランスに占領されていたパルマピアチェンツァメディチ家に、ミラノ公国スフォルツァ家に返還することを教皇に約束した。レオ10世は宗教改革に対抗するうえで帝国の支持が必要だったため、フランスをロンバルディアから追い出す手伝いに同意、これによりフランソワ1世のイタリアにおける同盟国はヴェネツィア共和国のみとなる。


注釈

  1. ^ 戦争自体は1521年から1526年までの5年だが、戦闘は1525年のパヴィアの戦いで実質的には終了したので「四年」戦争と呼ばれている。
  2. ^ シャルル自身も第4代ブルボン公ジャン1世の男系子孫ではあるものの傍系であり、結婚の前はモンパンシエ伯であった。

出典

  1. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, p. 140.
  2. ^ Mallett and Shaw, The Italian Wars, 142–43.
  3. ^ James Corkery, Thomas Worcester, ed (2010). The papacy since 1500: from Italian prince to universal pastor. Cambridge: Cambridge University Press. p. 35. ISBN 978-0-521-72977-2. https://books.google.com/books?id=3YycTeoSyk8C&pg=PA35 
  4. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 316–318.
  5. ^ Monreal and Jimeno, Conquista, p. 67.
  6. ^ a b Blockmans, Emperor Charles V, pp. 51–52.
  7. ^ Oman, Art of War, pp. 173–174.
  8. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 88.
  9. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 52
  10. ^ Oman, Art of War, pp. 176–178.
  11. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Taylor, Art of War in Italy, pp. 125–126.
  12. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57.
  13. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 25–26.
  14. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 335; Norwich, History of Venice, p. 439.
  15. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 45.
  16. ^ Gunn, "Suffolk's March", pp. 631–633.
  17. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27.
  18. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 27–28.
  19. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28; Taylor, Art of War in Italy, pp. 53–54.
  20. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 28.
  21. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 28–29.
  22. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Guicciardini, History of Italy, pp. 343–344; Konstam, Pavia 1525, p. 29.
  23. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 89.
  24. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 30-33.
  25. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 34.
  26. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 34–35.
  27. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 36–39.
  28. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 40–41.
  29. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 57; Konstam, Pavia 1525, pp. 42–43.
  30. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 43–45.
  31. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 59; Konstam, Pavia 1525, pp. 46–50.
  32. ^ Konstam, Pavia 1525, p. 50.
  33. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 52–53.
  34. ^ Konstam, Pavia 1525, pp. 56–74; Taylor, Art of War in Italy, pp. 126–127.
  35. ^ a b Konstam, Pavia 1525, p. 76.
  36. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 348.
  37. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 358–359.
  38. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 357–358.
  39. ^ a b Merriman, Suleiman the Magnificent, p. 129.
  40. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 358.
  41. ^ Knecht, Renaissance Warrior, p. 242.
  42. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359.
  43. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21.
  44. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 357. 神聖ローマ帝国のフランスに対する要求はまず皇帝の宮中伯ビューレンによって当時まだピッツィゲットーネで囚われていたフランソワ1世にもたらされた。フランスの県を要求したのは皇帝側についたブルボン公に相応な報酬をあげるためである。
  45. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 359
  46. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 360.
  47. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 363.
  48. ^ Blockmans, Emperor Charles V, p. 60, 68; Guicciardini, History of Italy, pp. 363–364; Oman, Art of War, p. 211.
  49. ^ Urzainqui et al., Conquista de Navarra, p. 21. 条約では「異教者」の消滅の必要が強調された。
  50. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 366.
  51. ^ Guicciardini, History of Italy, pp. 365–366. グイチャルディーニによると、クレメンス7世は「皇帝が偉大になることは必ず自分の(皇帝への)隷属に繋がる」と考えたという。
  52. ^ Guicciardini, History of Italy, p. 369, 392.





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