磐城の戦い
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戦後の経過
平潟方面軍が中村藩を占領した時点では、白河口方面軍はまだ二本松城に留まり、援軍を待っている状態であった。また、会津藩に侵攻可能な位置にまで進出したため、今後の侵攻について議論が起こっていた。大村益次郎は「まず枝葉(各藩)を刈れば、根幹(会津)は自然と枯れる」と主張し、現地指揮官の伊地知正治と板垣退助は「根幹を抜けば枝葉を憂慮する必要はない」と主張。結局現地の二人の意見が優先されるまで若干の日数を要した[45]。
そのため、一直線に中村城へ向かった平潟軍は、白河口方面軍に比べて大分北に来ており、既に双方の連携もとれないほどに突出していた。それでも四条総督は果敢な進軍を選び、中村城を制圧した当日の7日に中村藩兵と共に撤退中の仙台藩兵へ追撃に出た。仙台藩からすれば先日まで徹底抗戦を唱えていた中村藩が先頭に立っての襲撃であり、仙台藩兵は狼狽した。それでも、3小隊ほどが踏みとどまって遠藤主税の元、中村藩軍を迎え撃ち逆に押し返すほどに奮戦したが、長州藩兵らの攻撃によって壊走した。これにより、仙台藩兵は完全に浜通りから姿を消した[46]。
中村藩は城を攻められずして降伏し、即日仙台藩と交戦したために、当初は仙台藩において報復の声が上がった[47]が、中村藩は同盟軍として戦って88名の戦死者を出し、新政府に与してから更に59名の戦死者を出した[48]ことから、敗者側に立った「会津戊辰戦史」でも「厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎む可からざるに似たり」とその立場は理解されており、同書において「初めはどちらにつくかを隠して両者に媚を売り、時勢が判明するや裏切りの毒を逞うする者、東に三春あり、西に新発田あり」と糾弾された両藩とは扱いが異なる。
その後、仙台藩兵は中村藩との藩境に兵を集め、仙台藩領を守るための旗巻峠の戦いを新政府軍と繰り広げた。この戦いでも新政府軍の先頭に立たされたのは中村藩兵であり、戦闘においては徴兵したばかりの農兵2800名を率いて活躍する。しかし先月まで友として戦っていた相手と戦闘を続けることは、中村藩の本意ではなかった。27日、中村藩家老佐藤勘兵衛が密かに仙台藩へ恭順降伏を打診する[49]。
仙台藩には武装から戦術にいたるまで洋化した額兵隊1,000名を始めとして、後の箱館戦争で活躍した旧幕府の部隊、26日に入港したばかりの榎本武揚率いる艦隊が控えていたものの、23日に会津若松城が包囲され、榎本艦隊6隻も台風で激しく損傷していたことから藩論は降伏へと傾いていく。更に9月4日に米沢藩が降伏し、10日に旗巻峠を失陥したことが藩主伊達慶邦の決断を引き出した。12日、慶邦の意志をもって仙台藩は降伏を決定[50]。15日に正式に降伏した。東北での戊辰戦争はそれから1週間後の22日の会津戦争の決着で事実上終結する。新政府の平潟方面軍は絶えず浜通りから仙台藩に圧力を与え、藩境を制圧することで降伏を引き出す重要な役を担った[51]。
戦後処理
戊辰戦争終結後、列藩同盟軍の藩は、奥州鎮撫総督の指示により新政府軍に加わった藩に一時預かりとなった。会津藩は福井藩、松代藩、高田藩と他数藩に、白河、棚倉、二本松は黒羽藩、守山藩、石岡藩に、福島藩は中村藩らに、そして磐城平藩、泉藩、湯長谷藩の三藩は笠間藩に預けられることになった。しかし新政府はこの処置を直轄へと改めて、直轄地機関である「民政局」を奥羽越同盟の各城下町に設置して強い統制下に置いた。浜通りにも磐城平に民政局が設置され、中村でも新政府占領下で中村城が解体された[52]。
明治2年(1869年)2月、明治政府は民政局を解散させて府県制に移行した。この動きにより若松県、福島県、白河県が成立したが、二本松藩と磐城平藩、泉、湯長谷藩は県制が適用されずに藩として復活した。その際、以下のとおりの処分が加えられた。
- 泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
- 湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
- 磐城平藩 - 明治政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
- 中村藩 - 明治政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
また、同年1月19日には陸奥国は明治政府によって分割され、浜通り諸藩(磐城平藩、中村藩など)と中通りの棚倉藩などの領土は磐城国に入れられた。そして、戊辰戦争に参加した磐城国の各藩は、全て藩としての存続を許されることになったが、明治4年(1871年)8月29日、明治政府は廃藩置県を実施した。この結果、泉県、湯長谷県、磐城平県、中村県が成立したが、同年11月には県の統廃合が行われ、これら4県は統合されて平県に改名され、その平県も翌5年(1872年)1月9日には磐前県に改名された。こうして浜通りは磐前県として広域行政権を得ていたが、明治9年(1876年)8月21日には磐前県は福島県(中通り)や若松県(会津地方)と合併され、福島県の一部に入れられて広域行政権を失った。
現在の福島県は、磐城平藩・中村藩・会津藩の各領土が一緒にさせられているが、戊辰戦争で長州藩(明治政府軍)と敵対した会津藩と、会津藩を擁護した磐城平藩と中村藩(奥羽越列藩同盟軍)が合併されて、福島県が成立したのである。会津・磐城平・中村が同じ県に入れられたことから、「福島」県の成立は戊辰戦争の延長線上であった。
浜通りの戊辰戦争後
1874年に板垣退助らが征韓論によって下野し、土佐に立志社を創設して士族と豪農商に選挙権を与えるよう運動を始めると、それをきっかけに自由民権運動が起こった。その動きは石陽社、三師社ら福島、二本松、石川郡に波及し、磐前県消滅後の浜通りにも影響を与えた。1877年に旧中村藩に北辰社が、旧磐城平藩には興風社が設立され、士分、富農商の参政権を求める政治結社として始まった。その行動は穏健なものであったが、自由民権運動の高まりと福島県令三島通庸の強引な行政によって衝突が起こり、その弾圧の対象とされた[53]。
経済面では、旧磐城平藩では石炭が開発され、旧中村藩では森林鉄道が敷設された。特に石炭は、「常磐炭田」と呼ばれるように、水戸藩と磐城平藩の領土に跨がって広がり、萩城下で生まれて助川を本拠地とした久原房之助によって開発された。萩は明治政府を立てた長州藩の首府であり、助川は戊辰戦争で明治政府に敵対した水戸藩の領内である。戊辰戦争の結果、徳川幕府の本拠地であった江戸は陥落し、明治政府の本拠地である東京に変貌したが、浜通りで産出された石炭や木材は、東京に輸送され、東京の発展の為に利用された。
1927年には金融恐慌の余波を受けて福島商業銀行が破綻し、続いて中村の相馬銀行、平町の磐城銀行、そして同じ浜通り内の四倉銀行、浪江銀行が相次いで破綻した。さらには1929年にはアメリカ発の大恐慌が発生し、福島県内の銀行は22行が破産し、浜通りの銀行も茨城県や宮城県の銀行と合併された。また、この恐慌で養蚕産業も壊滅し、続いて到来した1934年の大凶作にも為す術がなかった。
- ^ 大山(1968: 500)
- ^ 大田(1980: 244)
- ^ 一老人の懐古談(大山 1968: 502)
- ^ 青木ほか(2000: 124)
- ^ 大山(1968: 502-503)
- ^ 大山(1968: 504)において、仙台藩記では「人見等裏崩れ致し敗走」と記述され、林忠崇私記には「仙兵裏崩れして、ついに敗走」と相反する記述がされていることを「面白いこと」として紹介している。
- ^ 星(2000: 189)
- ^ 大山(1968: 506)
- ^ 青木ほか(2000: 192)において「総州結城野州小山館林須坂両藩兵戦記」の陣羽織、鎖帷子、手槍の兵装を描写した記述を紹介している。
- ^ 星(2000: 190-191)
- ^ 石川(1989: 63)
- ^ 石川(1989: 62)
- ^ 大山(1968: 511)「「薩藩報」に「賊百二十一打ち取る」とあるから、仙兵が大きな死傷者を出したことは間違いない。」
- ^ 大山(1968: 511)
- ^ 星(2000: 190)
- ^ 星(2000: 191)
- ^ 大山(1968: 513)
- ^ 大山(1968: 514)
- ^ 「一団結にて仙台を討つべし」(大山 1968: 515)
- ^ 星(2000: 193)
- ^ 大山(1968: 516)
- ^ 「7月7日に5小隊を援軍に送り、何隊かは城内に入らず四ツ倉に残った。」(大山 1968: 516)
- ^ 大山(1968: 519-520)
- ^ 大山(1968: 521)
- ^ 大山(1968: 521)において、「この頃すでに態度を変ずるの準備ありしなり」との仙台戊辰史(620)の記述を紹介している。
- ^ 大山(1968: 521-522 著者私見)
- ^ 大山(1968: 520)
- ^ 青木ほか(2000: 52)
- ^ 大山(1968: 520)および星(2000: 210)
- ^ 大山(1968: 524)
- ^ 兵数については、石川(1989: 73-74)
- ^ 大山(1968: 525)
- ^ 大山(1968: 532)「遺棄せる器械、糧食、村中に狼藉たり」
- ^ 大山(1968: 526)
- ^ 大山(1968: 533)
- ^ 大田(1980: 250)
- ^ 大山(1968: 538)において、仙台藩記の「相馬すでに盟を破りて疑を西軍に通じ」との記述を、奥羽越同盟軍の信頼関係の薄らいだ証左として紹介している。
- ^ 星(2000: 239)
- ^ 大山(1968: 539)
- ^ 大山(1968: 542)
- ^ a b 大山(1968: 543)
- ^ a b 大田(1980: 251)
- ^ a b 星(2000: 240)
- ^ 「吉田屋覚日記」に列挙している分捕り品は、武器弾薬、米穀、主だった家財、金蔵、土蔵、金銭衣類、家具。他に毎日450俵の米と、味噌、薪、油、蝋燭が課せられた。農村からは人足の他、兵員2800名が徴された(星 2000: 241)。
- ^ 大田(1980: 254)
- ^ 大山(1968: 544)
- ^ 星(2005)
- ^ 青木ほか(2000:118)
- ^ 星(2000: 252)
- ^ 大田(1980: 303)
- ^ 大山(1968: 576)
- ^ 戊辰戦争によって焼失した磐城平城の跡地が切り売りされ、そこに民家が建てられた時期も、この明治政府占領下である。
- ^ 小林・山田(1970: 196)
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