毛利元昭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 09:54 UTC 版)
生涯
元治2年(1865年)、長州藩最後の藩主であった毛利広封(後の元徳)の長男[1]として萩の南園御殿に生まれる[2]。幼名は興丸[1]。明治維新後は東京に移住する[2]。父・元徳は維新後、毛利家の拠点を山口から防府三田尻御茶屋に移した。明治3年(1870年)に多々良山周辺を買収してそこに多々良御殿を建設し、完成後に移住した。天皇に拝謁するために上京する時以外は、その生涯のほとんどをこの御殿で過ごしたという[2]。
明治30年(1897年)1月21日に家督を相続し[1]、公爵位を襲爵して貴族院公爵議員となる[3]。
明治44年(1911年)1月20日、麝香間祗候となる[4]。
平成8年(1996年)に多々良御殿は毛利氏庭園として整備され、国の名勝に指定された。現在では公益財団法人毛利報公会の管理で一般公開されている。
栄典
- 1897年(明治30年)7月2日 - 従三位[5]
- 1901年(明治34年)6月21日 - 正三位
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[6]
- 1908年(明治41年)6月30日 - 従二位[7]
- 1911年(明治44年)11月6日 - 勲三等旭日中綬章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1916年(大正5年)12月26日 - 勲二等旭日重光章[10]
- 1916年(大正5年)7月10日 - 正二位[11]
- 1929年(昭和4年)
- 1931年(昭和6年)10月3日 - 紺綬褒章飾版[14]
系譜
- 父:毛利元徳(長州藩第14代藩主)
- 母:安子(長府藩主・毛利元運の次女、毛利敬親の養女)
- 前妻:富子(富姫、尾張藩主・徳川慶勝の八女、離婚し子爵戸田康泰の後妻となる)
- 後妻:美佐子(三条実美の三女)
- 妾:河北ツヤ
- 三女:浜子(子爵戸田忠粛夫人)
- ^ a b c d e "毛利元昭". 美術人名辞典. コトバンクより2020年7月26日閲覧。
- ^ a b c “毛利氏庭園と毛利博物館 - 防府市公式ホームページ”. 防府市 (2011年12月1日). 2020年7月25日閲覧。
- ^ 『官報』第4068号、明治30年1月23日。
- ^ 『官報』第8273号、明治44年1月21日。
- ^ 『官報』第4200号「叙任及辞令」1897年7月3日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7503号「叙任及辞令」1908年7月1日。
- ^ 『官報』第8515号「叙任及辞令」1911年11月7日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1322号「叙任及辞令」1916年12月27日。
- ^ 『官報』第1183号「叙任及辞令」1916年7月11日。
- ^ 『官報』第649号「彙報 - 褒章」1929年3月1日。
- ^ 『官報』第896号「彙報 - 褒章」1929年12月23日。
- ^ 『官報』第1432号「彙報 - 褒章」1931年10月6日。
固有名詞の分類
- 毛利元昭のページへのリンク