日露和親条約 日露和親条約の概要

日露和親条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 13:24 UTC 版)

日本国魯西亜国通好条約
日露和親条約の原文(外務省外交史料館蔵)
通称・略称 日露和親条約、日露通好条約、下田条約、日魯通好条約[1]、日魯和親条約
署名 1855年2月7日安政元年12月21日[2]
署名場所 伊豆国 下田
発効 1856年12月7日(安政2年11月10日[2]
現況 失効
失効 1895年9月10日(日露通商航海条約発効)[2][3]
締約国 日本
ロシア帝国
主な内容 下田・箱館・長崎の開港、択捉・得撫両島間を国境とする、樺太は両国人雑居地とし境界を定めない
関連条約 日米和親条約日英和親条約日蘭和親条約
ウィキソース原文
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本条約によって、蝦夷地に国境が引かれた[6]。東は、択捉島得撫島の間の択捉海峡とされ、北は北蝦夷地(樺太、サハリン島)が国境未画定とされた[6][5]日露国境)。樺太はこれまで通り両国民の混住の地と定められた[5][注釈 1]

条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約[注釈 2](にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約下田条約日魯通好条約[4][1]とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。

この条約は1895年明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。

主な内容

  • 千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
  • 樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
  • ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
  • ロシア領事を日本に駐在させる
  • 裁判権は双務に規定する
  • 片務的最恵国待遇

本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の安政5年(1858年)に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。

樺太国境交渉

日本側全権の川路聖謨。『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より。
ロシア側全権エフィミー(エフィム)・プチャーチン

条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。

長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部の亜庭湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。交渉が下田に移る直前、川路は老中にあてた書簡の中で次のように説明している。

日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。 — 『開国 日露国境交渉』[7]

下田で交渉が始まると、嘉永7年11月4日1854年12月23日)の安政東海地震津波により大破したロシア艦「ディアナ」が沈没してしまったため、交渉は一時停止した。交渉が再開し、安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した[8]

その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。


注釈

  1. ^ 日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。
  2. ^ 旧字体の表記は日本國魯西亞國通好條約
  3. ^ 日本に保管されていた条約原本は関東大震災のとき失われたが、ロシア語・オランダ語・日本語については、明治17年(1884年)に印刷された物が残っている。

出典

  1. ^ a b c 平成25年2月の行事概要”. 政府広報オンライン (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ a b c 日本学術振興会『条約目録』1936年
  3. ^ 日本学術振興会『条約目録』1936年
  4. ^ a b 谷本 2024, p. 102.
  5. ^ a b c 歴史”. 北方対策本部. 2024年6月8日閲覧。
  6. ^ a b 谷本 2024, p. 111.
  7. ^ 和田春樹『開国 日露国境交渉』1991年、P121、P140
  8. ^ 和田春樹『開国 日露国境交渉』1991年、P156〜P160。外務省政務局『日露交渉史』第二章「下田条約及其他ノ旧幕時代ニ於ケル諸条約及協定ノ取極」国立公文書館アジア歴史資料センター、1944年、レファレンスコード B02130338300。川路聖謨『長崎日記・下田日記』藤井貞文・川田貞夫校注、平凡社〈東洋文庫〉124、1968年、P185〜P192。
  9. ^ 「南サハリン州の設置に関するソ連最高会議幹部会令」1946年2月2日[1]PDF-P.32(『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』)
  10. ^ 「対日講和条約に関するソビエト政府の対米覚書」[2](旬報社デジタルライブラリ)
  11. ^ 「ソビエト全権の演説」エー・エー・グロムイコP.426[3] PDF-P.33(旬報社デジタルライブラリ)。同演説では、西側諸国が極東委員会の当初の方針であった日本の非武装・非軍事化を方向転換し、朝鮮半島の兵站基地としていることを指摘し糾弾している。
  12. ^ 日本全権の演説(吉田茂)1951年9月7日[4]P.434(旬報社デジタルライブラリ)
  13. ^ 日本全権の演説(吉田茂)1951年9月7日
  14. ^ a b 和田春樹 『世界』1987年5月、1988年5月、1988年11月、岩波書店。
  15. ^ 和田春樹『北方領土問題―歴史と未来』朝日選書、1999年、P332〜P335。長谷川毅『北方領土問題と日露関係』2000年、P18。
  16. ^ 外務省条約局『旧条約彙纂』第一巻第二部、1934年、P521以下
  17. ^ 村山七郎『クリル諸島の文献学的研究』pp.129-130。
  18. ^ 村山七郎『クリル諸島の文献学的研究』1987年8月、P123〜P134。長谷川毅『北方領土問題と日露関係』2000年、P17〜P20。
  19. ^ 木村汎『日露国境交渉史―領土問題にいかに取り組むか』1993年、P54〜P57
  20. ^ 下田「北方領土マラソン」廃止方針 「中学のカリキュラムに支障」”. 静岡新聞. 2023年10月25日閲覧。


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