日本の女性解放運動 明治維新からの女性解放政策

日本の女性解放運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 08:06 UTC 版)

明治維新からの女性解放政策

日本では明治政府成立後の1872年に発令された芸娼妓解放令福澤諭吉の唱えた男女同権論、あるいは1880年代の自由民権運動における景山英子岸田俊子らによる婦人解放運動などが、女性解放運動の前史とされるが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。

推進政策

反発政策

  • 1885年第1次伊藤博文内閣文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。
  • 1890年7月公布の「集会及政社法」にて女性の政治活動を禁止。女子は政談演説を聴きに行くことも禁じられ、戸外で三人以上集まる時は警察に届けなければならなくなった。

芸娼妓解放令

  • 1872年(明治5年)、ノルマントン号事件が発生。人権問題の解消を促す流れの中で、芸娼妓解放令が出された。

日本初の女性参政権

1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。

この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカ合衆国ワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。




「日本の女性解放運動」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の女性解放運動」の関連用語

日本の女性解放運動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の女性解放運動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本の女性解放運動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS