新庄剛志 野球選手としての特徴

新庄剛志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 01:59 UTC 版)

野球選手としての特徴

前書き

守備において、NPB・リーグ外野手レンジファクター (RF/G) 年間1位を3回(1993年、1998年、2004年)、2位を4回(1994年、1996年、2000年、2006年)記録[248]。MLBでは2002年にリーグ外野手および中堅手の同指標 (RF/9) 1位を、リーグ中堅手のTotal Zone Runs (TZR) 2位を記録[138]。外野守備機会でNPB/MLB通算100補殺以上を記録している。受賞歴としては、NPBのゴールデングラブ賞を受賞資格(チーム試合数の1/2以上を同じ守備位置で出場)を得た年は、1995年以外全て受賞している(外野手部門を10回)。

外野守備に対して一切の手抜きがなかったと評されたことがあるが[249]飛球に対し故意にスタートを遅らせて刺殺しなかった経験があり、その動機は該当試合で打ちこまれていた投手からそれ以前に、打撃陣の不振のせいで勝てないと批判されたことを思い出したからという[250]。なお、この故意に刺殺しなかった行為を初めて告白した際には、動機を「延長戦に入っていた試合後にコンパへの参加を予定していたので、早く試合を終わらせたかったから」という趣旨で説明していた[250]

打撃において、年間での打率3割や30本塁打に到達した経験はないが、生涯成績ではNPB/MLB通算1500本安打・NPB通算200本塁打といった節目の記録に到達している。タイトル争いの経験としては、阪神時代2000年の最多勝利打点(特別賞)を1点差で逃している[104][105]。本人曰く「(セ・リーグでもメジャーリーグでもパ・リーグでも)どこで野球をやっても僕の打率は2割5分」[251]

走塁において、年間盗塁数は一桁台の年がほとんどであるが、阪神時代に年間のチーム最多盗塁を3回(1993年、1997年、2000年)記録[106]。年間三塁打数は阪神時代にリーグ最多を2回(1994年、1999年)記録している。

守備

守備位置の遍歴

プロ入り前より外野手であったが、1年目の1990年に中堅手から内野遊撃手へ転向した[40]。一軍公式戦での主な守備位置の遍歴は、1991年9・10月:遊撃手→1992年主に5・6月:三塁手→主に6・7月:遊撃手→7月以降:中堅手へ定着である。[注 1]

内野守備

プロ1年目の1990年シーズン中に中日・立浪和義遊撃手の守備から刺激を受け、自らコンバートを志願して遊撃へ転向した[40]。1992年5月下旬の一軍昇格時の三塁守備はトーマス・オマリーが離脱中の措置であり、その後久慈照嘉が離脱中の遊撃を経て中堅へ戻り定着するも、翌1993年1月のコーチ会議で遊撃への再コンバートが決まった。同年春季キャンプにて久慈と守備位置を競うも守備力評価で劣り、腰痛の影響や首脳陣による「遊撃を守ることによりパワーのある打撃の長所を消してはいけない」との判断もあり、同キャンプ中に再び中堅へ戻り、そのまま外野手としてキャリアを終えた[252]

主に三塁に就いた1992年6月(下旬は遊撃)にJA全農Go・Go賞・好捕賞を受賞した。中堅への定着後も阪神在籍時最後の2年間に一塁以外全ての内野守備経験がある。また三塁へは1994年・1999年のオールスターゲームでも就いた[62][95]

外野守備

映像外部リンク
2003年6月20日
MLB時代における最後の補殺および併殺(MLB.comによる動画)
全般

MLBでの通算UZR/150は11.8で、セイバーメトリクス的にはMLBのゴールドグラブ級に近い守備力を持つ選手である[253]。NPB公式戦での外野守備は全て中堅手としてであり、中堅守備について自身は、投手の動きがよく見えて投手へ助言できるからと好む。左翼右翼守備の経験は、阪神時代のオールスターゲーム・日米野球であるほか、MLB公式戦では両翼ともに毎年あり、1年目の2001年は両翼へも万遍なく就いた。

守備理論に独自の合理性のもと拘りをもち[254]、日本ハム時代の外野守備走塁コーチ・平野謙や左中間コンビを組んだ森本稀哲は、その理論には驚く点があるという[255]

ポジショニング

ボールカウントなどの状況や、投手と打者の特性の組み合わせにより、独断で頻繁に時には大幅に立ち位置を変える[256]。また中堅から両翼の選手へ指示を送るリーダー的存在である期間が長く[257]、自身が二塁守備へまわった際にも、その場から先輩外野手へ合図を数度送っていた[90]

構え

自身は少年野球の子供達にも向けた提言として「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こすことで一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。自分の場合は常に上体を起こして体の力を抜いた状態でいて、小刻みなステップを踏みながらスタートのタイミングを計る」と解説する。[258]

打球判断

元外野手の高田繁本西厚博(元同僚)は新庄の守備の優れている点として「打球を予測する勘、嗅覚」を挙げた[249][259]。走者が次々塁を狙った場合に余裕で補殺できると判断すると、狙わせるためにあえて捕球を遅らす[248]

捕球

平凡な飛球でも落下点へ入った後に軽くジャンプしながら捕球するというスタイルであり、これは高校時代に先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものである。阪神時代に少年野球の指導者より、野球少年に悪影響を及ぼすと指摘されたことを機に大熊忠義コーチと結んだ、もし落球した場合はやめるという約束により一時封印して以降は[260]、引退までこのスタイルを貫いた。自身はその利点について「走り込んできて、フライ性打球は上方向、ライナー性は横方向へ早めにジャンプして、その頂点で打球を見ることで目線が一瞬止まり(ぶれを防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。そして着地しながら捕球することで、打球の勢いを吸収できる[258]。さらに着地後には、その勢いですぐにスローイング(送球)できる」と解説し、これらを知人から「新庄式野球力学」と からかわれるという[254]。このスタイルはアメリカで「Shinjo hop」[261]「Shinjo's crow hop」[注 23]と称されている。[78]

ダイビングキャッチを行う外野手であり[263]人工芝上で、袖の無いアンダーシャツを着用して腕を晒した状態であっても敢行した[264]

送球

捕球してから送球に移るまでの動作時間が速い[265][259]。内野手の中継に送球する前の飛球捕球や、跳ねたクッションボールを素手の右手で捕る際などには、スローイング体勢に入りながら捕球する[266]。送球の球筋が変化してしまう場合には、ブルペンで投げ込み修正していた[147]。また強度の投げ込みを行い、肩と肘の張りをつくるという独特の調整法もとった[267]

若手時より球界の人間からも強肩と評され[268][269]、その肩力をMLB時代のテレビ実況が「ロケットアーム」と称した[15]。日本ハム時代の遠投は130メートルほどであり[270]、阪神時代の1997年オールスターゲーム試合前の投球スピードコンテストでは147km/hを記録した[271]。阪神で同僚時の定詰雅彦捕手は新庄からの本塁送球について「きれいなストレートの球質。ワンバウンド送球時、手元までグゥーと伸びてくるので、どこでバウンドするか判らない。彼の強肩なら、送球が内野手の頭上を通過するノーバウンドのバックホームをしたとしても、打者走者は送球間の二塁進塁を狙わないと思う。」と語った[271]

他の野手との連携

他の野手の守備へのバックアップを怠らない[272]。MLB時代の2002年には中堅手としてランダウンプレイに加わり刺殺を記録した[273]

2000年5月25日の中日戦(甲子園)6回表同点無死一・三塁の場面で、打者・レオ・ゴメスが打ち上げた左翼手の定位置付近への飛球の落下点に坪井智哉が入ろうとしたところへ、中堅・新庄が声で自身の到達を知らせながら走り込み(坪井から譲られて)捕球して本塁へ送球し、タッグアップした走者・李鍾範を補殺した[274][275]。2002年には中堅から走り込んで右翼守備をカバーして補殺したこともある(前述)。

日本ハム時代、左翼・森本稀哲、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、現役最終の2006年には1年を通して形成し、3人揃って2006年度ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手での同賞の外野手部門独占は1978年の阪急ブレーブス福本豊簑田浩二バーニー・ウイリアムス〉以来、史上2回目)。この両翼の2人と「左(右)中間への深い打球を捕球→体勢が悪い時は相手にトス→トスを受けた方が補殺を狙う」という連携を時折行った。

日本ハムでは投手交代時に外野3選手が中堅の位置に集まり、立て膝をついて膝を突き合わせ、グラブを帽子の上に被ってミーティングするシーンが恒例となった(新庄の発案)。2006年の日本シリーズ第4戦では、外野に加え内野でも4選手が集まり同じポーズをとって話す姿が見られた[276]。新庄の引退後も日本ハム外野陣はこのポーズでのミーティングを続けている[277]

その他

日本ハム時代には「走者がいる場面で後方への飛球を追い、刺殺は無理でフェンスに直撃すると判断すると、咄嗟に振り返って打球に正対する体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてタッグアップに備えリタッチさせるなど惑わせて、その走者の進塁を一つ少なく抑える」というトリックプレーを稀に行った。

投手挑戦

1998年秋季キャンプから外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始した。この挑戦について自身は「センターの守備位置からリリーフ登板してみたい」と発言するなど乗り気であった。挑戦の発案者である監督の野村克也が発案した理由は、投手をやることで、打撃時に活かせるよう投手心理を理解してほしいため、また、上半身主体ではなく下半身を使う打撃に活かしてほしいためであるが[278]、当時に野村は「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある。」「下半身の使い方を覚えたら150km/hは出る」などとも話していた。[279][280][281]

翌年のオープン戦では、3月5日の巨人戦においての初登板でリリーフの1回を三者凡退に抑え、球速143km/hを記録した(藤崎台県営野球場)。次の登板(リリーフ)となる21日、福岡ドームでのダイエー戦では自己最高の145km/hを記録し、フォークボール佐々木主浩から教わった)で本間満から三振を奪い、合計2試合で2回を投げて奪三振1・被安打および被本塁打1(打者:松中信彦)での失点および自責点1を記録した[282]。しかし傾斜のあるマウンドからの慣れない投球動作により、また当時の痛をかばって投げていたことも影響して、左を痛めたために挑戦は断念した。[279][280][281]

高校時代は外野手であったが、1年秋・新人戦の準決勝・決勝ダブルヘッダーにおいて、エース投手の故障による代役として連続完投勝利を記録した。自身は「投手は好きではなかったし、コントロールもなくカーブなどの変化球が投げられなかった」という。当時の監督で新日本製鐵堺硬式野球部監督時代に野茂英雄を発掘した浜崎満重は、新庄を投手として育てなかった理由を「外野守備に天性のものがあった。加えて性格的に常に一生懸命投げるから肘を壊しかねず、素直なので打者に球種を読まれる恐れがある。」と説明した。[283]

打撃

全般

投球初球からでも積極的にスイングする[284]。新庄の打撃の特徴について、ヤクルト監督時代の野村からは「状況によらず、強引に長打狙いのフルスイングをする」と評され[285]、同じくヤクルトの捕手として長年に渡り対戦した古田敦也からは「狙い球を変えずにヤマを張ってフルスイングし、腹をくくって打ってくる。例えば1・2球目にカーブが連投されたのに対し、直球を待っていたと予想される空振りを連続でした後の、(一般的に打者は空振りした球種を次も待つ傾向にあるので)今度はカーブを狙ってくるであろうと投げられた3球目の直球に対し、またも直球を待っていたと予想されるスイングで本塁打を打つ(そのようにして打たれた経験がある)。一般的な打者に対してのマニュアルから外れるという意味で嫌な打者。」との趣旨で評された[286][287]

プルヒッターであり、阪神時代の145本塁打中で右翼方向への当たりは4本であった[104]左投手に対しての成績は右投手に対してより良い場合が多く、大差がつく場合もあった。MLB時代における2年目中盤以降は左投手時限定での起用が多かった[146]。比較的に直球を得意とし、フォークボールなどの落ちる球種をはじめとした変化球を苦手とする[104]変則投法に対し苦手意識があり、日本ハム時代に対戦した右アンダースロー渡辺俊介(ロッテ)からは安打できず、次第に渡辺との対戦では起用されなくなっていった(通算対戦17試合で6打数3三振。2006年は対戦6試合で打席なし。)[288]

阪神時代2000年にキャリア最多28本塁打を打ち、そのうち「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打は20本あり、勝利打点13はリーグ2位(1位とは1回の差)[104][105]。MLB通算での満塁時の成績は打率.400(25打数10安打)・本塁打2・打点30であり、特に初年度2001年は打率.583・打点17を記録し[131]、同じく2001年にチーム最多タイとなる勝利打点11を挙げるなど[132]クラッチヒッターであるとの声が挙がった[128][129][127]。NPB/MLB通算での満塁本塁打は9本、サヨナラ安打は10本(そのうち本塁打4本)である。

打撃において最も影響を受けたコーチは、プロ入り時の二軍担当で後に一軍でも指導を受けた柏原純一であり、すり足打法(後述)や敬遠球を打つ練習などの試行錯誤を共にした(前述も参照)。自身の打撃に対する考えや談話の中には「思いきり振っただけ」などのように単純明快な表現があるが、阪神打撃コーチ在任時の長崎慶一は若手時の新庄について「あの年齢であそこまで(打撃について)考えている選手はいない」と評している[289]。打撃復調へのヒントを求めて、グラウンド整備担当者に対して自身の状態を尋ねたりもした[290]

構え

両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。この待機の仕方は「ジャック打法」と呼ばれた(由来は童話『ジャックと豆の木』より[291])。この動作は形を変え、時には行わず、MLB2年目ごろまで続けた。MLB1年目には相手チームから「両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないか」という疑惑をかけられたこともあるが、以後も自己流を貫くと疑惑は消えていった[291]。この動作の全身が伸びきった状態を描いたイラストレーションを自身の個人マークとして、グッズなどに使用している[17]。また新庄をモノマネするタレントの神奈月は、演じる際に新庄の特徴としてこの動作を強調する[292]

フォーム・スイング

一本足打法の時期が殆どである。阪神時代後期にはマーク・マグワイアなどを参考にした、すり足打法の時期もある[293]。特に阪神時代は成績不振と打撃コーチが頻繁に交代することも影響して、フォームの試行錯誤を繰り返した[66]

柏原コーチ指導のもとで年間本塁打・打点のキャリア最多を記録した2000年シーズン序盤、自身はそれまでバットスイングにおける最大の弱点とされたドアスイング(トップからインパクトにかけてバットヘッドが遠回りをして出てきてしまうスイング)について「昨年まではバットを棒のように使ってしまっていた」と表現し、好調の要因については「バットをのように使って打てた」「バットヘッドの重みと投球のスピードを利用して打てた」などと表現した[52]

日本ハム時代、自身は右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたことを気にしていたが、白井一幸ヘッドコーチのアドバイスでアッパースイングでバットを振ることで成績が向上した。2005年6月12日の阪神戦で、阪神甲子園球場の左翼席中段まで本塁打を運んだこともある[171]

本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる[294]。これは後述の行為と共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈された行為であるが、放り投げる理由にはグリップに滑り止めの松脂を多量に塗っていて手が離れにくい事情もある[295][296]

走塁

ベースランニング

ストライドが広く[297]、一つ塁を回って以降のトップスピードが速い[298]。右打席でスイングが大きいため一塁までのタイムは4.4秒と平均を下回る[299]。高校時代の直線100メートル走タイムは11.7秒[32]

スライディング

阪神時代にヘッドスライディングを行い左肩を二度故障して以降はこれを封印するが、2004年のオールスターゲーム第2戦では球宴を盛り上げるためにと試みた本盗時に敢行している[300][168]

打者走者として一塁へ駆け込む際では珍しい、守備側選手との接触を回避するための足からのフットファーストスライディングをMLB時代以降に稀に敢行し、2001年の「カミカゼ・スプリント」と称される併殺を阻止した走塁の際にも足から滑り込んでいる。

その他

本塁打を打ったホームイン時に手で触塁することがある。これは前述の行為と共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈された行為であり、この行為は以降MLBでは封印した。手を使う理由はベースを土で汚さないためであり、球審から礼を言われたこともあるという[120][301]

評価

NPB

2011年12月9日、野球体育博物館「平成24年・第52回競技者表彰委員会・野球殿堂入り候補者名簿」のプレーヤー部門に掲載された。得票は5で翌年の名簿から外れた[302]

日本プロ野球選手会が2000年より毎シーズンオフに行っている「選手が選ぶ!ベストナイン・中堅手部門」アンケートで、2004年・2006年に選出された[303]

2010年のオールスターゲームに出場の「選手が選ぶ思い出のオールスター・ランキング」アンケートを中継局・テレビ朝日が行った結果、2004年の本盗が7票を集め第1位に選出された。投票者は、井口資仁青木宣親前田健太、他4名。他にプロ入り前にオールスターを観て印象的だったとして、現役時の取材でこのプレーを挙げた選手には、坂本勇人柳田悠岐宮﨑敏郎小川泰弘などがいる[304][305][306][307]

北海道日本ハムファイターズ札幌ドーム内の球団事務所を2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」として、トレイ・ヒルマン、新庄、ダルビッシュ有(入団順)の3人の姓のアルファベット表記を使用した[308]

時にはドラフトで注目された選手など、プロ入り前後の選手がもつ高い身体能力や野球センスが「新庄級」「新庄みたい」などと評されたり[309][310]、そのような評判を得た新庄と同じ九州出身の外野手が「新庄2世」と称されることがある(甲斐雄平武田健吾など)[311][312]

MLB

Deadspin英語版が2011年発表の " The 100 Worst Baseball Players Of All Time: A Celebration " に「But They Had Good Points(しかし、彼らは良い点を持っていた)」というグループで選出された[313]

野球用具

アドバイザリースタッフ契約

現役最終の2006年は特定の企業と契約せず、プーマ社から衣装類の、ルイ・ヴィトン社から野球バッグ類の提供を受けるなどした。[317][318]

グラブ

初任給を使い7,500円で購入し、MLB時代の同僚に誤ってスパイクシューズで踏まれて大破損したりと4回の大補修を重ね、現役引退まで使用した[196][320]。ひとつのものを長年使い続けるプロの外野手は稀であるが、これには父親からの「商売道具を大事にしろ」という教えが影響を及ぼしていた[212]。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称する拘りの代物で、現役の間は他人がはめることを許さなかった[196][321][322]。冗談交じりにながら「もし盗まれたら引退する」と語ったこともある[258]。引退会見では、前日の最後の試合でタイロン・ウッズライナーを捕球した際に破けたりと、消耗度合いが限界まで達していると語った[196]。2011年に父親が死去した際に、このグラブもに納めた[212]

打球の手元での急変化に対応するため、ポケットが「土手・中央・ウェブ・ウェブ先端」の4か所にあり、ウェブ先端部分から外側にボールが半個分ほど飛び出した状態でも捕球できるという。使用時は手との固定のため、守備用手袋に松脂を塗布する。グラブ外側の親指部分に「 (TH) 63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍を入れている[323]。現役最終年には、手首(甲側)の商標位置にオリジナルタグを縫い付けていた(デザインは自身の個人マークと「Shinjo」の筆記体表記)[324]

高校時代は久保田スラッガー社製・外野手用を使用。特注品であり、各パーツなどについての注文事項を記した手紙を同社へ送付していた。受注した「日本屈指のグラブ作り・型付け名人」として知られる江頭重利は、あんなにも事細かな注文を受けた経験はないと語っている[注 24]

バット
  • デサント社製:34.5インチ・930 - 940g(1993年[5]) → 長さ不明・900g未満(1998年[23]) → 33.5インチ・910g(1999年[23]
  • オールドヒッコリー社製 (Old Hickory Bat Company) :素材ロックメープル・34インチ・890g(2006年)[325]

他。

他選手よりの譲受品や借用品も試合で時折使用し、プロ初本塁打はトーマス・オマリーのもので[326]、2001年には全10本塁打中9本をジョー・マクユーイングプレストン・ウィルソンのもので打っている[327]

ダイレクトプロテクト[328]を使用し、同品の普及以前の若手時は右手親指にスポンジを巻いていた[329]

エルボーガード

打撃時の投手側に向ける肘を死球から守る防具。1993年当時に同品は未普及であり、7月に死球を左肘に受け負傷したのを機に球団トレーナーに作成を依頼した、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットさせるものを着用し始めた[330]。またエルボーガードを外野守備時のダイビングに備え着用したこともある。

スパイクシューズ

長年の足の故障を考慮しての改良を度々行い、主にミドルカットタイプを着用した。2006年は奈良県のジャガーズ創工社製も着用した。[331]

ユニフォーム

NPB時代はユニフォームを製作しているデサント社(個人契約もあり)およびミズノ社(日本ハム時代のビジター用のみ)へ特注して、上着は既製品と比べて胸元部分が深くV字型に開き、袖部分が短くタイトなものを着用した[332]。日本ハム時代のズボンも特注の、裾がラッパ型に広がってスパイクの底の近くまで被さるものを着用した[333]。また日本ハム時代はズボンの臀部付近や帽子のつばなどにも見た目を良くする加工を施した[150][323]

アンダーシャツは主に、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐためのタートルネックで、夏場はノースリーブのものを着用した。ノースリーブのタートルネック製品普及以前の若手時には長袖の製品の袖部分を切断していて、この型のものを着用した選手はNPBでは自身が最初であろうという[101]。なお日本ハム時代にはNPBで初めて首部分に自身の個人マークをプリントする[334]など、様々なデザインのものを着用した[150][323]

若手時にズボンの裾を足首付近まで下ろす穿きこなしが一般化して、そうし始めた当時のアンダーストッキングは、通常2枚穿く靴下類の代わりにサッカー用のものを1枚のみ着用していた。これは規則では禁止であるがこちらの方が都合が良く、皆も真似しだしたという[101]

リストバンド

主に長いものを両手に着用し、日本ハム時代には短いものを2枚(隙間をあけて)ずつ着用することもあった。色はNPB時代は主に自身のトレードカラーである赤。MLBではチームカラー以外の用品の着用は認められないため、所属した2球団のカラーの中のオレンジ色を主に着用した[335][336]。他の色では主に阪神時代に、ツートンカラー(赤色×黒色)・紫色・黒色など。日本ハム時代にはチェッカーフラッグ柄や水玉柄などの柄物も着用した。[323]

ドーピング陽性反応

2022年6月8日に『文春オンライン』が現役時代の2006年にドーピング検査で陽性の判定を受けていたことを報じ、9日に当時オーナー代行を務めていた小嶋武士が事実関係を認めた[337]

現在は禁止薬物となっている「クロベンゾレックス」、所謂グリーニーが検出されたが、2006年から始まったドーピング検査は当時罰則がなく、違反が見つかった場合も非公表とされていた。球団が本人に確認したところ、本人はサプリメントの中身の成分を知らず、無意識に使っていたという。ドーピング検査では「覚醒剤成分」が検出されたとして警視庁が改めて調査したが、覚醒剤取締法等で規制されている薬物ではなかったため、事件化されることはなかった[337]








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