府内城 歴史・沿革

府内城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:19 UTC 版)

歴史・沿革

築城以前

古代にはやや上流の上野丘陵豊後国国衙[注釈 2]が置かれていた。鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国・筑後国守護職・守護大名であった大友氏は、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館を築いて本拠とし、この館を中心に府内と呼ばれる市街が形成された。また、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山城などへ拠点を移している。府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなむ。

安土桃山時代・江戸時代

  • 1586年天正14年) - 島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われる。
  • 1593年文禄2年) - 豊臣秀吉の臣下に入った大友氏第22代当主大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。
  • 1594年(文禄3年) - 早川長政代官として府内に入る。長政は、当初は家島に仮館を構え、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている[10]
  • 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する(海城[注釈 1])。当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでおり、この地では大友氏の時代に船の荷役が行われていた場所で「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという[11]
  • 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。
  • 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
  • 1602年(慶長7年) - 天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。
  • 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。
  • 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。
  • 1634年寛永11年) - 重利の子・重義長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。
  • 1656年明暦2年) - 吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩稲葉信通が城代となる。
  • 1658年万治元年) - 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。
  • 1743年寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。

近現代

  • 1872年(明治5年) - 城内に大分県庁が置かれる。
  • 1919年大正8年) - 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられる。
  • 1945年昭和20年) - 大分空襲により大手門、櫓3棟が焼失する。
  • 1963年(昭和38年) - 大分県の史跡に指定される。
  • 1965年(昭和40年) - 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を外観復元。
  • 1996年平成8年) - 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を木造復元。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(94番)に選定。

注釈

  1. ^ a b c 豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多いが、府内城もその一例である(柴田2008、17ページ)
  2. ^ 現在の大分市古国府にあったと考えられている。

出典

  1. ^ a b c d e 府内城 県史跡および市史跡”. 大分市 (2016年2月16日). 2018年4月15日閲覧。
  2. ^ 国・県・市指定文化財一覧”. 大分市 (2017年2月21日). 2018年4月15日閲覧。
  3. ^ 柴田2008、17ページ
  4. ^ “大分文化会館 来年10月末、閉館へ”. 大分合同新聞. (2012年2月18日). オリジナルの2012年2月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120220212947/http://www2.oita-press.co.jp/localNews/2012_132952972332.html 2018年4月15日閲覧。 
  5. ^ “OITA見聞録:大分文化会館閉館まで1年半 府内城再建の「夢」 20年前の「約束」、市は?”. 毎日新聞地方版. (2012年6月25日). オリジナルの2012年7月13日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20120713065801/mainichi.jp/area/oita/news/20120625ddlk44040294000c.html 2018年4月15日閲覧。 
  6. ^ 大分城址公園整備・活用基本計画を策定しました”. 大分市 (2017年2月28日). 2018年4月15日閲覧。
  7. ^ “府内城天守再現へ パイプで骨格組み夜間ライトアップ”. 大分合同新聞. (2017年8月26日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/08/26/JD0056086894 2018年4月15日閲覧。 
  8. ^ “高さ30メートル府内城天守 27日からライトアップで再現”. 大分合同新聞. (2017年12月23日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/12/23/JD0056466432 2018年4月15日閲覧。 
  9. ^ “府内城、幻想的な姿再び 来年2月まで継続”. 大分合同新聞. (2018年3月28日). http://www.oita-press.co.jp/1010000000/2018/03/28/134353621 2018年4月4日閲覧。 
  10. ^ 府内藩(ふないはん) めまぐるしい領主交代 - ウェイバックマシン(2013年4月9日アーカイブ分) - 大分歴史事典
  11. ^ a b 市報おおいた」2017年9月1日号第1708号、大分市、2018年4月15日閲覧 
  12. ^ 平井聖監修『城 九州沖縄8 火燃ゆる強者どもの城』毎日新聞社 1996年
  13. ^ a b c 三ツ股正明 (1999-02). “府内城天守復元考”. 大分縣地方史 (大分県地方史研究会) (172): 50-63. ISSN 0287-6809. 
  14. ^ a b 小野英治 (1996-10). “豊後府内城天守について”. 大分縣地方史 (大分県地方史研究会) (163): 1-11. ISSN 0287-6809. 
  15. ^ 中井均・三浦正幸監修 学習研究社編『歴史群像 よみがえる日本の城 20 小倉城』学習研究社 2005年
  16. ^ 府内城宗門櫓の保存修理現場の見学会を開催します』(プレスリリース)大分市、2018年3月6日https://www.city.oita.oita.jp/o204/houdou_syuumonnyagyra_hozonsyuuri.html2018年4月15日閲覧 


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