鶴賀城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:33 UTC 版)
佐伯惟定、山田宗昌の奮戦で栂牟礼城の攻略をあきらめた家久は、鶴賀城に兵を向けた。この鶴賀城は大友宗麟の臼杵城(丹生島城)と義統の府内城の中間に位置する要衝で、守るのも大友家で勇将の誉れ高い利光宗魚であった。利光宗魚は兵力で圧倒的に不利でありながら、11月26日には家久軍に夜襲をかけるなどして島津軍を翻弄した。家久も12月3日に総攻撃をかけて宗魚の腹心である佐藤美作守を討ち取るなど、一進一退の攻防が続いた。12月6日には家久軍の猛攻で三の丸・二の丸を落とされて利光方の朝見景治が戦死。12月7日には残る本丸の攻防戦で宗魚が戦死する。しかし利光方は宗魚の弟の成大寺豪永が徹底抗戦して落城は免れた。
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