府内城 構造

府内城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:19 UTC 版)

構造

北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。

建造物

櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを標準で持っていた。層塔型で地階(地下)を持っており二重櫓は城内から三重に見えた。東丸には、最上階が天守と同形式の高欄と火灯窓を持った三重櫓が建っていた。

天守

天守は、1605年(慶長10年)旧暦11月に描かれた『府内絵図』の天守台部分には、「天守・四重・上重二間・三間。高 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」また天守台を表す内側の線に沿って、南北面の線に「八間」、東西面の線に「七間」と書き込まれている。『正保城絵図』には「天守ノ廣サ下ノ重七間八間」と書き込みがある。天守南側と西側に多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門と連結していた。

『正保城絵図』等では層塔型の白い四重天守が描かれ、北野隆は『豊後国府内城焼失付普請之覚』に描かれた天守の姿を参考に城漆喰塗籠の層塔型天守を推定している[12]。一方で、府内城天守が建造された時代は層塔型天守が現れる時代より前の1602年(慶長7年)であるので、望楼型天守の可能性を指摘している地方史家らもいる[13][14]。層塔型に描かれた絵図があることについては、簡略化されて描かれたもの[13]、望楼型天守を層塔型に改築した[15]、との指摘がある。

層塔型を否定する説には、『府内絵図』の上重二間・三間の書き込みについて縦書きの右行は東西であることを指摘して「二間」を東西梁間、「三間」を南北桁行とし、下ノ重南北面(平側)の8間に対して上ノ重の南北面は2間の妻側であるとして層塔型でない可能性を指摘しているもの[14]や、1656年(明暦2年)旧暦5月15日に書かれた『御城諸道具改帳』では、「上ノ重・二重目・三重目・下ノ重」とあり、この文書内の記述に注目して「下ノ重」を大入母屋造としてその上部に小規模な3重の楼閣を載せる望楼型天守を推定しているもの[13]がある。

人質櫓

本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に位置する。1861年文久元年)に再建された[1][11]。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている。

宗門櫓

城の南側で、大手門のやや西に位置する。城外からは石垣の上に建つ平櫓に見える一方、城内からは二重櫓に見える。櫓から北側に延びる石垣が出合曲輪と西丸とを仕切っており、城の出入口の一部をなす防衛上重要な施設である。1854年嘉永7年/安政元年)の安政大地震(安政南海地震豊予海峡地震)で倒壊し、1859年(安政6年)に再建された。1963年(昭和38年)2月15日に大分県の史跡に指定されている[16]

大手門

正式な名称は多聞櫓門(たもんやぐらもん)。1945年(昭和20年)の大分空襲で焼失し、1965年(昭和40年)に外観復元された[1]

廊下橋

西丸と山里丸とを結ぶ渡り廊下。大分市発足30周年記念事業として行われた府内城再発見事業によって、1995年度(平成7年度)に木造復元された。意匠は、大手門前に架かっていた廊下橋を元にしている[1]


注釈

  1. ^ a b c 豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多いが、府内城もその一例である(柴田2008、17ページ)
  2. ^ 現在の大分市古国府にあったと考えられている。

出典

  1. ^ a b c d e 府内城 県史跡および市史跡”. 大分市 (2016年2月16日). 2018年4月15日閲覧。
  2. ^ 国・県・市指定文化財一覧”. 大分市 (2017年2月21日). 2018年4月15日閲覧。
  3. ^ 柴田2008、17ページ
  4. ^ “大分文化会館 来年10月末、閉館へ”. 大分合同新聞. (2012年2月18日). オリジナルの2012年2月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120220212947/http://www2.oita-press.co.jp/localNews/2012_132952972332.html 2018年4月15日閲覧。 
  5. ^ “OITA見聞録:大分文化会館閉館まで1年半 府内城再建の「夢」 20年前の「約束」、市は?”. 毎日新聞地方版. (2012年6月25日). オリジナルの2012年7月13日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20120713065801/mainichi.jp/area/oita/news/20120625ddlk44040294000c.html 2018年4月15日閲覧。 
  6. ^ 大分城址公園整備・活用基本計画を策定しました”. 大分市 (2017年2月28日). 2018年4月15日閲覧。
  7. ^ “府内城天守再現へ パイプで骨格組み夜間ライトアップ”. 大分合同新聞. (2017年8月26日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/08/26/JD0056086894 2018年4月15日閲覧。 
  8. ^ “高さ30メートル府内城天守 27日からライトアップで再現”. 大分合同新聞. (2017年12月23日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/12/23/JD0056466432 2018年4月15日閲覧。 
  9. ^ “府内城、幻想的な姿再び 来年2月まで継続”. 大分合同新聞. (2018年3月28日). http://www.oita-press.co.jp/1010000000/2018/03/28/134353621 2018年4月4日閲覧。 
  10. ^ 府内藩(ふないはん) めまぐるしい領主交代 - ウェイバックマシン(2013年4月9日アーカイブ分) - 大分歴史事典
  11. ^ a b 市報おおいた」2017年9月1日号第1708号、大分市、2018年4月15日閲覧 
  12. ^ 平井聖監修『城 九州沖縄8 火燃ゆる強者どもの城』毎日新聞社 1996年
  13. ^ a b c 三ツ股正明 (1999-02). “府内城天守復元考”. 大分縣地方史 (大分県地方史研究会) (172): 50-63. ISSN 0287-6809. 
  14. ^ a b 小野英治 (1996-10). “豊後府内城天守について”. 大分縣地方史 (大分県地方史研究会) (163): 1-11. ISSN 0287-6809. 
  15. ^ 中井均・三浦正幸監修 学習研究社編『歴史群像 よみがえる日本の城 20 小倉城』学習研究社 2005年
  16. ^ 府内城宗門櫓の保存修理現場の見学会を開催します』(プレスリリース)大分市、2018年3月6日https://www.city.oita.oita.jp/o204/houdou_syuumonnyagyra_hozonsyuuri.html2018年4月15日閲覧 






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