寛文印知 寛文印知の概要

寛文印知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 02:56 UTC 版)

概要

従来は幕府から個々の領主に対して、領地判物・朱印状などの所領給付を示す文書を与えていたが、寛文4年3月7日に全国の大名に対して一旦これを返納することを命じた。続いて、4月5日付で全国の大名に対して同時に第4代将軍徳川家綱の名義によって同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、万石以上領地を有する大名として御朱印・目録留が交付されたのは合計219家に上るが、甲府徳川家及び館林徳川家徳川御三家は対象外であり、万石以上の大名であっても18の支藩には領地判物・朱印状が交付されなかった。また本藩・支藩論争で扱いがまとまらなかった伊予宇和島藩、伊予吉田藩の伊達両家には後日交付となった。

続いて、寛文5年3月1日に、公家・門跡・寺社に対しても同様の命令が出されて、同年の7月以後に順次新しい同一書式の領知判物・朱印状・領知目録を交付したのである。なお、公家と複数の徳川将軍から朱印状を受けた寺社及び50石以上の寺社領を持つ寺社に対しては個々に交付されたが、これに当てはまらない寺社については、所属する宗派本寺などに対して一括して朱印状などが与えられた。これによって公家97家、門跡寺院27、比丘尼(尼寺)27、院家12、その他寺院1,076、神社365、その他7に対して交付が行われた。

寺領・社領の安堵と同時に日本全国の全ての寺院・僧侶を対象とする諸宗寺院法度、全ての神社・神職を対象とする諸社禰宜神主法度を制定して、寺院・神社それぞれに対して一元的な統制を行った[1]

領知目録には、徳川将軍家が所領として与えた具体的な郡村の名称とその石高について明記され、領主の領有する具体的な範囲が確定された。また、江戸幕府による領知判物・朱印状・領知目録の書式と書札礼は以後これを定型とした。

実際に奉行としてこれを行ったのは、大名領担当は小笠原長矩永井尚庸公家領担当は稲葉正則寺社領担当は井上正利加々爪直澄、符案及び訂正は久保正之(右筆支配)であった。一連の交付によって発給された領知判物・朱印状・領知目録の総数は1830通に及ぶ。後にこれらの内容は『寛文印知集』(『寛文印知留』など諸本によって名称は異なる)と呼ばれた記録集にまとめられた。これは作成年代・編者は不明であるが、江戸幕府の全国統治の基本資料として、多くの写本・異本が作成されている。また、これによって同時期の全国の大名の配置と石高がほぼ把握出来るために、日本史教科書などでは、これに基づいて作成された大名の配置図が採用されることが多い。

『寛文朱印留』判物・朱印状通数と石高集計[2]
宛先 合計 (通) 判物 (通) 朱印状 (通) 石高 (石) 永高 (貫文)
大名 219 51 168 16,071,844.2949
門跡 27 23 4 27,388.8000
公家 97 14 83 37,861.4000
諸社 365 365 83,975.0000 865.200
浄土宗 155 1 154 13,054.2200 13.600
日蓮宗 86 86 3,399.4300 15.450
   受不施 46 46 1,528.3000 15.450
   不受不施 9 9 780.4000
   勝劣 31 31 1,090.7300
真言宗 226 226 39,830.5900
   新儀 (含本山・山伏) 123 123 8,809.5900
   古儀 103 103 31,021.0000
天台宗 119 2 117 35,233.9000 9.600
法相 6 6 3,763.0000
時宗 41 41 3,253.2000 2.500
律宗 33 33 2,894.3700 21.300
一向宗 17 17 1,436.3000
曹洞宗 261 261 7,812.7000
   総寧寺派 114 114 4,697.7800
   龍穏寺派 53 53 1,297.6000
   大中寺派 18 18 198.0000
   可睡斉派 76 76 1,619.3200
臨済宗 132 1 131 18,967.2800 272.710
   五山派 66 1 65 10,977.2800 272.710
   大徳寺派・妙心寺派・方広寺派 66 66 7,990.0000
比丘尼 27 27 4,428.9000
院家 12 12 951.4000 112.380
集物 7 7 3,002.0000
総計 1,830 92 1,738 16,359,096.7849 1,312.740

寛文印知を受けた寺社は1,507箇所に及ぶが、日光山東照宮・大献院廟領1万3630石8斗6升9合、久能山東照宮領3,000石など、主要な寺社が漏れていた。また50石以下の小寺社への頒布も実施されなかった。ただし3代将軍の徳川家光の時は、慶安元年(1648年)3月17日から慶安2年(1649年)11月29日にかけて、寺社への追加の朱印状約3,150通の発給を実施しており、徳川家綱も遅れて寺社への頒布を実施する予定があった可能性がある。[2] また家光の時までは万石未満の旗本の一部にも朱印状による領知安堵が行われていたが、家綱による寛文印知以降は旗本への領知安堵は黒印状に統一された。

貞享元年(1684年)に徳川綱吉が将軍職を継ぐと、寛文印知の対象外であった小規模寺社を含めて朱印状などの再交付(継目安堵)を行い、大名229通、公家107通、寺社4,535通、集物7通、合計4,878通が交付された。印知の対象となった寺社は寛文印知の時に比べて3倍以上に増えた。貞享印知の状況は国立公文書館所蔵「貞享御判物御朱印改記」にまとまっており、『寛文朱印留』と同種の本が貞享印知でも作成されたことが判るが、詳細な写本は現存しない。

徳川歴代の領印安堵(印知)の年月日[2]
将軍 将軍宣下年月日 大名領印知年月日 公家領印知年月日 寺社領印知年月日
1 徳川家康 慶長8(1603).2.12
2 徳川秀忠 慶長10(1605).4.16 元和3(1617) 他 元和3(1617).9.7~11 元和3(1617) 他
3 徳川家光 元和9(1623).7.17 寛永11(1634).8.4他 寛永13(1636).11.9 他
4 徳川家綱 慶安4(1651).8.18 寛文4(1664).4.5 寛文5(1665).11.3 寛文5(1665).7.11 他
5 徳川綱吉 延宝8(1680).8.23 貞享元(1684).9.21 貞享2(1685).6.11 同左
6 徳川家宣 宝永6(1709).5.1 正徳2(1712).4.11
7 徳川家継 正徳3(1713).4.2
8 徳川吉宗 享保元(1716).8.13 享保2(1717).8.11 享保4(1719).5.21 享保3(1718).7.11
9 徳川家重 延享2(1745).11.2 延享3(1746).11.11 延享4(1747).8.11 同左
10 徳川家治 宝暦10(1760).9.2 宝暦11(1761).10.21 宝暦12(1762).8.11 同左
11 徳川家斉 天明7(1787).4.15 天明8(1788).3.5 天明8(1788).9.11 同左
12 徳川家慶 天保8(1837).9.2 天保10(1839).3.5 天保10(1839).9.11 同左
13 徳川家定 嘉永6(1853).10.23 安政2(1855).3.5 安政2(1855).39.11 同左
14 徳川家茂 安政5(1858).12.1 安政7(1860).3.5 万延元(1860).9.11
15 徳川慶喜 慶応2(1866).12.5

第6代将軍の徳川家宣は、大名への判物・朱印状230通の発給を行い、また寺社・旗本への印知実施のための御触書を出したが、寺社・旗本への印知を実施する前に死去しており、旗本への朱印状の発給は復活しなかった。次の徳川家継も早世したため、判物・朱印状発給の準備も行われなかった。第8代将軍の徳川吉宗以後将軍の交替ごとに同じように継目安堵が行われる事となった。

第14代将軍の徳川家茂は公家領の印知を行わず、寺社領の印知も東海・関東・陸奥の寺社に留まった。最後の将軍の徳川慶喜は在任期間が1年であり、一切の印知を行わなかった。

寛文印知の記載例

寛文印知の記載例として、以下に播磨赤穂藩藩主浅野長直宛の領知朱印状と領知目録を示す(ただし賀西郡の内24村の村名を省略する)。一つの郡一円を領有する場合には「~郡一円」と表記され、領知目録には村名が記載されない。また一つの郡・村を複数の領主が分割する場合は「~郡之内」「~之内」と表記される。

播磨国赤穂郡百拾九箇村三万五千弐百石、賀西郡内三拾
三箇村八千九百弐拾石八斗余、賀東郡内弐拾四箇村八千
弐百壱石九斗余、佐用郡内五箇村千弐百拾弐石弐斗、都
合五万三千五百石余(目録在別紙)事、如前々充行之訖、全可領知
者也、仍如件
  寛文四年四月五日御朱印
                 筆者
                   大橋長左衛門
        浅野内匠頭とのへ

 目録
播磨国
 赤穂郡一円 百十九箇村
  高三万五千弐百石
   外三百六拾弐石六斗七升五合籠高
 賀西郡之内 三拾三箇村
  上野村 広原村 佐谷村 下芥田村
  (中略)
  新田村
  高八千九百弐拾石八斗五合
 賀東郡之内 弐拾四箇村
  穂積村 会我村 村貝村 垂水村
  窪田村 鳥居村 家原村 中村
  北村 梶原村 木梨村 上田村之内
  仁我井村 大門村 沢部村 黍田村
  下三草村 上三草村 牧野村 多井田村
  田中村 北野村 河高村 野村
  高八千弐百壱石九斗七升四合
 佐用郡之内 五箇村
  西本郷村 海田村 蔵垣内村 中山村
  山田村
  高千弐百拾弐石弐斗
 都合五万三千五百三拾四石九斗七升九合
右今度被差上郡村之帳面相改、達 上聞所被成下 御朱
印也、此儀両人奉行依被 仰付執達如件
                 永井 伊賀守
                      尚庸
  寛文四年四月五日
                 小笠原山城守
                      長瀬
     浅野内匠頭殿


  1. ^ a b 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年 ISBN 978-4-642-03461-6 P394-397
  2. ^ a b c 以下の論文によるが、総計など一部を修正した。寛文印知には1836通の判物・朱印状等が収録されているが、覚2通、願書1通、下知状1通を含み、また寛永寺(本表では門跡で集計)と楽人領(本表では集物で集計)は重複しているため、実際の領知判物・朱印状の通数は1830通である。『寛文朱印留』判物・朱印状通数と石高集計の表中の石高は「余」を加算しない。徳川歴代の領印安堵(印知)の年月日の表中の「―」は印知のないことを示す。
    • 大野瑞男, 「領知判物・朱印状の古文書学的研究 ―寛文印知の政治史学的意義(一)―」, 史料館研究紀要, (13号), pp. 1-54 (1981年).
  3. ^ a b 寛文4年の幕府直轄領(天領)の石高は大河内家記録「御取箇辻書付」による。以下の論文参照。
    • 藤田覚, 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」, 『史学雑誌』, 104 (10), pp. 1777-1786 (1995年).
  4. ^ a b c 前田綱紀宛領知判物・目録には富山藩(越中婦負郡・新川郡之内10万石)、大聖寺藩(加賀江沼郡・能美郡之内7万石)、金沢藩預地(能登4郡之内1万石)への言及があるが、富山藩と大聖寺藩には別個に領知判物または朱印状と目録が交付されており、金沢藩の項目からは省略する。
  5. ^ 島津久光宛領知判物には「薩摩・大隅両国並日向国諸県郡之内都合六拾万五千石余、此外琉球国拾弐万三千七百石」とあり、琉球の石高を島津久光所領の都合高に含めずに記載している。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 寛文印知に記載なし。
  7. ^ a b c 国立公文書館蔵『領知目録書抜 一』により、出羽国河辺郡一円の石高を1万3040石から1万3740石に、出羽国平鹿郡一円の石高を3万1440石から3万1420石に改訂。
  8. ^ a b c 京極高国宛領知判物には「丹後国十弐万三千弐百石(目録在別紙)事、加佐郡之内三万五千石京極伊勢守可進退之、丹波郡之内峯山廻壱万石除之、残七万八千弐百石如前々充行之訖、全可領知之状如件」とあり、別に領知朱印状・目録が発給された峰山藩の内の1万石を加えた丹後国内の京極家所領の石高合計の記述はあるが、宮津藩と田辺藩の都合石高の記述がない。領知目録でも宮津藩と田辺藩で個別に郡別村数・石高が記述されている。
  9. ^ a b 国立公文書館蔵『領知目録書抜 一』により近江国蒲生郡之内の石高を3842石0斗3升8合から8842石0斗3升8合に改訂。なお仙台藩の所領62万0056石5斗4升4合が確定するのは正徳2年(1712年)以降である。
  10. ^ a b c 幕末には東白川郡を「白川郡」、西白河郡を「白河郡」と書いて区別していたが、寛文印知では漢字の記述が逆転しており混乱がある。
  11. ^ 上杉綱勝宛領知判物には「出羽国置賜郡弐百五拾七箇村拾八万六千九百九拾石余、陸奥国信夫郡六拾箇村四万八千五百三拾石余、伊達郡八拾六箇村六万四千四百七拾石余、都合三拾石事、如前々充行之訖、全可領知之状如件」とあるが、領知目録を欠く。これは上杉綱勝の急死と末期養子の不備による15万石への減封に伴う混乱により、領知目録が交付されなかったためである。領知判物には寛文4年旧暦4月5日の日付が入っているが、「削封日記」によると実際の判物の下賜は旧暦5月22日付で、その際に米沢藩は長井郡(置賜郡)18万6994石5斗8升4合、伊達・信夫両郡11万3005石9斗1升6合、都合30万石6斗の高辻帳を提出した。それから間もない旧暦閏5月7日に上杉綱勝は急死している。
  12. ^ 寛文4年当時久世広之は老中を務める江戸定府大名であり、下総国結城郡結城本村に陣屋が置かれていたが、藩庁と呼べるかどうかは不明。
  13. ^ a b 国書刊行会編本により近江国蒲生郡之内の石高を1万3211石6斗2升4合から1万3217石6斗2升4合に改訂。
  14. ^ 国立公文書館蔵『正保飛騨国絵図』により郡別石高の端数を補った。
  15. ^ a b 寛永16年(1639年)付の「寛永十六年 三河国村々高附」(大須賀初夫編『三河国村々高附・額田県布告集』収録)により三河国渥美郡之内の石高の端数を補った。
  16. ^ 摂津国嶋下郡味舌村に陣屋が置かれていたが、藩庁と呼べるかどうかは不明。
  17. ^ 領知目録を欠く。
  18. ^ 宇和島藩の石高・所領は貞享元年(1684年)旧暦9月21日付の伊達文化保存会蔵「宇和島藩主宛領知判物(写)」(『愛媛県史 資料編 近世下』(1988年)収録)による。
  19. ^ 伊予吉田藩の石高・所領は貞享元年(1684年)旧暦12月13日付の太田渓二氏蔵「徳川綱吉領知朱印状写」(『愛媛県史 資料編 近世下』(1988年)収録)による。
  20. ^ 甲府藩の石高・所領は「甲州 弐拾五萬石割」(『竹橋餘筆 巻一』収録)による。なお都合石高との比較により信濃国内の石高を3万0730石1斗7升9合から3万7030石1斗7升9合に改訂。
  21. ^ 館林藩の石高・所領は「館林 弐拾五萬石割留」(『竹橋餘筆 巻一』収録)による。なお「秋田領」は「新田領」に改訂(『群馬県史 通史編4 近世I』参照)。
  22. ^ 尾張藩の石高・所領のうち、諸国の石高は「御高問答」所収の寛文11年(1671年)の「寛文十一亥年御領高」(徳川義親著『尾張藩石高考』(1959年)収録)、尾張国内の石高・所領は「寛文村々覚書」(『名古屋叢書続編』第一巻(1964年)、第二巻(1964年)、第三巻(1966年)収録)、美濃国内の石高・所領は「美濃国尾張領村々覚書」(『岐阜県史 史料編 近世四 付録村・町絵図共』(1968年)収録)、三河国・近江国・摂津国の村数と木曽定納の石高は『地方古義』所収の寛永12年(1635年)付の「寛永取調知行目録」(『名古屋叢書続編』第三巻(1966年)収録)による。また「寛文十一亥年御領高」(尾張国分48万2250石5斗9升7合 、美濃国分12万7020石2斗4升5合)と「寛文村々覚書」、「美濃国尾張領村々覚書」との間における尾張国・美濃国内の郡別石高の合計との違いは本表では過高・違高として処理した。
  23. ^ 紀州藩の石高・所領のうち、紀伊国内の石高・所領は国立公文書館所蔵『正保紀伊国絵図』、大和国内の石高・所領は寛永16年(1639年)付の奈良県立図書館蔵玉井家文書『寛永十六年 給所御代官替之分大和州著聞記』、伊勢国内の石高・所領は慶安元年(1648年)付の明治大学博物館蔵板倉家文書『慶安元年 伊勢国高郷帳』による。
  24. ^ 水戸藩の石高・所領は寛永12年(1635年)付の「寛永拾弐年 水戸領郷高帳先高 亥ノ三月」(『茨城県資料=近世政治編I』(1970年)収録)による。





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