太田資始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 10:00 UTC 版)
生涯
近江国宮川藩主・堀田正穀の三男。初名は正寛。文化7年(1810年)8月11日、太田資言の末期養子(娘婿)となり、遠江掛川藩主を継ぐ。文化9年(1812年)9月15日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文化10年12月16日(1814年2月5日)、従五位下・備中守に叙任する。文政元年(1818年)10月24日、奏者番に就任する。
水野忠邦との確執
11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となったが、老中首座の水野忠邦と合わず、上知令、出羽国庄内藩転封、倹約令などにその都度反対を標榜した。また、忠邦を幕閣を追放せんとして策謀をめぐらし、水戸に帰国していた常陸国水戸藩主・徳川斉昭に出府を要請し、斉昭を背後から操って忠邦の天保の改革を潰そうと画策した。
しかし斉昭が出府を拒否した上、忠邦にこの動きが漏れ、逆に資始のほうが天保12年(1841年)6月、老中から罷免され隠居した。跡は長男の資功が継いだ。その後、道醇と号した。
老中再任
次に老中に再任されたのが安政5年(1858年)である。大老・井伊直弼は堀田正睦、松平忠固を罷免し、代わりに資始、間部詮勝、松平乗全ら老中経験者3人を老中に起用した。既に家督を譲った隠居を老中に起用するのは大変異例なことであった。隠居のため役領3万俵を支給された。しかし、ここでも資始と直弼は尊王倒幕志士らの弾圧をめぐって意見が対立した。安政6年(1859年)、再び老中を罷免された。
三度老中に
文久3年(1863年)に3度目の老中就任をしたが、在職1か月で辞職した。幕府はなおも老練な資始を老中に迎えようとしたが、話がまとまらないうちに死去した。
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