太田資始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 10:00 UTC 版)
人物
- 天保期の大儒・松崎慊堂は、資始が直言抗弁の士を好み、「我を怒らせる者は忠臣なり」として、侍臣の諌争を奨励したと語っている。
- 資始が可愛がっていた愛馬が死んでひどく嘆いていると、侍臣が憂えて種々の手段で慰めようとした。このため資始はこれを恥じ、侍臣を集めて「これまで大切な家臣が多く死んだのを嘆いたことがないのに、馬ごときに嘆くのは物の軽重を誤るものであり、人君たる者のすべきことではない」と言い、二度と死んだ馬のことを口に出すことはなかったという。
- 山田三川の『想古録』では、上記の二つの逸話に「掛川侯、人君たるの器量あり」と表題をつけて収録している。
- 大坂町奉行所の与力であった大塩平八郎は、資始が大坂城代であった頃に面識があり、後に資始が京都所司代在任中の天保4年(1833年)に著書『洗心洞箚記』を上呈している。潔癖で狷介な大塩は決して権力者に媚びることはなく、4年後の天保8年(1837年)に大坂東町奉行の跡部良弼との確執が元で大塩平八郎の乱を起こしている。
- 大塩は乱の直前に老中など幕閣の要人たちの賄賂や不正無尽などの悪行を糾弾する建議書を、旧知の林述斎宛て飛脚便で江戸に送付した。老中および西の丸老中6人の中で、大塩から糾弾されなかった者は資始と脇坂安董の2人だけである。安董は寺社奉行から西の丸老中格となったために大坂表に赴任したことがなく、大塩との接点がなかった。糾弾された4人は資始と同様に大坂城代を歴任している。
年譜
- 寛政11年(1799年) 生誕
- 文政5年(1822年) 寺社奉行(7月17日)
- 文政11年(1828年) 大坂城代(11月22日)
- 天保2年(1831年) 京都所司代
- 天保5年(1834年) 西の丸老中
- 天保8年(1837年) 本丸老中(4月2日)
- 天保12年(1841年) 老中免職、隠居(6月3日)
- 安政5年(1858年) 老中に再任(6月23日)
- 安政6年(1859年) 老中免職(7月23日)
- 文久3年(1863年) 老中に3度目の就任(4月27日)、1ヶ月で辞任(5月14日)
- 慶応3年(1867年) 死去。享年68。
系譜
父母
正室、継室
子女
- 太田資功(長男)
- 秋元礼朝[1](五男)生母は良(継室)[2]
- 内藤政挙(六男)[3]
- 太田資美(七男)[4]
- 宝 ー 松平忠礼正室(次女)
- 籌 ー 牧野忠雅の養女、牧野忠恭正室
- 相馬充胤継々室
- 太田短子 ー 黒田直和正室
- 松平忠誠正室
固有名詞の分類
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