内田正良とは? わかりやすく解説

内田正良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 01:39 UTC 版)

 
内田正良
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保15年(1730年[1]
死没 文化4年10月12日1807年11月11日[1]
別名 主殿(通称)
戒名 泰山
墓所 東京都台東区蔵前の竜宝寺
官位 従五位下、主殿頭、近江
幕府 江戸幕府
下総小見川藩
氏族 内田氏
父母 父:内田正記、母:窪田忠種の娘
養父:内田正伝内田正美
兄弟 正房、正良、依田経貞
正室:伊東長丘の娘
正純、馬場正賀、川勝広品
依田堯道、娘(夏目為毅室)
テンプレートを表示

内田 正良(うちだ まさよし)は、江戸時代中期の大名下総小見川藩の第3代藩主。小見川藩内田家6代。

生涯

通称は主殿。享保15年(1730年)、内田氏の分家である内田正記の次男として生まれる[2]。同家は内田正世の三男正友を初代としており、父正記は武蔵国多摩郡で500石を支配する旗本であった[3]。はじめは同じ分家の内田正伝の養子となっていた。同家は内田正衆の三男正長を初代としており、養父正伝は常陸国鹿島郡などで1500石を支配する旗本であった[4]

宝暦3年(1753年)5月26日、本家の藩主・内田正美が早世したため、末期養子となって跡を継いだ。同年7月28日、将軍徳川家重にお目見えする。同年12月18日、従五位下主殿頭に叙任する。宝暦8年(1758年)2月19日に大坂加番となる[5]明和6年(1769年)8月19日、近江守に改める。天明2年(1782年)2月14日、長男の正純に家督を譲って隠居し[2]、文化4年(1807年)10月12日に死去[5]。享年78。

系譜

父母

  • 内田正記(実父)
  • 窪田忠種の娘(実母)
  • 内田正伝[6](養父)
  • 内田正美[7](養父)

正室

子女

  • 内田正純(長男)生母は正室
  • 馬場正賀
  • 川勝広品(三男)生母は正室
  • 依田堯道
  • 夏目為毅室

脚注

  1. ^ a b 内田正良』 - コトバンク
  2. ^ a b 寛政重修諸家譜 第6輯』(国民図書、1923年)p.285
  3. ^ 寛政重修諸家譜 第6輯』(国民図書、1923年)p.287
  4. ^ 寛政重修諸家譜 第6輯』(国民図書、1923年)p.286
  5. ^ a b 徳川実紀 第七編』(経済雑誌社、1904年)p.672
  6. ^ 内田氏分家。
  7. ^ 小見川藩主内田氏本家。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内田正良」の関連用語

内田正良のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内田正良のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内田正良 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS