喜劇急行列車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 13:40 UTC 版)
興行
1967年6月3日に国内公開され、併映は『あゝ同期の桜』。同作の人気に負うところも大きかったとされるが、本作は大ヒットした[7][8]。全国の国鉄職員とその家族200~300万人に割引前売券を売りさばいた[9]。国鉄関係者は映画の出来に「感激」したとされ、のちに国鉄から大川に感謝状が贈られた[10]。
評価
それまでの渥美は茶の間(=テレビ)の人気を買われ、1963年に宝塚映画と優先契約を結び[8]、しばしば映画に出演したが、いずれも期待を裏切り不入りが続き、『父子草』と『風来忍法帖 八方破れ』は撮影済みながら、当時お蔵入りしており[8]、当時の映画関係者の間では「渥美の顔は所詮は茶の間相手(=テレビ向きであっても映画には不向きの意)」というのが常識化していた[8]が、本作のヒットを受け、渥美自身も「(自分は)やっとゼニのとれる役者になった」と喜んだ[8]。『父子草』『風来忍法帖 八方破れ』は、本作のヒットを受け劇場公開されている[8]。
製作
本作および、のちのシリーズの企画(後述)は、大川博東映社長で、大川の唯一の企画映画とされる[11][7]。渥美清は「大川社長に『ボクは昔、鉄道員になりたかったんだが、汽車ポッポが好きでね。その夢が実現しなくて活動屋になっちゃったけど、君がボクの代わりに車掌さんをやってくれないか』と言われて握手して生まれたのが『列車シリーズ』」と述べている[12][注 1]。大川はそれまで「映画はズブの素人」と評された人物だった[13]。
プロデューサーの岡田茂が「東映喜劇路線」を敷こうと、東宝(宝塚映画)から渥美清を主演として引き抜き、瀬川昌治を監督に起用した[4][5][14]。
記者会見
1967年4月4日、東映本社会議室で製作発表会見があり、大川博東映社長、坪井与東映専務、瀬川昌治監督、渥美清、佐久間良子らが出席[11]。大川は「東映もそろそろ(ヤクザものから)脱皮する必要がある。人生には笑いが必要で、東映としてもここで喜劇路線を確立したいと思う。トコトンまで押して行きたい」などと話した[11]。瀬川監督は「渥美ほどユニホームの似合う俳優はいない。彼は平均日本人のキャラクターの持ち主で、その怒りや悲しみがストレートにファンに浸み込んでいく。この作品ではこのような彼の魅力を100パーセント引き出してみたい」などと抱負を述べた[11]。渥美は「正直いって主役に選ばれたことで面食らっている。列車のことは何も知らないが一生懸命やりたい」などと話した[11]。
撮影
列車内のシーンが多いことから車内セットが必要になったが、製作費用が掛かるために国鉄に協力を仰ぎ、一車両借りようとした[15]が、ちょうど春の移動最盛期で「東海道本線では遊んでいる車両はありません」と、ニベもなく断られた[15]。このためクランクイン予定が1か月遅れた[15]。その後なんとか協力が得られて撮影期間1か月の間、東京 - 長崎間の寝台列車を特別に用意して貰い、停止したまま設備が動作するように電源車を連結して撮影した[16]。
監督の瀬川は「大川社長が、以前に国鉄におられましたから。その頃の国鉄総裁(正しくは総裁ではなく副総裁・磯崎叡)は、大川さんのかつての部下なんですね。だから国鉄がとても協力してくれて、長崎行の寝台特急に撮影用の車両と電源車を連結してくれたりして、国鉄のPR映画にもなっていたんです」と話している[4]。
東映列車シリーズ
本作の好評を受け、シリーズ化が決定し、以降『喜劇団体列車』(1967年11月公開)『喜劇初詣列車』(1968年1月公開)の2作品が製作され、本作『喜劇急行列車』と合わせた3作品を「東映列車シリーズ」「列車シリーズ」と呼ぶことが多い[1][2][4]。二作目を製作中と見られる1967年10月の文献に「東映国鉄路線」と書かれた資料もある[17]。他に「喜劇・列車シリーズ」と書かれた資料や[18]、同じく瀬川昌治が手掛けた「旅行シリーズ」の一部としている資料[19]もある。
当時の東映は毎日ヤクザ映画を劇場に掛けていた時期であった[9][7]うえ、東映内部で作品の評価が低かったものの[7]、社長の大川はヤクザ映画を嫌っており[7]「プログラムに変化を入れなければならない」と、シリーズ化を決定した[7][8]。当時の東映の関係者は「国鉄は支社が28あるから(当時)28本作れる」と語った[17]。
第二作のタイトルには、団体動員を狙う『喜劇団体列車』と命名[9]。その際鉄道弘済会とタイアップして、駅構内の売店で、当時の一般劇場入場料400円の3割引き価格・280円で前売券を販売し[20]、好調な売れ行きとなった。
1968年、3作目の『喜劇初詣列車』公開の後、大川社長の息子・大川毅東映専務と岡田茂たち「活動屋重役」が揉め、東映のお家騒動が起きた[21]。この煽りで、岡田は1968年5月17日付けで東映の映画製作の最高責任者・企画製作本部長に就任し[22]、続いて同年8月31日付けで映画の製作・配給・興行までを完全に統轄する映画本部長に就任[21][22]。大川社長から映画部門に関しては全権委任され[21][22]、一つの映画会社の社長の立場に匹敵する大きな権限を持たされた[21][22]。本部長就任にあたり、「エロとヤクザの“不良性感度”映画を一層強化する」と宣言した[21]。
『喜劇初詣列車』に続くシリーズ4作目として『喜劇新婚旅行』が企画として挙がっていた[4][19]。しかし本シリーズに渥美清とコンビを組んで3作品に出演した佐久間良子が、上記の東映の「不良性感度」路線を毛嫌いし[23]、エロでもグロでもない作品にしか出ない方針をとったため、出演依頼に応じなかった[23]。その影響で、東映での出演が減った[23]。このため佐久間は他社(映画会社)出演を認めて欲しいと強く訴えたが[23]、まだ五社協定の強い時代で思うようにいかなかったと述懐している[23]。自身が映画化を希望した『石狩平野』も製作延期になった佐久間はついに「ハラを立て[24][25]」、「順法闘争」に出て、それに応じた渥美清も4作目の出演を拒否。こうして「列車シリーズ」は終了した[4][24]。
- ^ a b “喜劇急行列車”. 日本映画製作者連盟. 2021年5月4日閲覧。
- ^ a b 喜劇 急行列車 東映ビデオ
- ^ a b “喜劇・大安旅行”. 優秀映画鑑賞推進事業/国立映画アーカイブ. オーエムシー (2019年6月9日). 2015年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 瀬川昌治の乾杯ごきげん映画術|作品解説2/ラピュタ阿佐ケ谷、泣いて!笑って!どっこい生きる!映画監督 瀬川昌治 - 神保町シアター瀬川昌治『素晴らしき哉 映画人生!』清流出版、2012年、167-168,172-173頁。ISBN 978-4-86029-380-2。鈴木義昭「喜劇の名監督、登場! 瀬川昌治インタビュー」『映画秘宝』2006年12月号、洋泉社、88–89頁。
- ^ a b c 東映株式会社総務部社史編纂 編「喜劇路線の確立を目指し渥美清&瀬川昌治監督の人気作『喜劇急行列車』公開」『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、165頁。
- ^ a b c d e f 坪井与・荻昌弘・高橋英一(時事通信)・嶋地孝麿「遊侠の真髄ここに! 坪井専務を囲む座談会」『キネマ旬報』1967年8月下旬号、キネマ旬報社、30頁。
- ^ a b c d e f g 「芸能ジャーナル 渥美は顔より使い方」『週刊サンケイ』1967年7月17日号、産業経済新聞社、99頁。
- ^ a b c d e 「〔タウン〕 団体列車に乗り換えた"ヤクザ東映"」『週刊新潮』1967年7月15日号、新潮社、15頁。
- ^ “〈娯楽〉 東映で三たび鉄道映画新旧機関車テレビの人気シリーズ”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 6. (1962年5月2日)
- ^ a b c d e “東映、喜劇路線確立を図る 第一作に渥美主演の『急行列車』”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 6. (1967年4月8日)
- ^ 八森稔「渥美清インタビュー」『キネマ旬報』2008年9月下旬号、キネマ旬報社、30頁。
- ^ 池内弘(日活撮影所企画部長)・橋本正次 (松竹映画製作本部第一企画室長)・森栄晃 (東宝文芸部長)、司会・北浦馨「映画企画の新路線はこれだ!!能力開発と経営感覚の一致こそ最大の必要事だ」『映画時報』1966年3月号、映画時報社、15頁。「映画界東西南北談議 難問題を抱えて年を越した映画界 市場再編成などで好材料に期待」『映画時報』1972年1月号、映画時報社、28頁。「撮影所には多様な作品をつくるエネルギーも職人の力も若いパワーも存在している全東映労連映研集会『どうしたら東映映画は再生できるか』」『映画撮影』1995年4月号 No.223、日本映画撮影監督協会、40頁。中野忠良「遂に破綻した東映・岡田茂22年間の"狂気の経営"経営の失敗と不良債権問題の責任をどう取るのか」『実業往来』1993年9月号、実業往来社、31頁。
- ^ a b 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、145-146頁。ISBN 4-87932-016-1。油井宏之「多チャンネル時代到来で注目される"映画界"の雄『東映』発展の足跡 東映会長・岡田茂インタビュー 『デジタル時代を迎えても即応型の東映は大丈夫だ』」『実業界』、実業界、1996年11月号、104–105頁。富司純子他「鎮魂、映画の昭和 岡田茂他」『映画芸術』= 2011年8月号、編集プロダクション映芸、132頁。石坂昌三「評伝・渥美清 『寅さん』渥美清の軌跡」『キネマ旬報』1996年9月下旬号、65頁。引き抜き、タイトル付け、リストラ…岡田茂氏「伝説」の数々 スポーツ報知2011年5月10日(archive)
- ^ a b c 「芸能 雑音雑記 国鉄に勝てなかった渥美」『週刊読売』1967年4月28日号、読売新聞社、54頁。
- ^ a b 日本映画映像文化振興センター 監名会リポート 第089回 「喜劇 急行列車」
- ^ a b c d e f 「〈ルック〉げいのう 国鉄の熱意にあおられる大川社長」『週刊現代』1967年10月5日号、講談社、28頁。
- ^ a b 浦山珠夫「日本沈没もとい日本映画沈没」『映画秘宝』2004年7月号、洋泉社、38頁。
- ^ a b c d e f g h 浦山珠夫「映画訃報 瀬川昌治 喜劇映画のツボを知り尽くした名匠」『映画秘宝』2016年10月号、洋泉社、86頁。
- ^ 「タイム 映画&演劇 駅の売店で売り出した"前売券"」『週刊平凡』1967年11月9日号、平凡出版、53頁。
- ^ a b c d e 竹中労「〔特集〕邦画五社の御健斗全調査 『東映二代目襲名㊙物語』」『映画評論』1968年1月号、新映画、57-62頁。「CORNER コーナー ムホンの噂とぶ東映城」『アサヒ芸能』1968年4月21日号、徳間書店、88頁。「〔タウン〕 東映"激震"の思わぬ波紋」『週刊新潮』1968年6月1日号、新潮社、15頁。「日本映画界は何処へ行く?新路線の開発に奔走中」『映画時報』1968年8月号、映画時報社、12-15頁。井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部「TOPIC JOURNAL 東映大改革・今田智憲は傍系へ 大川ジュニアの復帰は近い?」『キネマ旬報』1968年10月上旬号、キネマ旬報社、28-29頁。“ '68年十大ニュース 東映機構大改革実施”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): pp. 1. (1968年12月14日)井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部「TOPIC JOURNAL 責任重大の松竹三島新企画部長」『キネマ旬報』1968年12月下旬号、キネマ旬報社、26-27頁。「業界動向概観東映、未曾有の大手術」『映画年鑑 1969』1969年1月1日発行、時事通信社、107–116頁。
- ^ a b c d 今村金衛「日本映画の現勢Ⅴ 『特集 日本映画の首脳たち 五社首脳とその人脈 異才の経営者 大川博』」『キネマ旬報』1968年12月上旬号、キネマ旬報社、119-121頁。「邦画五社それぞれ生存権を主張東映・東宝・松竹の産業的多角経営軌道に乗る総合娯楽会社にすばらしい発展をつづける東映」『映画時報』1969年6月号、映画時報社、22 - 23頁。「映画界の動き 大川東映社長好景気を語る」『キネマ旬報』1969年9月上旬号、キネマ旬報社、80頁。藤本真澄(東宝・専務取締役)・白井昌夫(松竹・専務取締役)・岡田茂(東映・常務取締役)、聞く人・北浦馨「夢を売る英雄たちの会談 3人のゼネラル・プロデューサーの果断なる現実処理」『映画時報』1968年10月号、映画時報社、18頁。「岡田茂 年譜」『文化通信ジャーナル』2011年6月号 VOL.51、文化通信社、34頁。「戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27-28頁。文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、326-334頁。ISBN 9784636885194。俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、227-228頁。ISBN 4062095947。二階堂卓也『ピンク映画史』彩流社、2014年、155-158頁。ISBN 9784779120299。
- ^ a b c d e “(私の履歴書)佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日)(東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞)「ルック『水上勉原作"湖の琴"の変えられよう 清純派になったヒロインの性格』」『週刊現代』1966年11月17日号、講談社、26頁。「トピックコーナー 女性路線スタート」『映画情報』、国際情報社、1968年9月号、67頁。「芸能ジャーナル 表紙の人 女性映画にかける意地 佐久間良子三本目の水上作品」『週刊サンケイ』1966年10月3日号、産業経済新聞社、96頁。「ポスト 日本映画 窮地に立つ佐久間良子が情熱をかける『湖の琴』」『週刊明星』1966年9月18日号、集英社、84頁。
- ^ a b 「ウワサの真相の間 三船敏郎と大川社長の"ある約束"」『週刊大衆』1968年9月12日号、双葉社、80-81頁。
- ^ “奇妙!不況下の"おクラ"続出こんどは日活『私が棄てた女』怒る監督や主演者理由も不鮮明『観客層に合わない』”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 7. (1969年6月30日)
- ^ “東映で二つの喜劇”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): pp. 12. (1967年3月6日)「観客の目 ホステスと必勝法シリーズ ―女優主演の映画は夢のまた夢か―」『週刊文春』1967年3月13日号、文藝春秋、20頁。「試写室 SCREEN 『競馬必勝法』(東映) 競馬狂サラリーマンの泣き笑い 谷啓主演の"必勝法シリーズ"第一弾」『週刊明星』1967年10月8日号、集英社、65–66頁。
- ^ a b c d e f g h i 川中博人「邦画界の現状を物語る松竹の辣腕重役の首切り事件」『噂の眞相』1982年9月号、噂の眞相、34–37頁。
- ^ a b c “松竹一月番組一部変る『神様の恋人』子役募集”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 6. (1968年11月30日)
- ^ 「マスコミの目20億円新番組を総点検する」『週刊文春』1968年10月28日号、文藝春秋、12頁。
- ^ a b c “笑い止まらぬ旅行シリーズ 松竹・逆転旅行 ロケでガッチリPR”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年7月28日)
- ^ a b “フランキー堺 邦画各社マタに バンド再編でドラムも”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 14. (1969年3月28日)
- ^ 瀬川昌治と喜劇役者たち〜エノケンからたけしまで - flowerwild.net ──瀬川昌治インタビュー vol.3
固有名詞の分類
- 喜劇急行列車のページへのリンク