ローマ建築 ローマ建築の研究

ローマ建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 22:47 UTC 版)

ローマ建築の研究

ローマ建築の研究は、建築が美術のひとつの分野として考えられるようになった、15世紀ルネサンス時代に始まる。ルネサンスの芸術活動は、古代美術こそが真に美しいとする観点に立脚するものであるが、ジョルジョ・ヴァザーリが「ローマ人についていえばノ(中略)ノ彼らはあたかもローマの様式をあらゆる様式のうちで最高のもの、否むしろ最も崇高なものにしようとして領土内のあらゆる地域から美しいものを探し出し、それをひとつの様式にまとめ上げたといえるだろう」[97] と述べているように、特に古代ローマ美術こそが古代美術の完成と考えられていた。また、この時代にギリシア建築は全く知られておらず、古代の建築とは、すなわちローマ建築であった[98]。ルネサンス最初の建築論であり、以降の古典主義建築に大きな影響を与えたアルベルティの理論書『建築論 De re aedificatoria』(1450年頃に著され、1485年出版)は、古代ローマの建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポリオが残した、最古の建築書『デ・アーキテクチュラ De Architectura』を基本として書かれたものであるが[99]、この建築書はアルベルティ以降も、ラファエッロやフラ・ジョコンド、アンドレーア・パッラーディオらを通じてその解析が続けられた。一方で、古代ローマ時代の遺構の実測調査や、古代文献の研究も進められたが、当時の研究目的は、あくまで建築設計における問題を解決するためのもので、ドナト・ブラマンテやラファエッロといった盛期ルネサンスの芸術家、そしてミケランジェロジュリオ・ロマーノたちマニエリストの活動が物語るように、その建築活動はローマ建築に様々な意匠を見出し、これを設計に導入して新しい意匠を開拓すること、計画された建築物の価値を正当化することにあったと言える。このため、今日では一般的となっているローマ美術の様式上の区分について、ルネサンスの芸術家たちはほとんど意識していない[100]

ウィトルウィウスが著書において建築に導入している音楽的な調和比例は、ルネサンスの時代に建築における至上の美とみなされ、17世紀から18世紀に至るまで、建築の研究はウィトルウィウスから導かれるオーダーの比例原理に関するものであった。しかし、17世紀に、フランスの建築アカデミーにおいて、こうした調和比例がはたして本当に美を生み出すのか、という疑念が生まれる。建築家クロード・ペローは、『Ordonnances des Cinq Especes de Colonne』(1676年)において、ルネサンス以来の調和比例が美を生み出すという理論には根拠がなく、単純な整数比例が美しいという意見や批評が繰り返し与えられることで、これを美しいと錯覚するようになるのではないかと主張した。これに対し、建築アカデミー教授であったフランソワ・ブロンデルは、比例原理こそが建築美を生み出す基本的な原理であると反論したが、アントワーヌ・デゴデによるローマ建築の実測調査図面『Les edifices antiques de Rome』(1682年)によって、実際のローマ建築の比例は多様であり、ルネサンス的整数比例などというものはほとんど存在しないということが明らかとなった。ブロンデルをはじめとする保守派は、遺跡のなかに比例原理が見られないのは、高いものを見上げた場合など、比例の見え方が通常とは異なるために、最初から比例に補正を加えたものであると主張したが、ルネサンスの調和比例による世界観は大きく動揺し、やがて比例原理が建築の美を決定するという考えは放棄されることになる。

18世紀になると、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハの『Entwurf einer historischen Architektur』(1721年)(『歴史的建築の構想』)やヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの『Geschichte der Kunst des Altertums』(1764年)(『古代美術史』)など、ドイツ・オーストリアにおいて近代的な美術史・建築史の研究が始まる。美術史・建築史は、それまでのバロック、ロココ芸術の嫌悪と反感によって生まれるが、18世紀から19世紀までのドイツ建築史の発展は、古典建築よりもゴシック建築(今日ではロマネスク建築と呼ばれているものも含む)の研究によってなされ、イギリス、フランスにおいても、この傾向はあまり変わらず、ローマ建築に対する建築史からの研究はあまり行われなかった。また、18世紀中期に新古典主義運動が始まると、建築の根源が議論される過程で、ギリシア建築の詳細な調査が出版されるようになり[101]、ギリシア建築がローマ建築よりも古く、純粋であると考えられるようになった[102]。特にヴィンケルマンは、『ギリシア美術模倣論』(1755年)において、当時のヨーロッパ文化を退廃・堕落したものとみなし、古代への回帰を訴えたが、古代美術がすべて均質で完成されたものとは見なしておらず、最も優れた美術は紀元前5世紀から紀元前4世紀までのギリシア古典期の美術であると考えた。古代の美術、特に彫刻が末期に向かうにつれて衰退していくということは、すでにルネサンスの時代にも認められていたが、彼は古代美術の衰退期はもっと早く、アレクサンドロス3世の死後(すなわちヘレニズム美術以降)にすでにその後退が始まり、従ってローマ美術は、ギリシア芸術のデカダンスであると考えた。

ルネサンスの時代に生み出された、芸術が衰退と退廃のサイクルを繰り返すという考え方は、ヴィンケルマンによって非常に印象的なものとなるが、哲学において大きな足跡を残すことになるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルにも、この影響が見られる。ヘーゲルは、芸術とは自己理解を行うために必要な役割を担うものであり、芸術の形態は自己映像に応じて変化していくものであると考えた。彼によれば、芸術は歴史的に3つの段階、つまり象徴的芸術、古典的芸術、ロマン的芸術に分類され、それぞれエジプト・インドなどの東方の芸術、ギリシア・ローマの芸術、キリスト教・ゴシック芸術(現在ロマネスクと呼ばれるものを含む)がそこに含まれるとされる。ローマ建築は古典期芸術に含まれているが、厳密にはギリシア建築とキリスト教建築の中間形態であり[103]、ギリシア建築が合目的性に徹し、単純かつ高貴であるのに対し、ローマ建築は様々な目的を持ち、私的な場にも建築美が要求されるが、贅沢で上品さに欠けると考えた[104]。ただし、ヘーゲルにとって、建築の分野は主な関心事はなく、彼の建築に対する考え方は、アーロイス・ヒルトの『Die Baukunst nach der Grundsatzen der Alten』(1809年)に負うところが大きい。

現在、古代ローマは、政治学・法学・経済学など、様々な観点から研究が行われており、建築についても、都市遺跡の発掘[105] や碑文の解析によってある程度の情報が得られている。しかし、木材による架構や建築装飾など、考古学的に解明できない部分は多く、ローマ人が建築の美学をどのようにとらえていたかという根本的な問題ですら、ウィトルウィウスの『建築について』がほとんど唯一の情報源である。それも、ローマ建築においてどのような位置づけであったのかは分かっておらず[106]、例えば、ウィトルウィウスの言う意味での建築家(建築家と呼ばれる職業があったことは、碑文などから明らかである)という職が成立していたのか、成立したとすればそれは何時のことか、といったことは明らかでない。


  1. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.170)。ただし、ローマ建築の導入には長い時間を要したものの、最終的にはヘレニズムの建築的伝統をも変質させ【Sear(1983)p.231】、東ローマ帝国において独自の発展を遂げることになる。
  2. ^ グリマル(1990)(北野1995 p.6)。古代ローマの主要な建築的特徴は、これらの地域に建設された都市において生み出され、洗練されたもので、W.マクドナルドはローマ建築を「都市の建築」と評している。MacDonald(1988)p.1。
  3. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.23)。
  4. ^ 四分統治の中心となったのは、それぞれニコメディアシルミウムアウグスタ・メディオラヌムアウグスタ・トレウェロルムである。テトラルキアが終焉を迎えると、東西の中心都市としてビュザンティオンラヴェンナが開発される。
  5. ^ ただし、現存するカロリング朝建築(9世紀)はローマ建築との連続性を感じさせる。これはカロリング朝ルネサンスの賜物であるが、その後の混乱の時代にローマ建築の遺産は完全に失われる。ペヴスナー(1943)(小林・山口・竹本1993 pp.39-50)。ロマネスク建築も参照。
  6. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.6-7)
  7. ^ Sear(1983)p.30。ギリシア神殿には階段状の土台であるクリピーソーマがあるが、エトルリア、ローマのポディウムは階段ではなく垂直性の高い土台であり、これは同時代のギリシア建築にはない形態で、エトルリア建築と初期ローマ建築の繋がりを示す証拠となっている。また、カピトリヌスの神殿跡からは、エトルリア式のテラコッタ装飾(エトルリアの有力都市であるウェイイの様式)も発掘されている。Boethius(1992)pp.106,110。
  8. ^ イェシュタード(1973)(浅香1983 pp.108-109)。
  9. ^ Boethius(1992)pp.114-120
  10. ^ 青柳(1997)pp.195-198。
  11. ^ バンディネッリ(1969)p146。
  12. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.12)。
  13. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.10)。
  14. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.23)。青柳(1997)p.133、執筆者:渡辺道治「ローマ建築」
  15. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.24-28)。
  16. ^ バンディネッリ(1969)pp.148-151。
  17. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.30)。
  18. ^ 有力市民層による建築活動は、彼らが自らをアピールするために建築物に据えた碑文から明らかである。自らの業績だけでなく、皇帝の偉業や都市の出身者の成功を祈念して建設される記念建築物もあった。ケッピー(1991)(小林・梶田2006 pp.99-107)。現在のローマにおいても、アッピア街道沿いにあり、ガイウス・ユリウス・カエサルと三頭政治を組んだマルクス・リキニウス・クラッススの妻であるカエリキア・メテッラの墓廟や、行政官ガイウス・ケスティウス・エプロのピラミッド(墓)を見ることができる。
  19. ^ 有力な個人による指導体制は共和政末期にすでに形成されており、ルキウス・コルネリウス・スッラグナエウス・ポンペイウスも、カエサルと同じように建築活動を主導した。グリマル(1990)(北野1995 p.40)。スッラは門閥派強化のため、民衆派の集会場であるフォルム・ロマヌムのコミティウムとこれに付随する記念物を埋め立て、全面に石灰華で舗装した。また、カピトリヌスの再建計画を実施し、フォルム・ロマヌムを見下ろす位置に、現在も一部が残るタブラリウムを建設して権力を誇示した。一方、民衆派となったポンペイウスは、カンプス・マルティウスの開発に着手し、ローマで最初の恒久的な劇場となるポンペイウス劇場や、後にカエサル暗殺の場所となるポンペイウス回廊など、市民の娯楽や憩いの場となる建物を建設した。青柳(1997)pp.242-243、「共和政末期から帝政の確立へ」。
  20. ^ アウグストゥスは、皇帝という位を新たに創出したのではない。プリンケプスの称号は共和制時代に有力者の称号としてすでにつかわれていた。彼の権力の最終的な法的権原は、1.上級属州総督命令権(属州総督に対する命令権を集中的に保持。本来、属州総督命令権はローマ市およびその周囲1マイル内に居る場合は権原がないが、これも元老院議決によりローマ市内でも発動することができるようになった。)、2.護民官職権(神聖不可侵権、訴願者救済権、元老院議決拒否権などの護民官の職能のみを保持。職権のみを保持するため、同僚護民官の干渉を受けない。)、3.終身執政官命令権(執政官の命令権のみを保持。これについても、職権のみを有するため、執政官の干渉を受けない。)であるが、これらはいずれも共和制時代のそれに比べるとかなり逸脱したものであるものの、独裁官のような非常大権とは言えない。このため、アウグストゥスの政治体制を共和制の復活ないしは元老院との二元支配と見るか、あるいは第一人支配と見るかは諸説あり、古代においても、歴史家の評価は分かれていた。弓削達は、彼を「アウグストゥスの実力は新しい国法的秩序へと結晶することを自ら抑制し、ノ伝統的な共和政的国政のなかに身を潜めた」と評している。弓削(1966)p.211。
  21. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.45-48)。
  22. ^ スエトニウス(国原2007a p.124)。
  23. ^ スエトニウス(国原2007a p.214)。
  24. ^ 青柳(1997)pp.249-250、「共和制末期から帝政の確立へ」
  25. ^ 現在、モンテチトリオ宮殿の正面に建っている。アウグストゥスの誕生日である9月23日の日の出に、このオベリスクの影がアラ・パキスを指すように設計された。青柳(1997)p.247、「共和制末期から帝政の確立へ」
  26. ^ 青柳(1997)p.264、「共和政末期から帝政の確立へ」
  27. ^ 短い記述ではあるが、この宮殿の仕掛けの数々は、スエトニウスが記述している。スエトニウス(国原2007b p.166)。
  28. ^ 小佐野(1993)pp.39-40。
  29. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.80-83)およびSear(1983 pp.98-102)。
  30. ^ この法によって、ウェスパシアヌスはそれまでの皇帝と同じように、多くの法に拘束されないことを保証される。さらにこの法は、ウェスパシアヌスが国家の利益に関する全事項を行うことができるという権限を含むものであった。
  31. ^ アウグストゥスのフォルムの東側に位置する。現在のフォーリ・インペリアーリ通りとカヴール通りの交差点一帯にあたり、一部の遺構を目にすることができる。
  32. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.69)。
  33. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.69-70)。
  34. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.85-90)。
  35. ^ ペヴスナー(1975)(鈴木1995 p.18)。
  36. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.93)。
  37. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.70)。記念柱については、太田(1995)pp.15-21。
  38. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.93-97)。
  39. ^ ブリタンニアイギリス)には、国境を示すいわゆるハドリアヌスの長城が残る。異民族の侵入を防止するとともに、これ以上領土を拡大しないという意思表示であったとされる。
  40. ^ 内部円堂の直径と、中央部の天井(天窓)までの高さは等しい。また、その円に内接する正方形の一辺の長さと、円堂下層のオーダー上部にあるコーニスから中央部の天井までの高さも等しい。さらに、この建物は細部にも比率関係が認められ、その比率は4・8・16・32で成り立っている。
  41. ^ ドームに認められる方形の凹部がそれである。これは、ドームの重量自体を軽減する働きを持つほか、コンクリートを均等に乾燥させる効果もある。また、凸部をリブとして考えるならば、構造を補強するものと見なすこともできる。
  42. ^ ティベリウスは皇帝に即位する前はロードス島に、晩年はカプリ島に隠棲しており、それぞれにヴィッラを構えていた。
  43. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.114-121)。
  44. ^ Sear(1983)pp.235-236。
  45. ^ ヘレニズム世界には、すでにバシリカにあたる建築物であるストア、フォルムにあたるアゴラがあった。そもそも東方では、生活習慣の変化がたいへん緩慢であったので、ローマ式の公共施設を導入する必要性を得なかったと考えられる。パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.173)。
  46. ^ 例外的にアルカイック期の代表的な建築のひとつであるアポロン神殿が残る。
  47. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.182-183)。
  48. ^ 皇帝権力の権原は、歴史学者テオドール・モムゼンプリンキパトゥス(元首政)と呼んだものから次第に変質していき、3世紀後半になると、皇帝は唯一の立法者であり、かつ法に拘束されないとする専制君主化、すなわちドミナートゥスと呼ばれる存在となる。また、神のもとに帝権が置かれるという考え方は、キリスト教が国教となると、皇帝は地上における神の代理人として神聖視されることになる。弓削(1964)pp.259-260。
  49. ^ 帝政前期の都市参事会員は、都市建設に積極的に参画し、しばしば私財を投じて都市を記念碑で飾り立てた。しかし、3世紀にすべての一般市民に人頭税が課せられ、都市領域の徴税義務を都市参事会員が負うことになると、租税の不足分は参事会員が私財で補填することになっていたため、有力者は都市参事会員になることを忌避し、逃亡することすらあった。ディオクレティアヌス帝はこの身分を固定化し、ユリアヌス帝、ウァレンティアヌス帝らは法を発して都市参事会員の負担を軽減し、弱体化を食い止めようとしたが、都市参事会員は没落には歯止めがかからず、建築を含む文化活動に対する主体性を失う。弓削(1964)pp.278-279。
  50. ^ p.ブラウン(1988)(宮島2006 pp33-34)
  51. ^ 3世紀中葉になると、軍隊の指揮は元老院議員ではなく、叩き上げの軍人が行うようになり、その動員数も60万人に上った。軍を維持する国費を補填するため、増税と徴税官の増員、官僚組織の強化が行われた。p.ブラウン(1988)(宮島2006 pp18-19)
  52. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.215-219)。
  53. ^ しかし、サンタ・コンスタンツァ聖堂やサント・ステファノ・ロトンド聖堂など、宮殿やパヴィリオン、霊廟に見られる集中形式の建築物も、主に殉教者記念礼拝堂などで採用されている。また、アンティオケイア大聖堂や、カッパドキアのナジアンゾス聖堂のように、多数の信徒を集めなければならなかったはずの大聖堂が集中形式として建設されたものもある。
  54. ^ ペヴスナー(1943)(小林・山口・竹本1993 p.23)。
  55. ^ 岩井(2000)p.48。
  56. ^ ギリシア人の建設したヘレニズム諸都市(ポセイドニア(現パエストゥム)、ネアポリス(現ナポリ)など)なども同様で、これらの都市にはローマ人入植者が送られた。一方、北部イタリアからガリアにかけての都市(都市というよりは町か村落であるが)には一定の都市構造はなく、多くはアクロポリスを持ち、崖や山などの天然の防衛設備が備わった城塞型の構造で、街路は不規則に配置されていた。グリマル(1990)(北野1995 p.23)。
  57. ^ 岩井(2000)pp.153-154。
  58. ^ 岩井(2000)p.135。植民市の性格の変化について、E.T.サーモンはグラッスス改革以後のこととするが、著者はこれを紀元前3世紀前半とする。
  59. ^ 弓削(1966)pp.126-129。
  60. ^ 弓削(1964)pp.19-20。
  61. ^ パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp.128-129)。
  62. ^ ギリシア人建築家ヒッポダモスが考案したとされる都市計画。ヒッポダモス式はミレトスをはじめ、プリエネステ、エフェソスなどのイオニア地方の都市、アテナイの外港ペイライエウス(現ピレウス)などで採用された。
  63. ^ pes。長さの単位。1pesは約29.5cm。
  64. ^ heredium。面積の単位。1herediaは約50ha。
  65. ^ マコーレイ(1974)(西川2004 p.16)。
  66. ^ マコーレイ(1974)(西川2004 pp.33-35)。
  67. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.12-18)。
  68. ^ MacDonald(1988)pp.5-9。ただし、ジェミラの旧市街は街区が明確なグリット・パターンを示しておらず、都市の範囲はいびつな台形となっている。平和な時代には市壁が無用の長物であったためか、市壁が建設された痕跡はない。
  69. ^ MacDonald(1988)pp.25-30。
  70. ^ コンスタンティノポリス(現イスタンブール)、ダマスカスなど。それでも、ローマ時代の地図と比較すると、いくつかの街路はそのまま引き継がれている。
  71. ^ リーウィウス(鈴木2007 pp.25-26)。
  72. ^ グランダッジ(2003)(北野 2006 pp64-69)。先史時代の人間の痕跡が確認され、カピトリヌスの丘の麓から紀元前17世紀の土器の破片が発見されたため、この時代から小規模な集落が存在したらしい。紀元前9世紀頃からローマが広がりを見せることは確実であるが、集落の規模が相当巨大なものであったか、未だローマ市として統一されていなかったと見るかは論争があり、決着していない。
  73. ^ イェシュタード(1973)(浅香1983 pp.23-26)。これらの村落で発掘された土器および装飾品には、様々な差異が認められる。しかし、類似するもの、あるいは全く同じものも発見されており、相互の接触があったことは明らかである。イェシュタードは、ロムルスによって構築されたとされる都市の境界は存在しないとし、これらの村落が共同体として存在したような形跡がみられないことを示唆したが、今日の発掘により、パラティヌスの丘の麓で市壁と思われる構造物が発掘され、パラティヌスでは比較的まとまった集落が構成されていたことがうかがえる。グランダッジ(2003)(北野 2006 pp70-71)
  74. ^ これまでの説では、ローマの都市創建はロムルスが王となった頃ではなく、このフォルム・ロマヌムが整備された紀元前7世紀末から紀元前6世紀中期とする見解が主流であった。イェシュタード(1973)(浅香1983 pp.41-49)、長谷川岳男・樋脇博敏(2004)p93。しかし、紀元前8世紀の市壁と思われる遺構の発掘によって、ロムルスによる都市創建の伝承は何らかの事実を反映しているとする説もある。グランダッジ(2003)(北野 2006 pp.70-71.pp85-86)。
  75. ^ タルクィヌス・プリスクス以降の王はエトルリア系でるが、従来はエトルリアによる王制、すなわちローマがエトルリアに支配されていたとする考え方が有力であった。ローマの都市化もエトルリア支配による影響と考えられてきた。しかし、今日ではローマ文化の形成において、エトルリアの影響は従来説よりも相対的に低く評価される傾向にあり、エトルリア人による支配はなく、単にエトルリア出身者が王になったにすぎないとする考えもある。グランダッジ(2003)(北野 2006 pp.95-98)。いずれにしても、この時期にエトルリア出身のタルクィヌスが王となり、ローマの都市構成が変革を迎えていることは確かである。
  76. ^ グリマル(1990)(北野1995 p.32)。
  77. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.31-37)。
  78. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.38-40)。
  79. ^ 最盛期のトラヤヌス帝時代には、推定約120万人の巨大都市となる。
  80. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.40-42)。
  81. ^ ウィトル-ウィウス(森田1992 p.113)。つまり、コロッセウムが完成するまでの間、ローマでは剣闘士の試合はフォルムで行われていた。最も古い記録は、紀元前264年にフォルム・ボアリウムで行われたものである。
  82. ^ バシリカは基本的には多目的ホールに近い。詳細はバシリカを参照。
  83. ^ ウイトル-ウィウス(森田1992 p.118)。
  84. ^ 例外もあり、ティムガッドでは城壁外の丘の上に建設されている。また、属州ブリタンニアでは、フォルムに神殿を建設することは希である。このような状況が生まれた原因はよくわかっていないが、ローマ人入植以前の信仰に遡るものと考えられる。
  85. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.57-61)。
  86. ^ オルケストラの中心には、テュメレ(祭壇)がある。古代ギリシアでは、演劇は単なる娯楽ではなく、宗教と密接に結びついた儀式であった。
  87. ^ グリマル(1990)(北野1995 pp.66-74)
  88. ^ MacDonald(1988)pp.111-114。アウグスタ・ラウリカ(現アウグスト)、キュレネ、ペルガモンは劇場を闘技場に改造している。2世紀に建設されたルテティア(現パリ)は劇場が闘技場と兼用された。サルヴァドリ(土居1991 p.24)。
  89. ^ Sear(1983)pp.135-145。グリマル(1990)(北野1995 pp.74-80)
  90. ^ ナヴォーナ広場など、その形状が広場として残っているものもある。
  91. ^ MacDonald(1988)p.117。
  92. ^ ウィトル-ウィウス(1979)p.41。
  93. ^ ウィトル-ウィウス(森田1992 pp.43-44)。
  94. ^ ローマ人は、構造の区別を壁面の仕上げ方法によって区分しており、今日のように工法で区分している訳ではない。従って、コンクリート工法と呼べる構造のほかに、今日では組積造に分類される工法にも同じ呼称が用いられた。例えば、「オープス・テスタケウム」は、仕上げ兼用の型枠として煉瓦が用いられているコンクリート造もあれば、単なる煉瓦造である場合もある。また、煉瓦のつなぎ材はモルタルであるが、このモルタルに相当する呼称も存在しない。ローマン・コンクリートは便利な呼称であるが、ローマ人は、構造体に対して現代人とは違った考えを持っていたということについては注意する必要がある。
  95. ^ Sear(1983)p.73。
  96. ^ Sear(1983)pp.74-75。
  97. ^ ヴァザーリ(2009)p.42。
  98. ^ 1760年代に至るまで、ギリシア建築はほとんど知られておらず、18世紀の造園家・建築家であるバティ・ラングレイは『A Sure Guide to Builders』(1721年)において、「ギリシアの建物についての手がかり何も残されておらず、我々はすべからくローマの古代遺跡に版を求めるべきである」と述べている。ギリシア芸術を模倣すべきであるとしたヴィンケルマンがギリシアのものとした芸術作品の多くが、実はギリシア時代のものではなかったことも、これを証明している。
  99. ^ 15世紀まで、ウィトルウィウスの『建築について』は、トマス・アクィナスペトラルカ、そして1414年ザンクト・ガレン修道院でこの書籍を再発見するチェンチオ・ルスティッチ、のような一部の知識人の目に触れるだけであった。また、ボッカチオも写本の閲覧を欲していたように、その存在を知っていた。16世紀以降、この建築書は各国語に翻訳・出版され、広く知られるようになった。1511年にラテン語版(フラ・ジョコンド版)、1521年に図版入りのイタリア語版(チェザリアーノ版)、フランス語ではギョーム・フィランドリエ版が1544年に出版されている。
  100. ^ ブレンデル(1979)(川上・中村2008 p.36)。
  101. ^ イギリスでは、1733年にディレッタント協会が設立され、考古学の成長に決定的な役割を担うようになる。ジェームズ・スチュアートおよびニコラス・レヴェット『Antiquities of Athens』(1762年)、C.R.コッカレル『The Temples of Jupiter Panhellenius at Aegina, and of Apollo Epicurius at Bassae』(1860年)などは、その成果である。その他、パンクラーツィ『Antichita Siciliane』(1752年)、ジュリアン・ダヴィッド・ルロワ『Les Ruines des plus beaux monuments de la Grece』(1758年)などがある。
  102. ^ 建築を含むギリシアの芸術がローマに優越するという考えは、ニコラ・プッサンの書簡(1647年)、フランチェスコ・ミリッツァ『Dizionario delle Belle Arti del Disegno』(1787年)等にみられる。また、古典建築とゴシック建築を比較検討する際においても、対象となるのはギリシア建築となった。
  103. ^ ヘーゲル(1996)p.279
  104. ^ ヘーゲル(1996)pp.280-281
  105. ^ R.B.バンディネッリ(『Leptis Magna』1964年)、H.S.ロビンソン(『The Urban Development of Ancient Corinth』1965年)、P.A.フェヴリエ(『Djemila』1968年)、W.アルジンガー(『Die Ruinen von Ephesos』1972年)、I.ブロウィング(『Palmyra』1979年・『Jerash and the Decapolis』1982年)、F.ラゲッテ(『Baalbek』1980年)など。
  106. ^ ガイウス・プリニウス・セクンドゥスが『博物誌』で触れてはいるものの、ウィトルウィウスの考えが一般的教養であったのか否か、あるいは影響力があったにせよ、どのくらいの期間にどの地域まで浸透していたのかなど、基本的な部分も不明である。


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