ロジャー・クレメンス 経歴

ロジャー・クレメンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 05:04 UTC 版)

経歴

プロ入りまで

クレメンスが3歳の時に両親は離婚[1]。母親はすぐにウッディー・ボウワーと再婚し、今でもクレメンス本人は彼を父親として敬っているが、9歳の頃に死去[1]1977年までオハイオ州デイトンに住んだ後、高校時代をテキサス州で過ごした。同州ヒューストンのスプリング・ウッズ高校ではアメリカン・フットボールバスケットボール、そして野球の3種目でスターとして活躍した[2]。野球では一塁手投手でテキサス州選抜に選ばれ、3年次にはフィラデルフィア・フィリーズミネソタ・ツインズから誘いを受けるが、断り大学に進学。大学ではアメリカン・フットボールのディフェンシブ・ラインとして1つ、バスケットボールのセンターとして2つの推薦を受けるものの、大学では野球を続けることを選択した。

1981年にはサン・ヤシント・カレッジ英語版で9勝2敗の成績を挙げ、全米選抜に選ばれた。同年ニューヨーク・メッツにドラフト12巡(全米288位)で指名されるがこれを拒否し[3]テキサス大学へ進学した。1982年から2年間で25勝7敗、275イニングを投げ、奪三振241を記録。1983年に全米大学野球選手権で優勝し、当時付けていた背番号21は同大最初の永久欠番となっている[4]。それまで全米一の大学野球選手に与えられていたロータリー・スミス賞2004年よりクレメンスの功績を称えてロジャー・クレメンス賞と改名された。

レッドソックス時代

1983年ドラフト会議ボストン・レッドソックスより1巡目(全体19位)指名されたクレメンスはマイナーリーグを駆け上がり、1984年5月15日にメジャーデビューを果たした。この年は9勝4敗、防御率4.32を記録し、新人王の投票で6位に入った(投手ではマーク・ラングストンに次いで2番目)[5]1985年は肩の痛みにより15試合にしか登板出来なかった。この怪我について、チーム側は投球可能と判断したが、クレメンス側は自らの判断で、低侵襲性の関節鏡手術で知られていたジェームズ・アンドリュース医師を受診。同医師は関節唇損傷と診断し、自ら手術を行った。以下のようにクレメンスは翌年以降輝かしい成績を残すことになるが、このことはアンドリュース医師の名をスポーツ界で一躍高からしめることになった[4][6]

1986年にリーグ最多の24勝を挙げチームのワールドシリーズ進出に貢献。敗退はしたものの、先発投手としては1971年ヴァイダ・ブルーが受賞して以来2人目、野手のドン・マッティングリージム・ライスらを抑えてアメリカンリーグMVPを受賞した[7]殿堂入りしたハンク・アーロンが投手のMVP受賞に対し苦言を呈した際(投手にはサイ・ヤング賞があるため)、クレメンスは「まだ彼がプレーしていたらよかったのに。そしたら頭にボールをぶつけてぱっくり割ってどれだけ俺に価値があるか見せてやるのに」と発言[8]。また初のサイ・ヤング賞を満票で受賞した。

4月29日にフェンウェイ・パークで行われたシアトル・マリナーズ戦で、クレメンスは史上初の9回20奪三振を記録[4]。この記録はケリー・ウッドランディ・ジョンソンに並ばれてはいるものの、破られてはいない(延長戦を含めるとトム・チェイニー英語版が16回21奪三振を記録している)[9]。クレメンスは20奪三振試合を2度達成しており、これは史上唯一の記録である。2回目は1996年9月18日にタイガー・スタジアムデトロイト・タイガース戦であり、これは彼の最後から2回目のレッドソックスでの試合であった。最初の20奪三振試合の時と同様、四球は出さなかった[9]

1987年は20勝9敗、256奪三振、防御率2.97などを記録し、ジミー・キーらを抑えて2度目のサイ・ヤング賞を受賞[10]

1988年には球団新記録となるシーズン291奪三振を記録[4]

1990年には防御率1.93、21勝6敗、209奪三振を記録し、奪三振の通算記録でサイ・ヤングの1341を上回り球団記録となった[4]。しかし、サイ・ヤング賞の投票では27勝を挙げたボブ・ウェルチに次ぐ2位だった[11]

1991年は18勝10敗、241奪三振、防御率2.62などを記録し、スコット・エリクソンジム・アボットらを抑えて3度目のサイ・ヤング賞を受賞[12]

1992年は18勝11敗、208奪三振、防御率2.41などを記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではデニス・エカーズリージャック・マクダウエルに次ぐ3位だった[13]

1993年から1996年の通算成績は40勝39敗であった。そのうち2シーズンでは負け越し、最多勝利は11勝であった。ただし、それでも防御率はリーグ平均より良かったのだが、ダン・デュケット英語版GM(ゼネラルマネージャー)は「もうあいつもトシだ。消耗しきって、かつてのような力はなくなった」と発言するようになった[1]。1996年シーズン終了後にFA権を取得するクレメンスに対し、4年総額1000万ドル(出来高込みで2000万ドル)を提示したが、クレメンスはこれに納得せず、FAを宣言しボストンを離れることに[1]。クレメンスがレッドソックスで挙げた通算192勝はサイ・ヤングと並んで球団記録である[14]。クレメンスがレッドソックスを去ってから彼の背番号であった“21”を付けた選手はいない。

ブルージェイズ時代

FAとなったクレメンスに対し、12球団が複数年契約を提示し、トロント・ブルージェイズの球団幹部やニューヨーク・ヤンキースジョージ・スタインブレナーはクレメンスの自宅まで来て獲得に乗り出した[1]。そして1996年12月13日、4年総額4000万ドルでトロント・ブルージェイズへ移籍した[4]

ブルージェイズには2年在籍し、両年ともサイ・ヤング賞、20勝、そして投手三冠(勝数、防御率、奪三振)を達成。チーム全体としては期待を大きく裏切る結果でプレーオフ進出も果たせなかった。1997年7月12日のブルージェイズとして初めてのフェンウェイ・パークでの登板では、8回を4安打1失点に押さえ、24個のアウトのうち16個が三振で、対戦した打者全員から最低1回は三振を奪った[15]。1996年の“全盛期を過ぎた”発言はクレメンスが活躍を続けるにつれて皮肉度を増していき、デュケットの進退問題にまで発展した[16]。ボストンを去ってからのクレメンスの通算成績は162勝73敗である。

ヤンキース時代

1999年2月18日、再度新天地を求め、デビッド・ウェルズホーマー・ブッシュグリーム・ロイド英語版との1対3のトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍[3]。その際、背番号22が空くまでごく一時的に12を付けていた。1999年、MLBオールセンチュリー・チームに選出された。1999年2000年には念願であったワールドシリーズ制覇を果たした。

2000年のシーズンにはニューヨーク・メッツ捕手マイク・ピアッツァとの不仲が伝えられた。2000年7月8日のメッツ戦で、クレメンスはピアッツァの頭に死球を与えてしまう。以前からピアッツァはクレメンスとの対戦成績が非常によく、1か月前にも満塁本塁打を彼から打ったばかりなのでその恨みであったのだろうとの推測を受けた。この出来事とその後はメディアで大きく報じられ、ピアッツァはクレメンスを大きく批判。その一方で、自軍の正捕手に死球が与えられても報復死球を行わなかったメッツにも矛先が向かった。そしてそのシーズンでヤンキースとメッツがワールドシリーズで対戦することになると、この2人の因縁に注目する人は多かった。

クレメンスが先発登板した第2戦のピアッツァの第1打席ではバットが折れ、その部分がクレメンスに向かって飛んできた。彼はそれを拾い、ピアッツァが走っていた一塁線に向かって投げつけた。バットの破片はピアッツァには当たらなかったものの、両軍のベンチが飛び出し大乱闘になった。クレメンスは後に、彼は破片をボールと間違えて投げたと述べたが、普通一塁にボールを転送する際とは投げる方向が全く異なっていたため、これを信じる人は少なかった。メッツの投手アル・ライターは、「もし彼が本当に間違えたのだったら、ティノ(・マルティネス、ヤンキースの一塁手)に破片を投げつけるべきではなかったのかい?」と皮肉った。

この様な頻繁な因縁のぶつかり合いにも関わらず、両者は特に積極的に争いを展開させる気は薄かった。ボストン・グローブ紙の記者はこの両者の争いを2人の学校の番長に例え、喧嘩を怖がっているもののやらざるをえなくなって困惑している、と述べた。この試合でクレメンスに退場は告げられなかったものの、罰金5万ドルが課せられた。この試合、彼はメッツを8回2安打無失点9奪三振に抑えた。

2001年9月19日、クレメンスは史上初めて1敗しかせずに20勝を挙げる[要出典]。その年の最終成績は20勝3敗、213奪三振、防御率3.51などを記録し、マーク・マルダーフレディ・ガルシアらを抑えて6度目のサイ・ヤング賞を受賞[17]

2002年6月15日にピアッツァとのトラブルが起きて以来初めてシェイ・スタジアムで登板した。ナショナルリーグでの試合ということは、クレメンス自身も打席に立つことになり、これはメッツにとってクレメンスに"復讐"を果たす絶好の機会であった。大方の予想だとクレメンスは死球を受けるということであったが、現実には異なった。メッツの先発投手ショーン・エステスの投球はクレメンスの背中の後ろを通り抜け、観客の失望とともに審判から警告を受けた。この警告のお陰でクレメンスに死球を与えることは事実上できなくなったが、この試合でメッツは4得点を挙げ、しかもピアッツァとエステスはクレメンスから本塁打を打ち、違った方法での復讐を遂げた。

2003年の序盤にクレメンスはシーズン後の引退を発表。同年6月13日のヤンキー・スタジアムでのセントルイス・カージナルス戦で通算300勝と4000奪三振をエドガー・レンテリアから奪い、この2つの記録を同一試合で達成した唯一の選手となった。この300勝は4度目のチャレンジで達成したものであり、そのうちの2回ではヤンキースの中継ぎが打ち込まれてしまい勝ち星が消えてしまっていた。300勝を挙げたのは史上21人目であり、4000奪三振はノーラン・ライアンスティーブ・カールトンに次ぐ史上3人目であった。

クレメンスの2003年シーズン終盤は幾度と無く引退に関連付けたイベントが開催され、ホーム・アウェイ問わず盛大な歓声で迎えられていた。特に長年ホームとしていたフェンウェイ・パークでの最終登板では中々歓声が鳴り止むことは無かった(ヤンキースはこの年レッドソックスとア・リーグリーグ優勝決定シリーズで再戦することになったため、2回の"最終登板"があった)。また、レギュラーシーズン最終戦ではヤンキースの代理監督としても采配を振った。フロリダ・マーリンズと対戦したワールドシリーズでは1度先発登板し、降板時は1-3で負けていた。降板する際にはマーリンズ側もベンチから全員フィールド上に出てスタンディング・オベーションでクレメンスを見送っていた。

アストロズ時代

アストロズ在籍時のクレメンス(2004年)

クレメンスは結局引退を撤回し、故郷テキサスのヒューストン・アストロズと1年契約を2004年1月12日に結んだ。これは、地元の家族とそばにいるためと、同じくヤンキースから移籍したアンディ・ペティットともう一度野球をやりたかったからと本人は言っている。同年5月5日には4137個目の三振を奪い、カールトンを抜き去り歴代最多奪三振でライアンに次ぐ2位につく。この年18勝4敗を記録し、通算成績も328勝164敗に伸ばした。また、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)でのサイ・ヤング賞受賞を達成した。両リーグでサイ・ヤング賞を受賞したのはゲイロード・ペリーペドロ・マルティネス、ジョンソンに並ぶ歴代4人目である。

家族との時間を望んで居住地のアストロズと契約した経緯があり、契約内容には「登板しないホームゲーム時には、チームに帯同しなくてよい。」、「登板しない遠征には同行しなくてよい。」が付け加えられたが、これは全試合帯同が基本のメジャーリーグでは異例のことである。息子の少年野球を見に行って、観客席から審判にクレームをつけて、審判から退場を宣告されたこともあった(試合後にクレメンスが審判に謝罪している)。

オフに再び引退をほのめかすが、またもや撤回。アストロズの1350万ドルのオファーに対し、クレメンス側は2200万ドルを要求。2005年1月21日に両者は1800万22ドルの契約に合意、年俸調停を避けることに成功した。この契約によりペドロ・マルティネスの1750万ドル(2004年)を上回る1年ごとの契約金額でメジャー史上最高額の投手になった[18]

2005年は13勝8敗だったが、彼の挙げた防御率1.87はこの年のMLB全体で一番低く、また彼の現役生活でも一番低く、そしてナ・リーグ投手が挙げたものとしてはライバルと言われている名投手グレッグ・マダックスが 1995年に記録して以来のものであった。にも関わらず、13勝止まりだったのは、打線の援護がなかったからだと言われている。アストロズ打線はクレメンス登板試合で平均3.5点しか打てず、その上32回の先発登板中9回も相手投手に完封されていた。アストロズはこのシーズン5試合ものクレメンス登板試合を 0-1で落としており、4月には3連続も喫している。

4月8日にはシンシナティ・レッズに勝ったことにより近代野球の勝ち星数でカールトンに並び、また第二次世界大戦以降にキャリアが始まった投手としては最多となった(後にグレッグ・マダックスに更新された)。しかし、そこからカールトンを抜くにはアストロズのひどい得点力に悩まされ1か月かかった。5月9日にやっとマーリンズに勝ったことにより通算330勝目を記録。

2005年の最終先発登板では、クレメンスは通算4500奪三振を記録。同年10月9日には1984年以来となるリリーフ登板を果たす。その試合の15回に代打として登場し、その後3イニングを投げアトランタ・ブレーブス戦の勝利に貢献した。これはMLB史上最長のポストシーズンゲームとなり、18回まで続いた。勝ち星はクレメンスについた。ナ・リーグ優勝決定シリーズで勝った後、アストロズはワールドシリーズに進出した。しかし、第1戦でクレメンスは2回しか持たず降板。初のワールドシリーズ進出となったアストロズだったが4連敗であっさり敗退。筋を痛めたことによりクレメンスの調子は決して良くなかった。このシーズンはサイ・ヤング賞の投票ではクリス・カーペンタードントレル・ウィリスに次ぐ3位だった[19]

同年オフ、球団は高年俸・高年齢を理由に年俸調停を申請せず、クレメンスはフリーエージェントとなった。調停を申請しなかったアストロズはルール上、2006年5月1日まで再契約が出来なくなった。この時他にもテキサス・レンジャーズ、レッドソックス、ヤンキースらが契約に興味を示したものの、本人は2006 ワールド・ベースボール・クラシックで引退することを示唆。同大会に集中するためとしてしばらく進退の公表を控えていたが、WBC2次ラウンド・メキシコ戦敗退後には「個人的には、現段階で『さようなら』だ」との発言をしていたため、引退が噂された。しかし、正式な引退発表は出されないままであった。

結局、2006年5月31日にアストロズで現役を続行することが決まり、1年契約で2200万22ドルもの巨額の契約を結んだ(ただし、シーズン途中からの入団となるため、実質的に受け取った額は約1200万ドルほど)。契約額には"22"が2つ。記者会見の開始時刻も12時"22"分。さらにはメジャー復帰登板の予定日が6月"22"日と背番号にちなんで22づくしとなった。

2005年を最後にジョン・フランコの出場がなかったため、2006年からの2年間はジェイミー・モイヤーとともに現役最年長投手となった(野手ではフリオ・フランコ[20]

2006年6月22日のツインズ戦で復帰を果たした。結局、7勝6敗の成績に終わり、前年度に続いて年俸に見合う勝ち星を挙げられなかった。しかし、防御率は2.30という好成績で、またしても打線の援護の無さが際立つシーズンとなった。平均投球回数は6回を少し切る程度で、8回まで投げたことはなかった。

ヤンキース復帰

ヤンキース時代(2007年)

2007年、現役を続けるならヒューストンかニューヨークと言われ、ロビンソン・カノが背番号を22から24へ変えて22番を空けていたことなどからヤンキース入団が噂されていたが、5月6日のヤンキース対マリナーズ戦のセブンスイニングストレッチ英語版中に、自らマイクを取ってヤンキースとマイナー契約をしたことを電撃的に表明、ヤンキースタジアムのファンは大歓声でこれを迎えた。

6月9日のパイレーツ戦にて復帰登板し、6回を7奪三振3失点で勝利。7月2日のミネソタ・ツインズ戦で8回を1失点で抑え通算350勝(MLB史上8人目、1963年ウォーレン・スパーン以来44年ぶり)を達成した。

ヤンキース退団後

2007年12月、ミッチェル・レポートの公表により禁止薬物の使用が疑われ、以降は引退表明のないまま所属球団のない状態となっていた。

2008年2月には、下院政府改革委員会の公聴会で禁止薬物の使用を全面否定する証言をしたが、2011年8月に連邦大陪審によって偽証罪で起訴された。

2011年11月には、息子のコービーが参加していたプエルトリコウィンターリーグ"リーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・プエルトリコ"のマヤゲス・インディオスとの契約が噂されたが[21]、契約せず。

2012年6月、連邦地裁により前述の偽証の疑いについて無罪の評決が下される。8月20日に北米独立リーグであるアトランティックリーグシュガーランド・スキーターズと契約。同月25日のブリッジポート・ブルーフィッシュ戦で5年ぶりの実戦登板を果たした[22]。2度目の登板となった9月8日に息子コービー(捕手として出場)と親子バッテリーを組み、4.2イニングを無失点に抑える好投を見せた[23]


  1. ^ a b c d e 水次祥子 「ロジャー・クレメンス [ブルージェイズ] 豪腕復活に秘められた家族愛」『月刊メジャー・リーグ』 1998年1月号、ベースボールマガジン社、1998年、雑誌 08625-1、3 - 7頁。
  2. ^ Story, Mark (2006年6月6日). “22 things you should know about 'Rocket'” (英語). Lexington Herald-Leader. 2006年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月12日閲覧。
  3. ^ a b Roger Clemens Transactions” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年12月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f The Ballplayers - Roger Clemens” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年11月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月18日閲覧。
  5. ^ 1984 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  6. ^ Explaining Dr. James Andrews, the brand” (英語). 2014年7月15日閲覧。
  7. ^ 1986 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  8. ^ Roger Clemens Quotes” (英語). baseball-almanac.com. 2008年2月15日閲覧。
  9. ^ a b Top Individual Performances (Based on Retrosheet Seasons)” (英語). retrosheet.org. 2008年2月15日閲覧。
  10. ^ 1987 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  11. ^ 1990 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  12. ^ 1991 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  13. ^ 1992 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  14. ^ Boston Red Sox Pitching Leaders” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年12月18日閲覧。
  15. ^ July 12, 1997 Toronto Blue Jays at Boston Red Sox Box Score and Play by Play”. Baseball-Reference.comlanguage=英語. 2008年2月15日閲覧。
  16. ^ Losing Momentum - Boston Red Sox” (英語). findarticles.com. 2012年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月15日閲覧。
  17. ^ 2001 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  18. ^ Footer, Alyson (2005年1月21日). “Astros ink Clemens to record deal” (英語). MLB.com. 2009年11月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月12日閲覧。
  19. ^ 2005 Awards Voting”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  20. ^ 2006 Major League Baseball Awards, All-Stars, & More Leaders”. Baseball-Reference.com. 2020年6月13日閲覧。
  21. ^ Clemens analiza volver a lanzar en PRESPN DEPORTES、2011年11月1日。
  22. ^ 50歳クレメンス、5年ぶり登板=米独立リーグ”. 時事通信 (2012年8月26日). 2012年8月26日閲覧。
  23. ^ Roger Clemens solid in outing”. ESPN.com. 2013年10月29日閲覧。
  24. ^ [1]
  25. ^ クレメンス次男、プロに行かず大学へ
  26. ^ a b スカウティング・レポート『月刊スラッガー』2003年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-5、66-69頁
  27. ^ a b 進化し続ける39歳の秘密『月刊スラッガー』2001年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、18-23頁
  28. ^ Mitchell Report” (PDF) (英語). Office of the Commissioner of Baseball. pp. SR167-175. 2013年11月26日閲覧。
  29. ^ 李啓充 (2008年2月22日). “ロジャー・クレメンス 証言席からの「ビーンボール」”. Number. 2013年10月1日閲覧。
  30. ^ Pitching legend Roger Clemens is indicted on charges of lying to a congressional committee” (英語). The Washington Post. 2013年9月23日閲覧。
  31. ^ 元MLB投手クレメンスに無罪評決”. AFP通信. 2012年6月19日閲覧。
  32. ^ Hall of Fame Ballot History”. Baseball-Reference.com (2019-0-). 2020年6月13日閲覧。
  33. ^ 通算354勝クレメンス氏が殿堂入りならず 落選も淡々「10年前に過ぎたもの」 東スポWeb 2022年01月26日 12時49分 (2022年3月21日閲覧)
  34. ^ Report: Mindy McCready Confirms Affair With Roger Clemens”. FOXNews.com. 2013年10月29日閲覧。
  35. ^ 不倫疑惑の渦中にいるクレメンスが謝罪声明発表。「間違いを犯した」。だが、薬物使用については否定。”. USA通信. 2013年10月29日閲覧。
  36. ^ Report: McCready not proud of relationship with Clemens”. Sports Illustrated. 2008年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月29日閲覧。
  37. ^ 2006 WBC Player Pitching StatsMLB.com 2023年3月26日閲覧






固有名詞の分類

アメリカ合衆国の野球選手 ミッチ・ジョーンズ  クリストファー・カンバーランド  ロジャー・クレメンス  アダム・ラローシュ  ライアン・スウィーニー
ニューヨーク・ヤンキースの選手 マリアーノ・ダンカン  ブライアン・ブルーニー  ロジャー・クレメンス  フランク・チャンス  デビット・パブラス
ボストン・レッドソックスの選手 アンディ・エイバッド  デイブ・ロバーツ  ロジャー・クレメンス  アダム・ラローシュ  ビル・ホール
トロント・ブルージェイズの選手 ブレット・セシル  デビッド・パーシー  ロジャー・クレメンス  ダグ・オルト  マイク・ナポリ
ヒューストン・アストロズの選手 モイゼス・アルー  ラスティ・スタウブ  ロジャー・クレメンス  ジャック・ハウエル  ジョー・ペピトーン
ミッチェル報告書に記載された選手 マーク・マグワイア  イスマエル・バルデス  ロジャー・クレメンス  ウォーリー・ジョイナー  ジャック・カスト

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロジャー・クレメンス」の関連用語

ロジャー・クレメンスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロジャー・クレメンスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロジャー・クレメンス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS