マヤ文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 04:33 UTC 版)
地理
三つの地域
マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルやチチェン・イッツァ、マヤパンなどの都市が繁栄した。なかでももっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。
現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。
現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い[1]。
歴史
時代 | 下位区分 | 年 | |
---|---|---|---|
太古期 | 8000–2000 BC[3] | ||
先古典期 | 先古典期前期 | 2000–1000 BC | |
先古典期中期 | 前期 | 1000–600 BC | |
後期 | 600–350 BC | ||
先古典期後期 | 前期 | 350–1 BC | |
後期 | 1 BC – AD 159 | ||
終末期 | AD 159–250 | ||
古典期 | 古典期前期 | AD 250–550 | |
古典期後期 | AD 550–830 | ||
古典期終末期 | AD 830–950 | ||
後古典期 | 後古典期前期 | AD 950–1200 | |
後古典期後期 | AD 1200–1539 | ||
植民地期 | AD 1511–1697[4] |
先古典期前期(紀元前2000年 - 紀元前1000年)
この時期、マヤ高地においては土器が使用されていたものの、マヤ低地においてはいまだ土器が使用されない程度の文化水準となっていた。
先古典期中期(紀元前1000年 - 紀元前350年)
紀元前1000年以降になると、いわゆる「中部地域」で土器が使用されるようになり、間もなく文明が急速に成長し始めた。ナクベやティカルなどの都市に居住が始まったのもこのころである。
先古典期後期(紀元前350年 - A.D.250年)
紀元前400年以降、先古典期後期に入ると都市の大規模化が起こり、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル(Tikal)、ワシャクトゥン(Uaxactun)、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)、カラクムル(Calakmul)などの都市が大きく成長した。
先古典期マヤ文明の衰退
100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、ほかにも多くの都市が衰退していった。こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、次の古典期における大国として勢力を拡大していった。
古典期前期(A.D.250年 - 550年)
開花期の古典期(A.D.250年 - 550年)にはティカル、カラクムルなどの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。378年ごろにはメキシコ中央高原のテオティワカンの影響がティカルやコパンなどマヤ低地南部のいくつかの都市に見られ、この時期にテオティワカンから一部勢力がマヤに影響力を行使したことがうかがえる。ただしこうした影響は短期間にとどまり、やがて地元の文化と融合していった。
古典期後期(A.D.550年 - 830年)
古典期後期(A.D.550年-830年)には大都市のカラクムルやティカルのほかにも多くの小都市国家が発展した。このころの大勢力としては、マヤ低地北西部のウシュマル、北東部のコバー、マヤ低地南部では西からパレンケ、ヤシュチラン、カラクムル、ティカル、ペカン、そして南東部に離れたところにあるコパンなどが挙げられる。また、マヤ低地にはエズナやカラコル、アグアテカといった中小都市も多く存在し、興亡を繰り返していた。8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。マヤ文明の人口は最大1,000万人の住民と推定されている[5]。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、いくつかの商業都市も生まれた。
古典期マヤ文明の衰退
9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、
- 遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)
- 北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)
- 農民反乱説
- 内紛説
- 疫病説
- 気候変動説
- 農業生産性低下説
など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている[6]。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と、少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン・イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。
後古典期(A.D.950年 - 1524年)
後古典期(A.D.950-1524)には、北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。チチェン・イッツァの衰退後、12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。またこの時期は交易が盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市や交易都市が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
スペインによる植民地化と終焉
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ地域に到達したときは、いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。ヨーロッパ人がはじめてマヤに姿を現すのは、1517年のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバの遠征によってである。この時の遠征は失敗に終わったが、翌1518年にはフアン・デ・グリハルバがトゥルムに到達し、文明の高さに驚嘆している[7]。その後スペイン人による本格的な侵略がはじまり、1524年にはペドロ・デ・アルバラードによってマヤ高地のキチェ人が征服され、この地方はグアテマラとしてスペインの支配下に入った。ユカタン半島北部もまた、フランシスコ・デ・モンテーホによって1527年に侵略が開始されたが、各都市の強い抵抗にあって2度撤退し、1540年にユカタン西岸にカンペチェ、1542年に半島北部にメリダの街を建設して足がかりとし、1546年にこの地方を制圧した[8]。
これらコンキスタドールの活動によってマヤ文明の北部と南部はスペインの支配下に入った。だがその一方で密林の広がるマヤ低地南部をはじめとする内陸部の征服は遅れ、同地のマヤの諸王国は暫くの間存続した。しかしこれら諸国も徐々に征服されてゆき、1697年には最後のマヤの王国であるタヤサルが滅亡。
これによってマヤ圏全域がスペインに併合され、マヤ文明は完全に滅亡した[9]。
マヤ文明の標式遺跡
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
注釈
出典
- ^ Martin & Grube (2000) p.228
- ^ Estrada-Belli, Francisco (2011). The First Maya Civilization: Ritual and Power Before the Classic Period. Abingdon, UK and New York, US: Routledge. ISBN 978-0-415-42994-8. OCLC 614990197p. 3.
- ^ Sharer, Robert J.; Loa P. Traxler (2006). The Ancient Maya (6th, fully revised ed.). Stanford, California, US: Stanford University Press. ISBN 0-8047-4817-9. OCLC 57577446p. 98.
- ^ Masson, Marilyn A. (2012-11-06). “Maya collapse cycles”. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America (Washington, DC, US: National Academy of Sciences) 109 (45): 18237–18238. Bibcode: 2012PNAS..10918237M. doi:10.1073/pnas.1213638109. ISSN 1091-6490. JSTOR 41829886.p. 315.
- ^ Fortin, Jacey (2018年2月3日). “Lasers Reveal a Maya Civilization So Dense It Blew Experts’ Minds” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2019年4月4日閲覧。
- ^ 増田1999 [要ページ番号]
- ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p198 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p106 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p107 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p109 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ a b Martin & Grube (2000) p.14
- ^ Martin & Grube (2000) p.16
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p240 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p237 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p49 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ a b 「マヤ文明を知る事典」p46 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p45 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ Coe (1992) p.54
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p259 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p264 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ https://www.jti.co.jp/tobacco/knowledge/society/history/world/01_3.html 「人々とたばこの関係」日本たばこ産業 2017年2月17日閲覧
- ^ 「マヤ文明を知る事典」p48 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行
- ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p9 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
- ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p29 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷
- ^ http://www.cnn.co.jp/fringe/35092427.html 「ピラミッド内部に別のピラミッド、メキシコの遺跡で発見」 CNN 2016.11.18 2017年7月23日閲覧
- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3108311 「マヤ文明の「入れ子ピラミッド」、内部に第3のピラミッドを発見」AFPBB 2016年11月17日 2017年7月23日閲覧
- ^ ミラー&タウベ (2000) 136頁(図版上)で確認した名称はウアエブ、コウ (2003) 77頁(図版19)で確認した名称はワイェブ、ロンゲーナ (2002) 114頁で確認した名称はウァイェブ。
- ^ 青木1984, pp.137-138
- ^ 八杉1982, pp.31-32
- ^ コウ2003, pp.187-192, 254
- ^ マーティン他2002, pp.164-165
- ^ マーティン他2002, pp.322-331
- ^ トンプソン2008, p.231
- ^ 小池1996
- ^ 「「2012年世界滅亡」なかった! マヤ最古のカレンダー発見」『産経新聞』、2012年5月11日。2012年5月11日閲覧。オリジナルの2012年5月11日時点におけるアーカイブ。
- ^ 岡田光興『2012年と日月神示 – 人類はやがてゝ生命体へ多次元神化する!』徳間書店、2009年12月。ISBN 978-4-19-862864-2。 [要ページ番号]
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