ビスマルク海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 13:33 UTC 版)
戦闘
2月28日から3月2日まで
日本軍の輸送船8隻[174](陸軍第十八軍司令官安達二十三陸軍中将を含む約7000名)[175]と護衛の駆逐艦8隻(船団部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)からなる輸送船団は[101][176]、2月28日午後11時00~30分にニューブリテン島ラバウルを出航して港外に集結した[177][178]。 第十八軍戦闘司令所は、駆逐艦時津風に乗艦した[147]。第五十一師団長は、最初は駆逐艦荒潮に乗艦予定だったが、実際には駆逐艦雪風に乗艦している[147]。出航時は悪天候で、船団の速力は9ノット程度だった[179][180]。護衛艦(雪風)では、輸送船団の速力に冗談が出るほどだった[181]。 出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという[182]。一方で連合軍が投下した宣伝ビラ等により出撃前から不安が広がっており、発狂者が続出した[183][184]。
日本陸軍が防空を担当していた3月1日午後2時15分、連合軍のB-24爆撃機がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた[185][6]。陸軍戦闘機は触接機を撃墜できなかった[179]。ポートモレスビーにはB-17重爆撃機約55、B-24重爆60、B-25中爆約50、B-26中爆約40、A-20軽爆約30、戦闘機計330機が配備されており、ここから戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機、計268機が出撃準備を整えた[185]。3月1日の段階では、日本軍輸送船団の位置は攻撃圏外にあると判断された[185]。索敵攻撃に出発したB-17重爆8機は、天候不良のため接敵できなかった[173]。午後7時から8時にかけて連合軍機が吊光弾を投下したが、船団に対する夜間攻撃はなかった[179]。
3月2日の日本軍輸送船団上空警戒は、11時45分までは海軍機、それ以降は陸軍機を予定していた[6]。同日朝、日本軍船団はニューブリテン島西端グロスター岬北東海面を航行していた[148]。午前8時以降、B-17爆撃機十数機と護衛戦闘機が襲来、B-17隊(第64爆撃飛行隊)は高度2000mで水平爆撃をおこなった[179]。輸送船1隻(旭盛丸)が午前8時16時に直撃弾2発を受け、大火災となって午前9時26分に沈没した[179][注釈 19]。愛洋丸と建武丸が至近弾で若干の被害を受けた[179]。 駆逐艦朝雲(第9駆逐隊)と駆逐艦雪風(第16駆逐隊、第五十一師団長乗艦)が旭盛丸兵員1,500名中約900名を救助する[注釈 20]。駆逐艦2隻は第9駆逐隊司令小西要人大佐(朝雲座乗)指揮下で船団から先行し[164]、ラエへ向かった[179][注釈 21]。B-17は1機が撃墜され、14機が損傷した[188]。零戦の損害は1機だった[6]。 この事態を受けて、第八艦隊司令長官三川軍一中将(外南洋部隊指揮官)は待機していた駆逐艦初雪(第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた[注釈 22]。第八艦隊司令部(三川長官、大西参謀長、神重徳参謀など)では作戦実施前の憂慮が現実となったことで、悲観的な空気が広がった[164]。
午後2時20分以降、B-17爆撃機6機による攻撃があり、直衛戦闘機が応戦した[190]。爆撃や機銃掃射により各船で若干の死傷者が出た[190]。午後4時25分以降、B-17爆撃機8機による攻撃があった[190]。運送艦1隻(野島)が至近弾で損傷して死傷者が出たが、戦闘航海に支障はなかった[191]。海軍航空部隊はのべ42機が出動し、敵機体4機撃墜を報じた[190]。 連合国軍は最初の出撃部隊8機が輸送船2隻撃沈、後続の20機が輸送船3隻炎上、夜中に1機が命中弾2発を報告している[185]。いずれにせよ2日午後~夜間における日本軍輸送船団の損害は軽微であった[192]。朝雲と雪風は日没後ラエに到着し[注釈 21]、中野師団長と兵員の揚陸に成功した[193]。一方の日本軍輸送船団は予定より2時間はやく進んでいたため、時間調整と偽装のため一旦針路を西方にとり、日没後にビディアス海峡(ロング島とウンボイ島の間)を通過する[148]。だがオーストラリア軍のPBYカタリナ飛行艇は夜間も触接を続け[194]、日本軍輸送船団の行動を逐次報告していた[195]。
3月3日:輸送船団全滅
3月3日は快晴で[12]、船団前方に雲がかかっていた[196]。同日船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため[164]、零式艦上戦闘機15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった[192]。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機(第一直14機、第二直12機、戦闘末期に第三直15機)の零式艦上戦闘機が警戒にあたっていたという[188][190]。一方、ラエに先行していた朝雲と雪風も船団本隊に戻ってきた[197][198]。 日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた[199]。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、中央右列に先頭から駆逐艦白雪(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦敷波と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた[200][201]。
午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し[192]、P-38ライトニング双発戦闘機とカーチスP-40戦闘機に護衛された連合国軍機大部隊が突入する[202]。連合国軍機の機数については資料によって差異があるため[190][202]、ここではおおまかな機数のみ記述する。 まずブリストル・ボーフォート約10機が攻撃を試みたが、零戦に阻止された[202]。 次いで連合軍の大編隊が襲来。ブリストル・ボーファイター13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する[185][195]。零戦隊はB-17隊を最大の脅威とみて迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる[203]。この時、瑞鳳の零戦操縦士牧正直飛長がB-17爆撃機に体当たりし[204]、B-17は墜落した[205][注釈 23]。零戦隊はB-17から脱出した生存者数名に対して機銃掃射を行った[207][208]。 続いて、高度をあげたB-25爆撃機13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で反跳爆撃をおこなった[195]。その後もA-20攻撃機やB-25爆撃機の反跳爆撃が続いた[注釈 24]。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった[210][注釈 25]。 約20分間の空襲により、輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾して戦闘不能となる[211][202]。さらに直撃弾で艦橋を破壊され舵故障に陥った荒潮は[212]、野島と衝突した[注釈 26] 。建武丸(三光汽船:953総トン)、愛洋丸(東洋汽船:2,746総トン)および駆逐艦白雪(第三水雷戦隊旗艦)が沈没した[7]。木村司令官は機銃掃射により重傷を負い、敷波に移乗して旗艦を変更した[171]。 零戦隊は撃墜24(不確実8)を報告し、4機を失った[214]。 連合軍機は日本軍機20の撃墜を報告し、B-17重爆1機とP-38ライトニング3機を喪失した[195]。
第十八軍戦闘司令所は時津風に乗艦していたが、同艦の被弾航行不能により雪風に移乗した[7]。第十八軍司令官安達中将はフィンシュハーフェンかマダンへの上陸を希望したが、海軍側は残存燃料や生存者救助の観点から同意しなかった[215][216]。ラバウルでは、第八方面軍(今村中将)が南東方面艦隊(草鹿中将)に対し、残存駆逐艦によるフィンシュもしくはマダン上陸をおこなうよう交渉したが、実現しなかった[215]。
連合軍機は午前8時30分までに戦場から去った[211]。ダンピール海峡の潮流は流速1.5ノットもあり、沈没船から海上に脱出した生存者は流されはじめた[211]。残存駆逐艦5隻は沈没艦の生存者救助活動を開始する[217]。しかし10時35分頃に敵機再来襲(敵機24機発進、発信者不詳)との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦北方に避退せよ」との命令を下す[218]。 ところが第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐(駆逐艦朝潮座乗)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信した[218]。駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は北上して戦場を離脱、朝潮は単艦で野島の救援に向かった[219]。野島に近づいたところ、近くに航行不能となった姉妹艦荒潮(第8駆逐隊)が漂流しており、朝潮は荒潮の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った[7][注釈 27][注釈 28][注釈 29]。
午前11時20分頃、陸軍航空部隊(第十二飛行団14機)がダンピール海峡上空に到達した[215]。午後には零戦8機が海峡上空に進出した[215]。午後1時15分頃より、連合軍機約40機が来襲した[215]。B-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機の攻撃により、神愛丸(岸本汽船:3,793総トン)、太明丸(日本郵船:2,883総トン)、帝洋丸(帝国船舶:6,863総トン、元独船Saarland)、野島が被弾沈没した[7]。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した[223]。アメリカ側の記録では、バリー・K・アトキンズ少佐が率いる第8魚雷艇隊が大井川丸を撃沈し、駆逐艦1隻を損傷させたという[5][注釈 30]。
健在だった駆逐艦朝潮は付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた[224]。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長松本亀太郎大佐を含む)は大発動艇やカッターボートに乗り、3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが[225]、第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐以下朝潮艦長吉井五郎中佐、荒潮艦長久保木英雄中佐ら299名は戦死した[218][226]。
同日午後、陸軍飛行機隊からの通報で船団の遭難を知った第五十一師団長(雪風により、既にラエに上陸)は、揚陸に備えて現地で待機していた船舶工兵部隊より大発動艇7隻を遭難者救助のために派遣した[227]。北方に退避した駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は、救援のため到着した駆逐艦初雪(第11駆逐隊)と合同する[注釈 31]。安達中将(第十八軍司令官)は初雪に移乗した[215]。浦波と初雪(陸軍兵両隻合計約2,700名乗艦)はラバウルに向かった[229][230]。
3月3日夜以降
3日の日没後、3隻(敷波、朝雲、雪風)は遭難現場へ戻り生存者を捜索した[215][166]。 駆逐艦荒潮は、雪風に乗員を収容後、放棄された[注釈 28][230]。翌4日、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した[7]。乗員を雪風に移乗させたのち放棄されて漂流する時津風は3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗[229]、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる[231]。だが同日午後、アメリカ軍機の攻撃で時津風は沈没した[223]。 空母瑞鳳から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)[232]、2名が戦死した[233][234]。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている[235]。日本陸軍航空隊は救助作業をおこなう大発動艇の掩護をおこない、海軍航空隊は帰還駆逐艦の掩護をおこなった[注釈 32]。
3月4日午前10時、安達中将と遭難将兵を乗せた浦波と初雪はラバウルに入港した[236]。3隻(敷波、朝雲、雪風)はカビエンで軽巡洋艦川内から燃料を補給したのち[注釈 27]、3月5日午前11時ラバウルに入港した[215]。入れ違いで第2駆逐隊司令橘正雄大佐指揮下の駆逐艦村雨と峯雲がラバウルからコロンバンガラ島へ出撃して行った[注釈 33]。
なお3月3日の輸送船団全滅から数日にわたり、連合軍の航空機や魚雷艇は、漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる[215][239][223][240][241][注釈 34]。 船団が大被害を受けた直後から、連合軍側航空機による日本側救命艇や漂流者への機銃掃射や爆弾投下がおこなわれた[注釈 34]。つづいて連合軍の魚雷艇部隊も、遭難者を攻撃する。4日時点で、時津風漂流地点周辺には人員約1,000名、短艇20から30隻が漂流していた[229]。しかし日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えた[31][注釈 35]。 アメリカ軍は帝洋丸の救命ボートより日本陸軍将校実役定年名簿(昭和17年10月15日調制)を押収、その名簿には東条英機陸軍大将から中隊長級に至る日本陸軍将校約4万人の氏名と配備部隊と職種が書かれていたという[244]。
一方、日本陸軍はラエに待機していた船舶部隊より大発動艇部隊を派遣したが[215]、3月3日の救助はアメリカ軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した[注釈 21]。同日、日本海軍は、漂流する時津風の雷撃処分(前述)および生存者救助のため潜水艦を派遣する[245][246]。 伊17は3月4日深夜現場着[247]。派遣された呂101と呂103のうち、呂101は野島艦長以下44名(合計45名)を収容して3月9日ラバウルに帰投した[248][246]。 呂103は座礁事故を起こして引き返し[249]、3月17日に帰投した[246]。伊17[250]や伊26[251][252]は同日も救助活動を実施した[253]。伊26は3月8日にグッドイナフ島西方の小島で54名、3月9日に40名を収容、またそれ以降も沈没船乗組員や陸軍兵少数が陸岸に漂着している[248][254]。たとえば大井川丸が沈没した際、乗船中の歩兵第115聯隊は軍旗・陸兵・大井川丸船員合計31名が救助艇で脱出、機銃掃射や衰弱により15名が戦死したのち4月2日になってニューブリテン島マーカス岬西方10km沖合のブツマテレ島に上陸した[255]。しかし、陸上に漂着した者の大部分は、現地住民や[256]、守備隊に殺害されたと思われる[239][注釈 34]。
雪風航海士(当時)の証言では、ラバウルに帰還した駆逐艦4隻(敷波、浦波、雪風、朝雲)の内、朝雲艦長岩橋透中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという[257]。
注釈
- ^ a b 3月2日の空襲で輸送船旭盛丸が沈没[6]、3月3日の戦闘で輸送船7隻および駆逐艦白雪と朝潮が沈没、3月4日に漂流中の荒潮と時津風が沈没した[7][8]。
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』285頁では「全出撃137機。P-38 3機喪失、1機損傷。B-17 1機喪失、1機損傷。B-25 1機損傷。ボーファイター 3機損傷。戦死13名」と記述する[9]。
- ^ 第五 第八一號作戰[19] 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ 〕
- ^ 駆逐艦8隻(白雪〈三水戦旗艦〉、第19駆逐隊〈敷波、浦波〉、第8駆逐隊〈朝潮、荒潮〉、第9駆逐隊〈朝雲〉、第16駆逐隊〈雪風、時津風〉)、輸送船8隻(海軍運送艦野島、陸軍輸送船〈大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸〉)[25]。
- ^ ブナ警備隊指揮官安田義達海軍大佐(横五特司令)も戦死し[55]、二階級進級により海軍中将となった[56]。
- ^ 日本陸軍航空隊と海軍航空隊が協同で船団護衛を実施した[69][70]。第17駆逐隊司令北村昌幸大佐を指揮官とする東部ニューギニア方面護衛隊(浦風、谷風、浜風、磯風、舞風)が[71]、輸送船5隻(海軍輸送船ぶらじる丸〈空母改装予定だったぶらじる丸は前年8月5日に沈没していた〉、陸軍輸送船くらいど丸、妙高丸、日龍丸、智福丸)を護衛する[72]。
- ^ 1月7日の夜間空襲で日龍丸が沈没し、浦風や伊25潜水艦が救助した[75]。1月8日、ラエ泊地で空襲を受けた妙高丸が被弾し擱座した[75]。帰路、船団を襲撃した潜水艦アルゴノート (USS Argonaut, APS-1) を直掩機と駆逐艦が協同で撃沈した[76]。
- ^ 第九戦隊司令官岸福治少将を指揮官とする丙号輸送部隊が編成され[78]、丙一号輸送部隊[79](第二十師団の釜山~パラオ~ウェワク輸送[80]。第一輸送隊〈北上、大井、讃岐丸、相良丸〉、第二輸送隊〈靖国丸、筥崎丸、新玉丸、初雪〉、第三輸送隊〈壽山丸、新京丸、敷波〉、護国丸、愛国丸)、航空部隊(隼鷹、朝雲、五月雨)、隼鷹飛行機隊基地員輸送(春雨)、第二特別根拠地隊輸送部隊(巻波、第34号駆潜艇、輸送船2隻)が展開した[81]。
- ^ a b ○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号[82] 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ
- ^ 斯くてニューギニヤ正面の戰略要點ラエ、サラモアの戰備に一大缺陥を生じたるを以て敵の進攻氣勢とも關連し速急に同方面の戰備を強化し確乎たる作戰基盤を造成するを目下の急務とするに至つた。因て第八方面軍は第五十一師團主力を断乎海上輸送を以てラバウルよりラエに直送するに決し左の計畫の下に之を實施することとなつた[95]
- ^ 第一航空戦隊には空母翔鶴が所属するが、南太平洋海戦で大破し横須賀海軍工廠で修理中だった[112]。
- ^ 第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第9駆逐隊(朝雲)、第2駆逐隊(五月雨)、第27駆逐隊(夕暮)、白雪型(初雪、磯波、敷波)、睦月型(皐月、長月)など[124]。
- ^ 特設巡洋艦清澄丸、護国丸、愛国丸、浮島丸を含む[125]。他に特設水上機母艦讃岐丸、相良丸、聖川丸、輸送船靖国丸、寿山丸、新京丸、新玉丸[124]。
- ^ 1月24日、ウェワクに停泊していた駆逐艦春雨は米潜水艦ワフー (USS Wahoo, SS-238) の雷撃で大破した[127]。瑞鳳航空隊輸送のため2月15日にウェワクに到着した駆逐艦天津風と浦風は[124]、春雨を曳航してトラック泊地へ戻った[128]。
- ^ 2月20日、ラバウルからウェワクに向かっていた輸送船団を米潜水艦アルバコア (USS Albacore, SS-218) が襲撃して駆逐艦大潮(第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐)が大破、駆逐艦荒潮による曳航中に沈没した[130]。
- ^ 軽巡洋艦川内、駆逐艦朝潮、荒潮、白雪、初雪、皐月、水無月、文月、長月、雪風、時津風、朝雲、峯雲、浦波、敷波、村雨、五月雨など[142]。
- ^ (6)航路計畫[160] 三月一日〇〇〇〇ラバウル發船團速力七節、ニューブリテン島北方接岸航路を執り三月三日一七〇〇ラエ泊地着直に揚搭、翌四日日出前揚搭完了、ラエ發往航を逆航ラバウル歸投
- ^ 1943年(昭和18年)3月15日付で第7艦隊 (U.S. Seventh Fleet) が新編されると、同艦隊直属の第70任務部隊第1群に改称された[4]。
- ^ (略)[186] 翌二日〇八〇〇前後より敵大型機一〇機の爆撃を受け第五十一師団長乗船の旭盛丸被弾炎上約一時間にして沈没(人員物件は驅逐艦二隻に移載ラエに先行揚陸)した
- ^ 『戦史叢書40巻』では朝雲に819名と記述する[179]。『戦史叢書96巻』56-57頁では「朝雲と雪風に918名収容」と記述する[6]。
- ^ a b c 八十一号輸送作戦[187] (一)二日被爆沈没、旭盛丸遭難者ヲ搭載シ、二三二〇「朝雲」「雪風」入港、第五十一師団長以下約一〇〇〇名揚陸、〇一三〇出港。(二)三日〇八〇〇フィンシュハーフェン東南50′附近ニテ船団潰滅スルニ至リ、陸海軍協議ノ上、陸軍大発七隻、現場ニ派遣シ救助ニ向ハシメタルモ、敵機ノ妨害ヲ受ケ予定地点ニ到達セズ。四日夜間ラエニ皈着。(三)四日夜間大発ヲ以テサラモア東方40′圏ヲ捜索セシメタルモ漂流者ヲ見ズ(以下略)
- ^ 〔 ○第八艦隊司令長官(二-一〇四二)宛「初雪」、第三水雷戦隊司令官[189] 速ニ出撃、「ラエ」輸送損傷輸送船ヲ救援スベシ。/○第九駆逐隊(二-一二三〇)きょくせい丸人員救助作業終了。大隊長以下将校57名、下士官兵765名、内負傷、陸軍76名。我今ヨリ追及ス
- ^ 後日、市丸利之助海軍少将は牧飛長の武勲を称えて「要塞と敵の誇りしボーイング、墜とすは誰ぞ、あゝ体当たり」と吟じた[206]。牧は二階級進級した[206]。
- ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』447-448頁では3月3日の連合軍第一次攻撃隊について「B-17が13機、ボーファイター13機、B-25が12機、A-20が12機、P-38が16機」と記述する[188]。奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』246頁では「第一次攻撃隊:P-38 30機、B-17 15機、A-20 40機。第二次攻撃隊:P-38 22機、B-26 6機、A-20 数機」と記述している[209]。
- ^ 〇八〇〇より新戰法(中型爆撃機に搭載した爆弾を低高度にて投下し其の水面反跳力を利用し艦船の舷側に命中せしめ舷側破口より浸水沈没せしめる方法)に依る猛爆撃を受け船團、護衛艦相次で被害を生じ〇八一〇頃迄に全輸送船炎上、驅逐艦二隻沈没、一隻大破するの大損害を蒙りラエ輸送の目的は完全に破砕せられた[186]
- ^ 三、護衛隊[213] (イ)「白雪」〇九三五沈没(「敷波」救援)。(ロ)「荒潮」艦橋及二番砲被爆、舵故障、「野島」ト衝突、艦首大破、兵科士官全部戦死(「朝潮」救援)。(ハ)「時津風」機関室右舷ニ被雷、航行不能(「雪風」救援)、「敷波」「朝潮」「雪風」「浦波」「朝雲」被害軽微ナリ、戦闘航海差支ナシ。
- ^ a b ○増援部隊(四-〇一三五)[220] 二三一五「雪風」ハ「荒潮」ヲ発見、人員146名収容セリ。「荒潮」第二次攻撃ノ為更ニ大破、浸水、傾斜次第ニ増大シ沈没確実ト認ム。右ノ外、艦船其ノ他ヲ認メズ。〇一〇〇救援作業ヲ打切リ北上ス。燃料ノ関係上、カビエンニテ「川内」ヨリ補給ノ上、ラボール回航ス
- ^ a b ○第十六駆逐隊(四-〇二一五)[221] 〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部約一七〇名、「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ。「雪風」到着時、既ニ左舷ニ約30°傾斜、上甲板水線水面ニ接シアル情況ニテ、漸次傾斜ヲ増大、放置スルモ自沈確実ナリト認メタルヲ以テ処分ヲ取止ム(以下略)
- ^ 荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行している[222]。
- ^ 後日、アトキンズは駆逐艦メルヴィン (USS Melvin, DD-680) 艦長となり、レイテ沖海戦のスリガ海峡夜戦で戦艦扶桑撃沈に貢献した。
- ^ 午後残存驅逐艦四隻竝にカビエンより救援の爲來會した驅逐艦一隻を以て遭難者を捜索救助し四日〇〇四〇捜索を打切りダンピール海峡を北上カビエン及ラバウルに分離歸投した[228]
- ^ 3月4日、九五八空の水偵がゴム浮舟等を投下した[229]。3月5日、陸攻6と零戦17が出撃し、救命具を投下[227]。
- ^ 駆逐艦2隻(村雨、峯雲)は[237]、輸送を終えたあとの3月4日深夜に生起したビラ・スタンモーア夜戦で沈没した[238]。
- ^ a b c (前略)[242] 米軍の残虐性を皮肉にも彼の味方である英國の週刊誌が、次のやうに暴露してゐることを讀賣新聞ジュネーヴ特電が報道してゐる。― 去る十月九日付(昭和十八年)のイギリス週刊誌ニュー・リーダーは大東亞戰域における米軍の殘虐性を立證する次の如き記事を掲載してゐる。
即ち二、三ヶ月前に西南太平洋上で日本の一護送船團が米機の襲撃を受け輸送船一隻が撃沈せられた、多數の人員を乗せた船舶が人喰ひ鮫の充滿せる海洋中に沈没するといふことだけでも既に怖るべき事柄である。しかるに沈没に引續いて行はれた意識的計畫的な「筏や救命艇に乗つた防衛力なき日本兵に對する大量殺戮」はまさに殘虐の極みといふべきであらう。當時濠州軍本營の公式發表の爆撃機隊が生き殘つた日本兵の乗つてゐる多數の救命艇に爆弾を浴せこれを沈没せしめたと傳へてゐた。即ち海中から救助された者を満載した多數の内火艇が計畫的に撃沈せられたのである。その翌朝も更に殘りの内火艇や、救命艇や、筏などが米國兵の殺伐な殲滅慾の犠牲となつた。UP通信の一報道によれば、「幸じて岸邊にたどり着いた文字通り疲勞困憊の極に達した武器も持たぬ日本兵がアメリカの守備兵等のために一人殘らず殺戮されてしまつた」 といふことである。更にニュー・リーダー誌の報ずるところでは、その後ニユース・ウイーク紙によつて傳へられた他の報道によつても、これが決して日本側の宣傳でないことは明かである。その報道によると、この護送船團戰は類例なき殺戮を以て終りを告げてゐる。即ちその翌朝ニューギニヤ北方海面は日本兵の生存者たちを乗せた多數の救命艇や、筏や、内火艇で充滿してゐた。そして反樞軸空軍の大編隊が、容赦なくこれらの防衛力を失つた人々に銃爆撃を浴せかけたのである。司令官の一人は、まだ百名ほどの日本兵が潜水艦に救助されてゐるとの報告を受けるや、立ちどころに「ボーフアイター機を一編隊直ちに出動させろ、さうすればまだ〱多數の日本兵をやつゝけることが出來る」と命令したといふことである。 - ^ ○伊一七潜(五-一八三五)[243] 一.〇五〇〇7°-28′S 148°-27′Eニテ短艇二隻ヲ発見近接中、敵魚雷艇二隻ノ来襲ヲ受ケ潜航、爾後二時間ニ亘リ追躡(爆雷攻撃三回)ヲ受ケ、短艇ハ魚雷艇ヨリ機銃掃射ヲ受ケオレリ。二.駆逐艦漂流地点附近捜索セルモ発見セズ。三.収容人員三四名(内重傷一)
- ^ 江戸少将は3月23日付で横須賀鎮守府付となり、後任の三水戦司令官は秋山輝男少将(海兵41期)となった[274]
- ^ 〈ハンサ輸送部隊〉輸送船6隻(桃山丸、安島丸、旺洋丸、阿蘇丸、帝竜丸、しどにい丸)、駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨、皐月)、帰路の空襲で桃山丸が沈没した[286]。
- ^ 〈フィンシュハーフェン輸送部隊〉駆逐艦4隻(文月、長月、皐月、水無月)で第十八軍の将兵800名、糧食と弾薬80トン[286]。
- ^ 潜水艦による輸送を「もぐら輸送」と呼称し、一部の潜水艦は運貨筒を使用した[296]。
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