ドイツ領東アフリカ
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歴史
設立から第一次世界大戦まで
1884年頃、探検家でドイツ植民協会の創設者カール・ペータースは、ザンジバルから海を隔てたアフリカ大陸東部に入り、原住民の首長らと「ドイツの保護を求める」契約をむすんだ。ベルリン会議終了後の1885年3月3日、ドイツ政府はドイツ保護領東アフリカを設立する意向であること、ペータースのドイツ植民地協会に(2月17日に密かに)ドイツ保護領東アフリカ統治を委託する勅許を与えたことを公表した。ペータースはその後、現地を縦断し南方ルフィジ川、および北方沿岸部ラム近くのヴィツ(en、ウィトゥランド、スワヒリランドとも)へ展開する様々な専門家を募った。
ザンジバルのスルターン(アフリカ大陸インド洋沿岸部の実質的統治者だった)が、ドイツの進出に対して抗議した際、ドイツ宰相ビスマルクは5隻の軍艦(ビスマルク級コルベット「シュトッシュ」「グナイゼナウ」、ライプツィヒ級コルベット「プリンツ・アダルベルト」、アルコナ級フリゲート「エリーザベト」など)を派遣した。艦隊は8月7日に現地に到着し、砲口をスルターンの宮殿に向け威圧した。イギリス帝国(ザンジバルから支援を求められていたが、それに応えず自らも東アフリカに進出した)、ドイツおよびフランスが協議した結果、1886年に大陸部を分割してお互いの境界線(それに伴いザンジバルの支配地域も)を定め、イギリスは後のケニア(イギリス領東アフリカ)を、ドイツは後のタンガニーカを領有することとし、ザンジバルの支配地域はザンジバル島など東アフリカ沖の島嶼部および大陸沿岸から10マイル(16km)内陸までとされた[2]。フランスはコモロ諸島領有の英独承認と引きかえにそれらの境界を承認した。イギリスの支援を得られなかったザンジバルは同意せざるを得なかった。
ドイツは速やかにバガモヨ、ダルエスサラームおよびキルワ地区を支配下に置いた。1888年にアブシリの反乱が発生したものの、翌年にイギリスの支援を受けて鎮圧した。1890年、イギリスとドイツはヘルゴランド=ザンジバル条約を締結、ザンジバルやウィトゥランドはイギリスの保護領に、北海のヘルゴランド島をドイツ領とし、ザンジバルの支配地域だった沿岸部を買収してドイツ領東アフリカの権限範囲を定めた(境界線は1910年まで不明確なままだった)。
1891年から1894年の間、首長ムクワワに率いられたヘヘ族がドイツの進出に抵抗したが、結局他の部族がドイツ側についたため敗北した。ゲリラ活動を続けた後、ムクワワは追い詰められ1898年に自害した。
マジ・マジ反乱
1905年にマジ・マジ反乱が発生した。この反乱は、植民地総督であったグスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン伯爵が鎮圧したものの、その後まもなく、植民地における腐敗した統治と残虐行為の不祥事が明るみに出た。これを受けてドイツの宰相であったベルンハルト・フォン・ビューローは、1907年に植民地省を設置し、ベルンハルト・デルンブルクを長官に命じて植民地統治の改善を指示した。それは植民地統治のモデルケースになり、第一次世界大戦中の原住民の驚異的な忠誠にその結果が現れた。
ドイツ人植民地管理官は秩序を保ち、徴税に関しては原住民部族の首長に厚い信頼をおいた。現地警察以外では駐留軍(独: Schutztruppe、防衛隊)が110名のドイツ人将校(42名の軍医を含む)、126名の下士官および2,472名の原住民兵(アスカリ[3])で編成され、ダルエスサラーム、モシ、イリンガおよびマヘンゲに配置された[4]。
第一次世界大戦
第一次世界大戦勃発時、ドイツ領東アフリカ防衛隊は司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐(当時)に率いられ連合国軍と戦った。レットウ=フォルベックはこの戦争を、3,000名のヨーロッパ人将校と11,000名の原住民アスカリおよびポーターとともにイギリス軍を繰り返し攻撃して釘付けすることに費やした。イギリス軍は30万名を擁する強力な部隊で、この時第二次ボーア戦争を指揮したヤン・スマッツに率いられていた。レットウ=フォルベックのもっとも大きな戦功はタンガの戦いにおける勝利で、彼は自軍の8倍以上のイギリス軍を打ち破った。
レットウ=フォルベックはゲリラおよび奇襲作戦を展開し、最終的にイギリス軍に大量の物資と少なくとも6万人以上の損失を強いた。それにもかかわらず、圧倒的な兵力差(特にベルギー領コンゴ軍が西から攻撃してきた後)と補給の減少はレットウ=フォルベックに撤退を余儀なくさせた。最終的にレットウ=フォルベックは配下の小規模な部隊とともにドイツ領東アフリカを出てポルトガル領東アフリカ(後のモザンビーク)に侵入し、その後北ローデシア(後のザンビア)に侵入し、ドイツの休戦協定署名から3日後に休戦の知らせを受けて戦闘停止に同意した。
戦後、レットウ=フォルベックと彼のドイツ領東アフリカ防衛隊は、第一次世界大戦において唯一敗北しなかった植民地軍(数で劣る敵に対してはしばしば退却したが)という、英雄として凱旋した。東アフリカでドイツ軍とともに戦ったアスカリにはのちにヴァイマル共和政および西ドイツから恩給が支給された。
ドイツ軍軽巡洋艦ケーニヒスベルクも東アフリカ沿岸で戦った。ケーニヒスベルクは燃料の石炭を使い果たし、1915年にルフィジ川の河口で沈没した。乗組員はその後地上軍に参加した。
ヴェルサイユ条約によりドイツ領東アフリカは分割され、西側をルアンダ=ウルンディ(後のルワンダとブルンジ)としてベルギー領に、ロヴマ川以南のキオンガ三角地帯(後のモザンビークの一部)をポルトガル領に、残りをタンガニーカと名付けイギリス領とした。
- ^ Michael Pesek: Das Ende eines Kolonialreiches. Campus, Frankfurt a. M./New York 2010, ISBN 978-3-593-39184-7, S. 86/90.
- ^ この沿岸部も1888年にはドイツ・イギリスの租借地にされた。
- ^ オスマン帝国に由来しアラビア語で「兵士」を意味する。その後アフリカのヨーロッパ植民地におけるアフリカ人兵を指すようになった。
- ^ Haupt, Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884-1918, p. 32
- ^ Haupt, p. 30
- ^ Haupt, p. 155
- ^ Miller, Battle for the Bundu, p. 22
- ^ a b Miller, p. 21
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