ドイツ領東アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 14:39 UTC 版)
統治システム
ドイツが東アフリカに進出した際、多くの地域ではそれまでザンジバルのスルターンが用いていた統治組織を受け継いだ。これは、各村にジュンベ(村長)を置き、幾つかの村を治めるアキダ(郡長)と呼ばれる中間統治者を、政府が任命する方式だった。当初、アキダには読み書きの出来る主にアラブ人やスワヒリ人が選ばれたものの、後に教育を受けたその他のアフリカ人も採用された。ただし、内陸部の大規模部族に対しては、部族の首長を中間統治者として正式に、あるいは暗黙のうちに承認した。
これら中間統治者は道路や橋などの土木工事への労働賦役、政府のキャラバン隊の荷役、ドイツ人の経営する農園への労働者などの供給、あるいは家屋税の徴税などを行った。首長あるいは村長は徴収した税金の5%を報酬として受け取った。納税は金納が原則であったため、換金作物の栽培が始まっていない地域では賦役(強制労働)で代用する制度も用意されたが、これは住民には不評だった。賦役に応じない住民に対してはアキダや首長により家屋が焼き払われたり家畜が没収されたりした。1905年にこの無報酬の労働賦役から賃金労働の制度に改められ、賃金の中から納税するようになり、また人頭税が導入され、家屋税から徐々に切り替えられていった。家屋税と人頭税を合わせた税収は1909年には311万マルクに達し、植民地での税収の34%を占めた。
内陸のハヤ族の住むブコバ地域、ルアンダ王国、およびブルンジ王国の3地域は人口が集中し中央集権的制度を持つ大規模な部族が支配する地域であったため、植民地政府は間接統治方式をとり3地域を自治区とし、王あるいは首長は内政に関する権限を与えられた。各自治区にはドイツ人駐在官が置かれ経済開発のアドバイザーとなるとともに、外国人や現地住民の出入国を監視した。これら自治区では経済開発が遅れ、徴税が実施されたのは1910年代に入ってからだった。
- ^ Michael Pesek: Das Ende eines Kolonialreiches. Campus, Frankfurt a. M./New York 2010, ISBN 978-3-593-39184-7, S. 86/90.
- ^ この沿岸部も1888年にはドイツ・イギリスの租借地にされた。
- ^ オスマン帝国に由来しアラビア語で「兵士」を意味する。その後アフリカのヨーロッパ植民地におけるアフリカ人兵を指すようになった。
- ^ Haupt, Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884-1918, p. 32
- ^ Haupt, p. 30
- ^ Haupt, p. 155
- ^ Miller, Battle for the Bundu, p. 22
- ^ a b Miller, p. 21
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