ドイツ領東アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 14:39 UTC 版)
教育
他のアフリカ植民地所有者ベルギー、イギリス、フランスおよびポルトガルとは違って、ドイツは初等学校、中等学校および職業訓練学校の開設といったアフリカ人教育プログラムを施行した。
「 | 教師の採用条件、教育課程、教科書、教材、すべては他の熱帯アフリカのどこにも並ぶものがない水準に達した。[8] | 」 |
1924年、第一次世界大戦が勃発して10年後、そしてイギリスが支配してから6年後、現地を訪れたアメリカフェルプス=ストークス委員会は次のように報告している。
「 | 学校に関して、ドイツ人は驚くべきことを成し遂げた。教育をドイツ人が行った水準まで引き上げるには若干の時間を要する。[8] | 」 |
郵便切手
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ドイツ領東アフリカで最初に郵便切手が発行されたのは1893年で、ドイツの切手に「Deutsch-Ostafrika」の文言とペサ(ドイツ領東アフリカの通貨)での額面が加刷されていた。1900年、ドイツはすべてのドイツ植民地で共通のデザイン(皇帝のヨット「ホーエンツォレルン号」が図案)を採用した切手「ヨット」を発行した。ドイツ領東アフリカの切手の額面に用いられた通貨単位は、現地通貨のペサおよびルピー(64ペサで1ルピー)であり、発行地域名は「DEUTSCH-OSTAFRIKA」と表記された。1905年、通貨単位が変更となり、新通貨「ヘラー」表記の切手が発行された(100ヘラーで1ルピー)。ドイツは、戦況が悪化し、植民地への切手の供給が困難となったのちも、切手を発行し続けた。1916年発行の透かし入り1ルピー切手はその好例である。この切手の真正な使用例は極端に珍しく、2万ドル以上に評価される。ドイツ領東アフリカ発行の切手の大半は、10ドル以下で売られているが、高額面の切手と、初期の加刷切手は100ドル以上に評価される。
ベルギーおよびイギリスに占領された後、それぞれの占領軍は臨時の切手を発行した。1916年、ベルギー占領地ではベルギー領コンゴの切手にいくつかの表記で加刷を行なった。最初は「RUANDA」および「URUNDI」と加刷されたが、実際には使用されなかった。次に2つの言語で「EST AFRICAIN ALLEMAND / OCCUPATION BELGE / DUITSCH OOST AFRIKA / BELGISCHE BEZETTUNG」と加刷されたシリーズが発行された。1922年、これらの切手は額面変更加刷をなされた。
1916年初頭、イギリスはニヤサランドの切手に「N.F.」(Nyasaland Force、ニヤサランド軍を示す)の加刷を行ない、その後1917年、東アフリカおよびウガンダの切手に「G.E.A.」と加刷した切手を発行した。同様の加刷は「東アフリカおよびウガンダ保護領」発行の切手にもみられるが、これらはタンガニーカ成立後に発行されたため、タンガニーカの郵便史コレクションの一部とみなされている。
恐竜化石の発見
鉱物資源の探査の際に南東部のリンディ方面の中生代の地層(テンダグル累層)から恐竜の化石が発見され、1909年にはこの場所からブラキオサウルスの全身骨格が発掘された。このブラキオサウルスの標本はドイツ本国に輸送された後、数十年の作業の末に復元され、世界最大級(当時)の標本として有名になった(現在ベルリンのフンボルト博物館に収蔵・展示)。ケントロサウルスの発見も同じ場所で、ドイツの発掘隊によるものである。
- ^ Michael Pesek: Das Ende eines Kolonialreiches. Campus, Frankfurt a. M./New York 2010, ISBN 978-3-593-39184-7, S. 86/90.
- ^ この沿岸部も1888年にはドイツ・イギリスの租借地にされた。
- ^ オスマン帝国に由来しアラビア語で「兵士」を意味する。その後アフリカのヨーロッパ植民地におけるアフリカ人兵を指すようになった。
- ^ Haupt, Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884-1918, p. 32
- ^ Haupt, p. 30
- ^ Haupt, p. 155
- ^ Miller, Battle for the Bundu, p. 22
- ^ a b Miller, p. 21
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