ドイツ領東アフリカ
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経済開発
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商業とその成長はドイツの指導の下で本格的に始まった。40,000ヘクタール以上に渡りサイザル麻が栽培されており、もっとも大きな収入源となっていた。大規模な綿花のプランテーションの他、2百万本のコーヒーの木と80,000ヘクタールに渡りゴムの木が植えられていた。
当初、ドイツはヨーロッパ人入植者を優遇する政策をとっていたが、マジ・マジ反乱の後、ドイツ植民地省初代長官デルンブルクおよびゲッツェンに替わり東アフリカ総督に就任したゲオルク・アルブレヒト・フォン・レーヒェンベルクは植民地政策の重点を少数のヨーロッパ人保護から現地アフリカ人による農業開発へと移した。
早くから経済の発展は信頼できる輸送手段に依存すると理解されており、これら農業生産品の市場への流通はタンガからモシへ至るウサンバラ鉄道(北方鉄道)が開通した1888年に始まった。もっとも長い路線(ドイツ語: Tanganjikabahn。現タンザニア中央鉄道)はダルエスサラームからモロゴロ、タボラを経由しキゴマに至る全長1,250kmに及んだ。レーヒェンベルクは内陸部での換金作物導入を促すため鉄道建設を優先させ、最終的にタンガニーカ湖東岸まで開通したのは1914年7月で、それを記念し大規模で賑やかな祝典とともに農産物の見本市と貿易博覧会が首都で開催された。鉄道開通とインド人商人の働きなどにより内陸部で換金作物が急速に普及したが、鉄道建設はドイツ国庫からの建設借款により行われていたため、植民地政府は借款返済のために、多額の財政負担を強いられた。1914年の植民地政府の歳入の32%が、借款返済に当てられていた。
港湾施設は電気クレーン、鉄道敷設、倉庫などが建設あるいは拡充され、タンガ、バガモヨおよびリンディでは埠頭が改築された。1912年にはダルエスサラームおよびタンガに356隻の蒸気貨物船および旅客船と、1,000隻を超える湾岸船および域内貿易船が入港した[5]。
1914年までにダルエスサラームおよび周辺地域の人口は166,000人となった(1,050人のヨーロッパ人を含み、ドイツ人はそのうち1,000人)。東アフリカ保護領全域では3,579人のドイツ人がいた[6]。それ自体でダルエスサラームは全熱帯アフリカの模範的都市となった[7]。
これらすべての努力にもかかわらず、ドイツ領東アフリカは決して祖国のために利益を上げたというわけではなく、本国財務省からの助成金を必要とした。
- ^ Michael Pesek: Das Ende eines Kolonialreiches. Campus, Frankfurt a. M./New York 2010, ISBN 978-3-593-39184-7, S. 86/90.
- ^ この沿岸部も1888年にはドイツ・イギリスの租借地にされた。
- ^ オスマン帝国に由来しアラビア語で「兵士」を意味する。その後アフリカのヨーロッパ植民地におけるアフリカ人兵を指すようになった。
- ^ Haupt, Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884-1918, p. 32
- ^ Haupt, p. 30
- ^ Haupt, p. 155
- ^ Miller, Battle for the Bundu, p. 22
- ^ a b Miller, p. 21
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