デヴィッド・リーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 15:46 UTC 版)
デヴィッド・リーン Sir David Lean KBE | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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『キネマ旬報』1964年2月決算特別号より | |||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1908年3月25日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1991年4月16日(83歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | イギリス サリー州(現ロンドン市内クロイドン区)クロイドン | ||||||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | イギリス ロンドン タワー・ハムレッツ区ライムハウス (en) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家、編集技師、映画プロデューサー | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
Isabel Lean (1930-1936) ケイ・ウォルシュ (1940-1949) アン・トッド (1949-1957) Leila Matkar (1960-1978) Sandra Hotz (1981-1984) Sandra Cooke (1990-1991) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
『逢びき』(1945年) 『大いなる遺産』(1946年) 『戦場にかける橋』(1957年) 『アラビアのロレンス』(1962年) 『ドクトル・ジバゴ』(1965年) 『インドへの道』(1984年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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来歴
下積み時代
ロンドン郊外クロイドン生まれ。19歳のときゴーモンピクチャーを尋ね、使いっ走りとして雇われる。映画らしい最初の仕事はカチンコ係だった。
映画監督として
その後カメラマン助手、助監督、編集、などの仕事を経ていき、1942年に劇作家ノエル・カワードとの共同監督作品『軍旗の下に』で戦闘シーンの撮影を担当して監督デビューを果たす。作品は戦中ということもあり、イギリス海軍を主題にした英国に対する愛国心の強い内容だったが、初監督にして作品はアカデミー作品賞にノミネートされた。
1945年、カワードの短編戯曲『静物画』を映画化した恋愛映画『逢びき』で第1回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞。その後も『大いなる遺産』(1946年)や『オリバー・ツイスト』(1948年)といったイギリス文学の映画化で監督を務め、1940年代から1950年代にかけてライバルであるキャロル・リードと共にイギリス映画界を牽引していった。
1954年、コメディ映画『ホブスンの婿選び』で第4回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。
同年、リーンはリチャード・メイスンの小説『風は知らない(The Wind Cannot Read)』(1946年)の映画化に同意した[2]。同年5月14日、シンガポールで東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕[3]。リーンは主人公の日本人の女性の役を探すためわざわざ映画祭に訪れ、そこで野村芳太郎監督の『亡命記』に主演した岸惠子を見た。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞[4]。翌朝、リーンがホテルの岸の部屋に電話すると、岸は次回作の撮影のため日本へ発ってしまった後だった。同年6月3日、メイソンとともにに来日。同年6月18日、松竹、東和映画、文芸プロダクションにんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[5]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った。ところが1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わず、映画の制作は延期された[6][7]。『風は知らない』は結局、谷洋子を主演に据え、ラルフ・トーマス監督の映画として1958年に制作された。
世界的認知
1957年、ハリウッドのプロデューサーであるサム・スピーゲルとタッグを組んだ戦争映画『戦場にかける橋』が公開。戦前からチャップリンと並んで国際的に有名だった日本人俳優早川雪洲や、イギリスを代表する俳優アレック・ギネス、ハリウッドでも指折りのスター俳優ウィリアム・ホールデンなど、世界各国から豪華キャストが集結した本作は、ビルマの奥地であるジャングルでの撮影など過酷を極めたものだったが、公開されると大ヒットし、その年の全世界年間興行成績で1位を記録する。また、第30回アカデミー賞では作品賞を含む7部門を受賞し、リーンも監督賞を初受賞した。
『戦場にかける橋』の成功により、リーンは更なる大作『アラビアのロレンス』(1962年)を再びスピーゲルとのタッグで制作する。ピーター・オトゥールとオマー・シャリフのデビュー作ともなった本作は、1962年度の全世界年間興行成績では前作に続いて1位を記録し、前作を上回る大ヒットを収めた。第35回アカデミー賞では7部門を受賞し、2度目のアカデミー作品賞、自身も2度目となるアカデミー監督賞を受賞した。
1965年、ソ連の作家ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』を前作にも出演したオマー・シャリフ主演で映画化。イタリア人大物映画プロデューサーであるカルロ・ポンティがMGMに持ち込んだ企画であった本作は、前作の大作2本で大成功を収めていたリーンの監督就任により実現した。公開当時、批評家の間では評価が割れたが、MGMの宣伝効果もあって興行的には1億ドルを超える成績を叩き出し、劇中に登場したヘアスタイルやファッションまでもが流行した。第38回アカデミー賞では『サウンド・オブ・ミュージック』という強敵のために作品賞と監督賞は逃したものの、ボルトの脚色賞を含む5部門を受賞。
寡作ではあったものの、これらの3作品はリーンの監督としての名声を絶大なものとした。また、これらの3作品すべてで、リーンはアレック・ギネスを起用。オマー・シャリフ曰く、リーンにとっての成功の御守りだったという。
晩年
1970年、『ライアンの娘』が公開されるが、前作以上の興行収入を得られず、批評家からも厳しい批判を受ける結果に終わる。特にポーリン・ケイルからの批判は厳しく、それが原因で14年間もメガホンを取ることを諦めていたという。
そして14年の月日を経た後、1984年に遺作となる『インドへの道』が公開。本作では脚本、編集も担当し、監督としての健在ぶりを見せつけて復活を遂げる。1980年代中頃、師弟関係にあったスティーヴン・スピルバーグ製作で『太陽の帝国』を監督しようとしたが、最終的にはスピルバーグ自らがメガホンを取った。その後、コンラッドの『ノストロモ』の映画化を企画していたが、1991年、病に倒れて83歳で死去した。
KBE叙勲者。
次世代への影響
リーンの作風はスティーヴン・スピルバーグや、マーティン・スコセッシなど次世代の映画監督に多大な影響を与えた。
特にスピルバーグは高校生の頃に『アラビアのロレンス』を見たことで映画監督を目指すことを決心したと語っており、彼を偉大なる師として尊敬していた。リーンの自然主義的な作風はスピルバーグに大いに受け継がれており、『アラビアのロレンス』『戦場に架ける橋』『ドクトル・ジバゴ』は撮影前に必ず見直す作品だと語っている。
また、クリストファー・ノーランは『ダークナイト』の撮影でIMAXカメラを使用した際、「デヴィッド・リーンが砂漠の中で65mmのカメラを抱えられたなら、僕たちにこれが使いこなせないわけはない」と語っている。
- ^ “1st Cannes Film Festival”. Fipresci.org. 2020年1月4日閲覧。
- ^ STEPHEN WATTS (1955年6月19日). “SCANNING THE CURRENT BRITISH SCREEN SCENE: DIRECTOR DAVID LEAN MOVES EASTWARD -- WAR EPIC --COLUMBIA'S AGENDA”. New York Times: p. X7
- ^ 『映連時報』1955年6月号、日本映画連合会事務局。
- ^ 『朝日新聞』1955年5月22日付朝刊、11頁、「岸恵子に女優主演賞 東南アジア映画祭」。
- ^ 『朝日新聞』1955年6月19日付朝刊、11頁、「岸恵子に白羽の矢 日英合作映画の主演女優 デヴィッドリーン監督『風は知らない』」。
- ^ “BFI”. 2013年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月3日閲覧。
- ^ 岸惠子『岸惠子自伝―卵を割らなければ、オムレツは食べられない』岩波書店、2021年4月28日、101-103頁。ISBN 978-4000614658。
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