デンマーク=ノルウェーの宗教改革 宗教改革

デンマーク=ノルウェーの宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 09:57 UTC 版)

宗教改革

ヨハン・ブーゲンハーゲン

1536年8月6日、クリスチャン3世はコペンハーゲンに入城した。8月11日、戦争評議会(Krigsraad)を開催し司教逮捕を決定した。翌8月12日午前4時頃に、ルンド大司教Torben Bille、ロスキレ司教Joachim Rønnow、リーベ司教P. Munkの3司教を逮捕し、王国顧問会議を招集、今回の逮捕劇を説明、追認させた[11]。表向きの理由は3司教がクリスチャン3世の即位に反対したこと、その他多くの犯罪行為をしたことであった。しかし逮捕劇の真の狙いは伯爵戦争で荒廃した国土の復興と財政再建のために教会が持つ司教領を没収し、王領に取り込み王権を拡大させること、ルター派の教義をデンマーク王室の支配領域に広げることであった。その後、多数の司教を逮捕、監禁していった[11]

次いで、10月15日から30日にかけて、コペンハーゲンで開かれた聖職者を抜きにした諸侯会議で、伯爵戦争の原因が聖職者にあると断罪し、カトリック聖職者の罷免、司教領・教会領・聖職者領の没収、カトリック修道士・修道女の処遇を決定した[12][13]

クリスチャン3世は1521年のヴォルムス帝国議会でルターの講演を聞いて、ルター派に改宗しており、1524年には彼の領地であったハーザースレゥ英語版及びチュアニング(Tørning)でルター派を導入していた[14][15]。1528年には22カ条からなるハーザースレゥ規約(Haderslev articles)を制定し、教会法の下地を策定していた[16][17]

クリスチャン3世は支配領域全土にルター派の教会組織を展開したがっていた。ハーザースレゥ規約にはすでに各教区の監督(Superintends)を決めており、前述の逮捕劇により支配領域全域におけるルター派の監督を任命することとなった[14][16]

逮捕劇の後、クリスチャン3世はルターとヨハン・ブーゲンハーゲンと接触、彼らはクリスチャン3世勝利に祝意を示した[16]。クリスチャン3世はザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世に対して、フィリップ・メランヒトンないしブーゲンハーゲンをデンマークに招聘することを望んだものの、選帝侯は拒否してしまった[16]

ペーダー・パラディウス

クリスチャン3世はペーダー・パラディウスデンマーク語版ヨルゲン・サドリンデンマーク語版、ハンス・タウセン、Frans Vormordsenといったルター派の神学者—彼らはすべてドイツのヴィッテンブルク大学で神学の研究をしていた—を用いて宗教改革を行った[14]。教会法の草稿を決める第1回委員会がオーデンセで開かれその後の作業はハーザースレゥで行われた[14][16]。この草稿はハーザースレゥ規約、ザクセンのUtrerrricht der Visitatoren (Visitators' lessons)、ブーゲンハーゲン著のVan menigherleie chistliken saken (Of several Christian matters)を元にしている[18]。1537年4月、完成した草稿はルターがいるヴィッテンブルクに送られ、その後、ザクセン選帝侯はブーゲンハーゲンをデンマークに派遣した。ブーゲンハーゲンは草稿を修正し、ラテン語からデンマーク語に翻訳、その後、デンマーク王国参事会に提出した[19]。ブーゲンハーゲンが執筆した第2版の教会法が完成し、1537年9月2日、クリスチャン3世が教会法Ordinatio ecclesiastica regnorum Daniae et Norwegiae et ducatuum Slesvicencis, Holtsatiae etc. (Church order of the kingdoms of Denmark and Norway and the duchies of Schleswig and Holstein etc))を署名、承認した[19]。教会法の成立により、デンマークでは旧来の司教区に代わり、7名の監督が任命された[20]。7名の監督は教会会議において王と会わなければならなかったし、国王は監督を任命する以上の理論的権威を持つことはできなかったし、一方で7名の監督は知行地や世俗の職業を持つことが許されなかった(とはいえ、このルールが厳密に守られたわけではない)[20]。教会法の制定にも関わらず、クリスチャン3世はしばしば教会の事件に容喙してきた[21]

1537年にデンマークに設置された監督
地域 教区 監督
シェラン島 ロスキレ[14] ペーダー・パラディウス[22]
フュン島 、ロラン島ファルスター島[14] オーデンセ[14] Georg Viburg[22]
ユラン半島(一部) オールボー[14] Peder Thom[22]
ユラン半島(一部)[14] オーフス[14] Matthias Lang[22]
ユラン半島(一部)[14] リーベ[14] Johann Vandal[22]
ユラン半島(一部)[14] ヴィボー[14] Jacob Scaning[22]
スコーネ[14] ルンド[14] Frans Vormordsen[22]

教会法は聖人崇拝、断食、禁欲主義、カトリック由来の愚かな教義と考えられるものを全否定し、その代わりにデンマーク語で教会での行事を行うよう規定した。ほとんどの修道士・修道女はフランシスコ会を除き修道院に留まることが許された。そして、彼らの最後の一人が死んで初めて修道院領は王領に帰属することとなった。このようにしてシェラン島ではペーダー・パラディウスが苦痛を伴う改革を進めたにも関わらず、デンマークでは血を流すこともなく穏便に宗教改革が進められた。

ラテン語で書かれた教会法のデンマーク語への翻訳は1539年にデンマーク王国参事会に承認された。ブーゲンハーゲンは同年、一旦デンマークから離れたものの、1542年にデンマークに戻り、教会法の承認を遅らせていたホルシュタイン公国を訪れ、公国内の帰属に承認するよう交渉した。1542年3月9日、ブーゲンハーゲンが教会法を修正した後、スレースヴィ=ホルシュタイン教会法が地方議会で承認された。

戴冠式が挙行されたコペンハーゲンの聖母教会

教会法制定と並行して、ブーゲンハーゲンはルター派の教義に従い、クリスチャン3世とその妻ドロテアの戴冠式を1537年8月12日に挙行した。この日はクリスチャン3世34回目の誕生日であり、逮捕劇からちょうど一年経過していた。戴冠式はコペンハーゲンの聖母教会英語版で執り行われた。式では従来のラテン語ではなく、クリスチャン3世の母国語であるドイツ語が使用され、内外にデンマークの変化と、国王の権力を見せつけた[23]

現存する最古のコペンハーゲン大学のカリキュラム(1537年)

また、1537年9月9日にはブーゲンハーゲンは、ヴィッテンブルク大学をモデルに伯爵戦争で休学中となっていたコペンハーゲン大学をルター派の大学として再興した[24][25]1550年にはデンマーク語『クリスチャン3世欽定訳聖書』の初版が刊行された[26]。1556年にはペーダー・パラディウスがルター派の教義の概説としてAltar Bookを出版したがデンマーク全土には広がらなかった[26]




  1. ^ 佐保(2002)p.117
  2. ^ a b 佐保(2002)p.109
  3. ^ 佐保(2002)pp.117-118
  4. ^ 佐保(2002)p.108
  5. ^ 佐保(2002)p.114
  6. ^ 佐保(2002)p.119
  7. ^ 佐保(2002)pp.126-127、デンマーク宗教改革関連年表。1528年にはハーザースレゥとフレンスボーで市民が托鉢修道士を追放、1530年にはコペンハーゲンでは聖母教会が襲撃され、聖絵が破壊されている。
  8. ^ a b 佐保(2003)p.63
  9. ^ 佐保(2003)p.64
  10. ^ 佐保(2003)p.69
  11. ^ a b 佐保(2005) p.31
  12. ^ 佐保(2005)pp.34-35
  13. ^ 佐保(1999)p.59
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Lockhart (2007) p.64
  15. ^ Lorentzen (2008) p.37
  16. ^ a b c d e Lorentzen (2008) p.38
  17. ^ 佐保(2005)p.37
  18. ^ Lorentzen (2008) pp.38-39
  19. ^ a b Lorentzen (2008) p.39
  20. ^ a b Lockhart (2007) p.65
  21. ^ Grell (1995) p.5
  22. ^ a b c d e f g Wylie (2002), p. 724
  23. ^ 佐保(2005)pp.36-37
  24. ^ Grell (1995) p.32, p.38
  25. ^ 佐保(2005) pp.39-40
  26. ^ a b Lockhart (2007) p.66
  27. ^ Stenersen and Libæk(2003)(岡沢・小森訳(2005) p.49)
  28. ^ 佐保(1999) pp.61-62
  29. ^ 佐保(1999) p.62
  30. ^ a b 熊野・村井・本間・牧野・クリンゲ・佐保(1998) p.136





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