クリスチャン3世の選出と伯爵戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 09:57 UTC 版)
「デンマーク=ノルウェーの宗教改革」の記事における「クリスチャン3世の選出と伯爵戦争」の解説
詳細は「クリスチャン3世の選出」および「伯爵戦争」を参照 1534年1月、ルンド大司教がマルメーからルター派牧師を追放せよという命令に対し、ヨーアン・コックは拒絶した。マルメーはすでにルター派の布教活動の中心となっていたからである。ヨーアン・コックはマルメ城(英語版)を占拠、マルメーを統括するモーエン・ギュレンスチャーナを逮捕・拘束、他の貴族も拘束、あるいは子弟を人質に取るなどして、ルンド大司教に対抗した。5月には、コペンハーゲン、マルメー、リューベックがクリスチャン2世復位を名目に白羽の矢を立てたオルデンブルク伯クリストファがホルシュタイン公国を攻撃したことから、伯爵戦争の火蓋が切られた。オルデンブルク伯クリストファはフュン島、シェラン島といったデンマーク東部を支配下に入れた。 オルデンブルク伯クリストファの動きに対し、1534年7月、宮廷長官モーエンス・ゴイェはユラン半島の貴族、司教を招集し参事会を開催した。参事会では下級貴族に押し切られる形でクリスチャンの国王即位が決定、8月18日にはクリスチャン3世としてホーセンスで国王に即位した。 その後、スウェーデンやプロシア公領を巻き込み、戦火はユラン半島、フュン島、シェラン島、スコーネ、ハッランドにまで広がった。1536年4月6日にマルメーは降伏したものの、特権やルター派の教義を喪失することはなかった。7月29日には長期間の包囲により、市民が飢餓で苦しんだコペンハーゲンも降伏したが、マルメーと同様の措置が取られることとなり、伯爵戦争は終結した(コペンハーゲン市長のアンブロシウス・ボービナー(デンマーク語版)は自殺)。
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