クリスチャン7世の治世
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「エーダム・ゴトロプ・モルトケ」の記事における「クリスチャン7世の治世」の解説
フレデリク5世が1766年1月14日に死去すると、モルトケの影響力も消え去った。新王クリスチャン7世はモルトケを嫌い、大衆もモルトケが公金横領をしたと疑った(ただし、実際は横領はなかったという)。その結果、モルトケは1766年7月に罷免されてブレーイントヴィズ(英語版)の領地に戻った。 1768年2月8日、親露派だったモルトケはロシアの影響力で返り咲いたが、彼の影響力はすでに低下しており、その復権は長く続かなかった。クリスチャン7世は精神疾患を患っていたため、主治医のヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセの影響を強くを受けた。ストルーエンセは権力を掌握、1770年から1772年まで事実上の摂政を務めた。 1770年12月10日、モルトケはストルーエンセへの協力を拒否した廉で年金なしで罷免された。以降は1772年にストルーエンセが失脚した後も引退生活を続け、1792年9月25日に死去した。
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