タラワの戦い 両軍の兵力

タラワの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 02:06 UTC 版)

両軍の兵力

日本軍(海軍部隊のみ)

タラワ環礁
ベティオ島
ベティオ島に配備された九九式八糎高射砲

計約4800名[23]

米軍

計約35000名[23]

戦闘経過

上陸前

1943年11月10日レイモンド・スプルーアンス中将指揮のマキン・タラワ侵攻部隊はハワイ真珠湾を出撃した。11月19日にタラワとマキンへ同時に事前攻撃が始まり、これより3日間、タラワは米軍の砲爆撃を受けた[24]

11月21日

タラワに上陸を試みる海兵隊員たち
日本軍のトーチカを攻撃する海兵隊員

11月21日午前4時、戦艦「コロラド」と「メリーランド」の火力支援の元、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波である125輛のLVT(水陸両用トラクター)が発進した。舟艇群は環礁の西側の水路から礁湖への侵入を試みたが、日本軍の西海岸の砲台が反撃し、上陸部隊は大損害を被ることとなった[25]。これに対し、米軍は派遣艦隊の旗艦「メリーランド」が艦砲射撃で反撃し、その主砲で日本軍の西海岸砲を制圧した。この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こった[25]

この後、米軍は島の砲陣地や機銃陣地に対して再び艦載機による攻撃を加え、午前6時20分には戦艦3隻、巡洋艦5隻が艦砲射撃を開始した[25]。日本軍守備隊はそれぞれの陣地で配置についていたが、艦砲射撃により電話線が修理不可能となるほどの被害を受け、命令がうまく伝わらなくなった。そのため守備隊の各隊は統一的な指揮を失い独立行動をとらざるをえなくなった[26]

旗艦「インディアナポリス」の艦橋から艦砲射撃のようすを見ていた中部太平洋艦隊参謀長のカール・ムーア大佐は「島に生きている人間がいるはずはないように思え、作戦全体が楽勝になりそうに見えた」と錯覚したという[27]

米軍は礁湖内にも駆逐艦2隻を進出させて海岸線を砲撃した。これに対し、まだ残っていた日本軍の海岸砲が発砲し、1隻に命中弾をあたえた。しかし、この命中弾は不発弾であり、駆逐艦の航行に支障はなかった[26]。そして駆逐艦の掩護を受けながら、再び米軍の第1次上陸部隊は海岸を目指した。米軍は3個大隊の兵力を6波に分け、まず海兵隊員を乗せた第1波から第3波まではLVTで3分間隔で発進し、その後に戦車野砲等の重装備を積んだ第4波以降の舟艇群が続いた。各波の上陸地点は西から第1大隊は赤1区域(Red Beach 1)、第2大隊は赤2区域(Red Beach 2)、第3大隊は赤3区域(Red Beach 3)と分けられ、それぞれ担当する海岸の幅は約360mであった[26]

上陸地点の450m手前には珊瑚礁があった。その珊瑚礁に第1波の上陸部隊が近づいた時、日本軍守備隊は砲撃を開始し米軍に甚大な被害を与えた[26]。舟艇群に対し日本軍は海岸砲と機銃による攻撃を加え、ほとんどのLVT水陸両用車は海岸にたどり着く前に命中弾を受けた。難を逃れたLVTは1ヵ所に集まって珊瑚礁を乗り越えたが、海岸に辿り着いたLVTも損傷が激しく、それ以上は動けなくなった[26]

第4波以降の上陸部隊も続々と珊瑚礁に辿り着いたが、LVTではなく上陸用舟艇であったため、珊瑚礁を乗り越えることができなかった。珊瑚礁上の水深は60cmから90cmしかないのだが、上陸用舟艇は最低でも1.2mの水深がないと動くことができなかったからである[26]。そのため第4波以降の上陸部隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みた。しかし、珊瑚礁の先から海岸までの450mは再び深い海であり、重い装備のため海に沈む者が続出した。更に、そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えたため、海岸にたどりつけた者はほとんどいなかった[28]。わずかに海岸にたどり着いた者は奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めた。すでにこの時点で上陸した米兵約5000名のうちその3分の1は死傷していた[28]

上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官のデビット・シャウプ英語版大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請した[28]。要請に基づき、島は再び砲爆撃を受けた。この時の砲爆撃に際して、米軍は海岸の上陸部隊から日本軍陣地を無線電話で誘導し、命中精度が向上した[28]。同じ頃、ジュリアン・スミス師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した[28]

一方、二度目の艦砲射撃により日本軍の死傷者は急増していた。これを見た柴崎少将は戦闘司令所を負傷者の治療所に提供し、自らは参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移った[29]。しかし、その防空壕に直撃弾が命中し、柴崎少将は戦死した[29]

司令官を失った日本軍であったが、兵たちの士気は衰えることなく、守備隊はトーチカなどの陣地にこもって抵抗した。これに対し米軍は火炎放射器爆薬で対抗し、1つ1つのトーチカを潰して廻った。そのためこの日の夕方までに米軍は赤1区域の西半分の縦深140mと赤2区域と赤3区域の境界の桟橋を幅460m、縦深260mにわたって確保することに成功した[30]

米兵たちはこの日の夜、海岸に身を潜めていたが、日本軍は上陸した米軍に対して夜襲を行わなかった[30]。日本軍は、夜闇に紛れて破壊されたトーチカに兵員を送り込んで再編成を行い、海岸にあるLVTを奪って米兵の背後を確保し、海岸から約600mの所に座礁していた輸送船「斉田丸」の残骸に機銃を据え付け、翌朝の米軍の攻撃に備えた[30]

この日、タラワ島の周辺海域では第一次ギルバート沖航空戦が発生した。

11月22日

日本軍の士気を下げるために米軍機により投下された伝単

11月22日午前6時、米軍の増援部隊が海岸へ向けて進撃を開始した。これに対し、まだ健在であった日本軍の海岸砲や迫撃砲が砲撃を開始し、「斉田丸」からも機銃攻撃が行われた。この攻撃により、米軍は再び大損害を被った。特に「斉田丸」からの機銃攻撃は絶大な効果を挙げていた[31]

米軍は「斉田丸」に対し航空攻撃を行った。まず、F6F戦闘機4機が来襲し、機銃掃射を開始した。しかし、「斉田丸」を沈黙させることはできなかった[31]。続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機が3機来襲した。「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたが、「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった。この後もさらに「斉田丸」に対する攻撃は続けられ、今度は12機のF6F戦闘機が来襲した。12機の戦闘機は次々に爆弾を投下するものの「斉田丸」に直撃弾を与えられず、ようやく1発だけ命中した。だが、それでも「斉田丸」の機銃陣地は無傷であった[31]。これを見た米軍は工兵部隊による決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、高性能爆薬を仕掛けた。その高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こし、「斉田丸」の日本軍の機銃陣地は沈黙した[31]

「斉田丸」を制圧した後、午後3時に米軍の1個大隊は緑区域(Green beach)と呼称された西海岸に上陸を開始した[31]。この1個大隊は後から上陸した軽戦車中隊とともに島の南岸沿いを進撃した。そして、この日の終わりまでに赤1区域、赤2区域、赤3区域から上陸した米軍は南海岸に達し、日本軍の兵力を東西に分断することに成功した[31]

11月23日

11月23日朝、米軍は最後の1個大隊を緑区域に上陸させた[32]。これにより米軍は予定の兵力をすべて投入し、戦闘も収束しつつあったので、スミス師団長は陸上で指揮を執った。もっともこの時点でも、まだ赤1区域などで日本軍守備隊は抵抗していた[32]。米軍の激しい攻撃により守備隊は後退していき、東地区守備隊の生き残り約350名は飛行場の東端陣地に集結したが、そこでもさらに消耗していった[32]。分断された西地区でも守備隊が抵抗を続けていた。

そして、この日の夜、日本軍の残存守備隊約110名は最後の突撃を敢行した[32]。突入は3回にわたって行われ、1,2回目は2,30名、3回目の突入は50名で行われた[32]。だが、いずれも同一地点を攻撃したため、米軍の被害は軽微だった[32]。同じ頃、西地区守備隊約50名も同様に玉砕した[32]

この戦闘により、タラワの戦いは終結したのであった。

日本軍の救援作戦

一式陸上攻撃機

タラワの戦いの間、米軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこなっていたが、十分な成果を上げることは出来なかった。

まず連合艦隊は、上陸のあった21日に、ポンペイ島にいた陸軍甲支隊の派遣を決めた。軽巡3隻(那珂、五十鈴、長良)、駆逐艦2隻(雷、響)、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻(鳥海、鈴谷、熊野、筑摩)、軽巡1隻(能代)、駆逐艦5隻(早波、藤波、初月、野分舞風)からなる邀撃部隊を編成し、26日までにマーシャル諸島クェゼリンに進出させた[33]。しかし、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたために、甲支隊の派遣は中止された[34]

つぎに連合艦隊は潜水艦9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行った。その結果、24日に伊175潜田畑直艦長)がマキン沖で護衛空母リスカム・ベイの撃沈に成功したが、日本軍は引き換えに伊19など潜水艦6隻を失った。

また、マーシャル諸島のルオットから出撃した海軍航空隊による反撃も行われた[34]。21日にはギルバート沖の米機動部隊を目標としたギルバート諸島沖航空戦が展開され、軽空母インディペンデンスを大破させた。22日には陸攻9機、戦闘機39機が発進したが、天候不良のため途中で引き返した[34]。この攻撃隊は陸攻の魚雷爆弾に積み替えて、タラワ上陸部隊の昼間攻撃に再び発進したが、これも天候不良のため途中で引き返すこととなった[34]

22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着した。陸攻は米軍の上陸地点と思われる地点を二航過して爆弾8発を投下し、米軍は戦死者1名と戦傷者8名を出した[34]。しかし、米軍によればこの爆撃は日本軍陣地にも着弾してしまい、日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明である[34]

両軍の損害

戦闘により破壊された九五式軽戦車(米軍が撮影のために海岸へ移動したもの)
日本兵の遺体を見下ろすアメリカ海兵隊員

戦闘の結果、タラワ島を守備した日本軍は、文字通り全滅した。捕虜となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者などごく一部だけであった。河津幸英は日本側の死亡率が著しく高い理由を、米軍が、負傷したりして無抵抗の日本兵・軍属までも皆殺しにしたためであると推定している[35]。また、日本兵の中には捕虜になることを避けるため、自決する者もいた[32]米軍が日本兵を徹底的に殺害した背景として、日本軍が降伏せずに最後まで抵抗する傾向があったため、掃討戦を十分に行う必要があったからとする見方もある[要出典]

一方、米軍の人的損害も極めて大きなもので、恐怖のタラワ・マキンと呼ばれるほどであった。このことはアメリカ本国でも報道され、海軍や海兵隊は指揮に問題があったのではないかと批判を浴びた[36]。 また記録映画を公開したところ、米軍の重傷者や遺体の映像によって一時的に志願兵の応募率が低下したという騒動が起きた。

(作戦指導に批判の声が上がる一方で)「タラワ」の名はアメリカ国内に知れ渡った。それは、アメリカ国民の勇気と犠牲の精神を象徴するものとして、独立戦争中に持久戦に耐えたフォージ渓谷、テキサス独立戦争でメキシコ軍に対してアメリカ側独立軍が全滅したアラモ砦、第一次世界大戦の激戦地ベロー・ウッド英語版、そしてガダルカナル島と並んで、国民の記憶に長く留まる地名となったのだ — ユージーン・スレッジ/伊藤真[要曖昧さ回避]・曽田和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』40頁

本島の戦いおよびマキンの戦いでの苦戦は、米軍が水陸両用作戦の改良に力を入れるきっかけとなり、その経験は翌年のクェゼリンの戦いで生かされた。

日本軍[37]
  • 戦死者(軍属を含む) 約4,500名
  • 捕虜
    • 軍人 17名
    • 朝鮮出身軍属 129名
米軍[38][39]
  • 戦死・行方不明者 1,113名
  • 戦傷者 2,296名

  1. ^ 戦史叢書62 1973, p. 472
  2. ^ 戦史叢書62 1973, p. 471
  3. ^ 佐藤和正 2004, p. 66
  4. ^ 戦史叢書62 1973, p. 472
  5. ^ イアン・トール 2021, p. 2734
  6. ^ 佐藤和正 2004, p. 81
  7. ^ 戦史叢書62 1973, p. 455
  8. ^ 戦史叢書62 1973, p. 455
  9. ^ ブュエル 2000, p. 312
  10. ^ 佐藤和正 2004, p. 81
  11. ^ 佐藤和正 2004, p. 81
  12. ^ ヘンリー・ショー 1998, p. 197
  13. ^ 佐藤和正 2004, p. 81
  14. ^ ヘンリー・ショー 1998, p. 197
  15. ^ ブュエル 2000, p. 312
  16. ^ 戦史叢書62 1973, p. 455
  17. ^ ヘンリー・ショー 1998, p. 197
  18. ^ シャーロッド 1966, p. 338
  19. ^ a b c 佐藤 pp52-53
  20. ^ イアン・トールp136
  21. ^ a b c 佐藤 pp66-67
  22. ^ 佐藤 p68
  23. ^ a b 佐藤 p56
  24. ^ 佐藤 p57
  25. ^ a b c 佐藤 pp68-69
  26. ^ a b c d e f 佐藤 pp70-71
  27. ^ イアン・トールp152
  28. ^ a b c d e 佐藤 p72
  29. ^ a b 佐藤 pp73-74
  30. ^ a b c 佐藤 p75
  31. ^ a b c d e f 佐藤 pp76-77
  32. ^ a b c d e f g h 佐藤 pp79-81
  33. ^ #第八戦隊日誌(7)p.40『(四)十一月下旬ヨリ十二月上旬迄遊撃部隊〔4S(鳥海) 7S(鈴谷熊野)8S(筑摩)2sd(能代32dg(玉波欠))初月4dg(野分舞風)〕ハ「マーシャル」ニ進出、内南洋方面部隊ニ編入セラル』
  34. ^ a b c d e f 佐藤 pp78-79
  35. ^ 河津(2003年)、75頁。
  36. ^ イアン・トールp180
  37. ^ 佐藤和正 2004, p. 81
  38. ^ ヘンリー・ショー 1998, p. 197
  39. ^ 佐藤和正 2004, p. 81






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