シェーンブルンの和約 シェーンブルンの和約の概要

シェーンブルンの和約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 08:50 UTC 版)

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概要

シェーンブルンの和約によって領土を大きく減らしたオーストリア帝国(1812年)

イベリア半島戦争でのナポレオン1世のつまづきを目の当たりにしたオーストリアは、1809年4月9日にイギリス第五次対仏大同盟を結成してバイエルンへ侵攻し、1805年プレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。しかし、逆にナポレオンによってウィーンを占領され、7月5日から6日にかけて行われたヴァグラムの戦いにも敗北して、7月12日には停戦が成立した。

10月14日に締結された講和条約はオーストリアにとって屈辱的な内容であった。フランスにはトリエステダルマチアを、バイエルン王国にはザルツブルクチロルを、ワルシャワ公国には北部ガリツィアルブリンを割譲した。ロシア帝国に対しては、オーストリアと戦わなかったにもかかわらず、東部ガリツィアを割譲した。この一連の領土喪失によって、オーストリアは一時的に内陸国となってしまう。さらにオーストリアはこれらの領土と共に、全人口の6分の1に相当する400万人の人口を失った。そのうえ、陸軍の総兵力は15万人に制限され、8,500万フランの賠償金を課せられた。また、ジョゼフ・ボナパルトスペイン国王として承認するとともに、大陸封鎖令の遵守を改めて確約させられた。

参考文献

  • 本池立(著) 『ナポレオン―革命と戦争』、世界書院、1993年1月、ISBN 4792721113



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