ライン同盟、1806年 - 1813年
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「ヴュルテンベルク」の記事における「ライン同盟、1806年 - 1813年」の解説
1806年1月1日、公爵フリードリヒは王号を採用してヴュルテンベルク王フリードリヒ1世と称し、国法を廃止して古いヴュルテンベルク公国と新しく獲得した領土を統合した。その後、フリードリヒ1世は教会領を支配下におき、「ドイツ領邦の陪臣化」で独立を失った地域を手に入れた。同じ1806年、フリードリヒはライン同盟に参加し、さらに16万人が住む地域を獲得した。その少し後の1809年10月に結ばれたシェーンブルンの和約により、フリードリヒはさらに11万人が住む領域を入手した。この新領土を与えてくれたナポレオン1世に対する返礼として、フリードリヒはナポレオンのプロイセン、オーストリア、ロシアに対する遠征に多くのヴュルテンベルク臣民を参加させた。1812年のモスクワ遠征には1万6000人のヴュルテンベルク人が向かわされたが、帰国できたのは数百人であった。1813年10月のライプツィヒの戦いの後、変わり身の早いフリードリヒ1世は運に見放されたフランス皇帝を見捨て、1813年11月にフルダでオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒ侯爵と和約を結び、王号と獲得した新領土を保障してもらう見返りに、対仏大同盟軍に加わってフランスに軍を差し向けることを約束した。
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