ザ・スパイダース ザ・スパイダースの概要

ザ・スパイダース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 01:23 UTC 版)

ザ・スパイダース
基本情報
出身地 日本
ジャンル ロック
ポップス
歌謡曲
職業 グループ・サウンズ
活動期間 1961年 - 1970年
2017年
レーベル クラウンレコード
(1965年 - 1966年)
ビクターレコード
(1965年)
フィリップス・レコード

日本フォノグラム

(1966年 - 1970年)
事務所 スパイダクション(現:田辺エージェンシー
メンバー 田辺昭知ドラムス
加藤充ベース
かまやつひろしギター
大野克夫オルガン
井上孝之(ギター)
堺正章ボーカル
井上順(ボーカル)
前田富雄(ドラムス)
旧メンバー 日吉武
山田幸保
三科実
伊藤源雄
加瀬邦彦
ビートルズ
キンクス
アニマルズ
ゾンビーズ

当時の音楽の先端であったビートルズローリング・ストーンズなどブリティッシュ・ビート・グループに強く影響を受けていた。一方、軽妙なやりとりによるコミカルな要素も持った人気グループでもあった。田辺昭知は後に芸能事務所、田辺エージェンシーを設立し、社長となった[1]

メンバー

  • 田辺昭知(リーダー、ドラムス、「昭ちゃん」「昭坊」「ショーチャン」)
  • 加藤充(ベース、「カッペちゃん」「カッペ」)
  • かまやつひろし(ギター、ボーカル、「ムッシュ」「ムッシュー」「ひろし」)
  • 大野克夫オルガンスチール・ギター、「克夫ちゃん」「カツオ」)
  • 井上孝之(ギター、ボーカル、「イノヤン」「タカユキ」)
  • 堺正章(ボーカル、タンバリン、フルート、「マチャアキ」「栗」)」
  • 井上順(ボーカル、タンバリン、パーカッション、「順」「順ちゃん」「ジュン」)
  • 前田富雄(ドラムス、「トミー」)

使用楽器

  • 田辺昭知 ドラムス 「グレッチ」「パール・プレジデント」「ヤマハ」「ロジャース」」「スリンガーランド」その他多数
  • 加藤充 ベース「フェンダー・プレシジョンベース」「ヘフナー500/1」「フェンダー・ジャズベース」「ギブソン・サンダーバード」「フラマス・ゴールデンTVベース」他多数
  • かまやつひろし サイド・ギター 「フェンダー・ジャズマスター」「VOXマークⅥ」「リッケンバッカー345」「VOXスピットファイア」「フェンダー・エスクワイア」「エピフォン・キャバレロ」「ギブソンES125」他
  • 大野克夫 スチール・ギター 大野自身が設計した特製、「VOXコンチネンタル・オルガン」「ホーナー・ピアネット」「ハモンドL-100シリーズ」「コーラル・エレクトリック・シタール」
  • 井上孝之リード・ギター 「エピフォン・プロフェッショナル」「リッケンバッカー330」「フェンダー・エスクワイア・カスタム」「フェンダー・ストラトキャスター」「モズライト・モブロー」「ヤマハSA-5」「ヤマハSA-20」「ギブソンSG」他
  • 堺正章 フルート「ベスチャー・USA」
  • 井上順 タンバリン「ラディッグ

アンプは初期はフェンダー、その後岩瀬電子(VOICE)の特別製アンプを使用。ヨーロッパ遠征の頃、ヤマハから提供された楽器を多用するが、帰国の際、スペンサー・デイヴィス・グループに進呈して喜ばれたという。映画『ザ・スパイダースのバリ島珍道中』ではギター、ベース、アンプはグヤトーンから提供されていた。

来歴

結成

1961年(昭和36年)、スウィング・ウエストのドラマーであった田辺昭知によって結成。翌年春に田辺が才能と人柄を買っていたかまやつひろしにメンバー加入とメンバー探しを依頼。

同年4月5日、井上孝之が神戸から上京、直ぐに訪れた池袋のジャズ喫茶「ドラム」にてその日主演していたザ・スパイダースの演奏に感動、すぐさま加入を志願し認められた(その後5年間、孝之は田辺の家に居候することになる)。

この次に田辺が目をつけたのが、ホリプロから新人デビューした堺正章(田辺が松竹や新東宝の映画で注目していた)である。しかしその父・堺駿二の存在があったため、当初加入を持ちかけても色よい返事は貰えず、ついには田辺が堺の家に通い詰めることで加入を実現させる。

この頃もう一人のターゲットとなったのは孝之の知り合いでもあり、京都で名を馳せていた大野克夫で、すぐに田辺が関西へ飛び、これまで同様の情熱的な姿勢で加入を求めた(大野はバンド加入を承諾したが、当時在籍していたゲーリー石黒とサンズ・オブ・ウエストでの活動を優先したため、参加は翌1962年7月まで延びた[2])。ベースの欠員が出たため、1963年に大野のサンズ・オブ・ウエスト時代の先輩で、音楽活動を引退し寿司職人修行を始めていた加藤充が、田辺のスカウトにより加入[3]、それまでゲストシンガーだったかまやつも正式メンバーとなる。同年加瀬邦彦が、リズム・ギターとして2ヵ月間在籍していた時期もあった[注釈 1]

1964年2月にスパイダースに憧れていた井上順が参加。脱退した伊藤源雄の代わりに、3月には孝之がリード・ギター(技術的にはかまやつのほうが遥かに優れていたが、孝之のテクニックを向上させるために敢えてリード・ギターのポジションへと置いた[4])に転向したことで、後に「グループ・サウンズ」と呼ばれ、人気を博す時代のメンバー7人体勢が整う。

名付け親は、かまやつの父で当時の日本ジャズ界では有名なシンガーであったティーブ・釜萢であり、由来は「蜘蛛の巣の様に世界を席巻する」という想いを込め命名。結成当初はラウンジ・ミュージックを嗜好しながら、歌手のバック・ミュージシャンとしても活動していた。

エピソード

福澤幸雄との関連性においてかまやつひろしはこう振り返る。「幸雄は8人目のスパイダースと言われていたからね。衣装や踊りにもアドバイスをもらっていたし。その幸雄が突然死んじゃったんで、どこかでやる気がなくなっちゃったというのもあったな」[5]

幸雄は音楽やダンスの流行の情報もよく教えてくれて、それでスパイダースの前4人(堺正章、井上順、井上堯之、かまやつ)は踊るようになったんです。コスチュームも「今、ミリタリーだ」とか「全員同じ格好をしないで一人一人個性に合わせたほうがいい」とか。ボクがスパイダースに入って幸雄が死ぬまでの6年間、あの頃はそんな話ばっかりしてました。[6]

外国志向

同じ頃にビートルズ旋風が世界的な規模で巻き起こり、そんな彼らに触発されたかまやつは、田辺とともにビート・グループとしてバンドを再編成、いち早く彼らの楽曲をコピーすることで、マージー・ビートやブリティッシュ・ビートと呼ばれたサウンドへの造詣を深めてゆく。

その過程の中、来日した外国アーティストの前座やバック演奏をこなすことが多くなり、バックでは1964年4月のピーター&ゴードン、前座では1965年1月と9月のザ・ベンチャーズ、6月のアニマルズ(前座にも拘らず「ブーン・ブーン」を歌ってしまい[注釈 3]叱られている)、8月のザ・サファリーズ、ハニーカムズ、1966年1月のザ・ビーチ・ボーイズで務めている。

1966年10月には所属レーベルのフィリップス本社(オランダ)への表敬訪問を兼ねてヨーロッパにプロモート旅行に出かけ、欧州のテレビ番組への出演、またハンブルクのスタークラブ Star-Clubコペンハーゲンのヒットハウスなど現地のクラブでの演奏も果たした。

全盛期

ザ・スパイダース(1966)

1965年5月に、かまやつ作詞・作曲の「フリフリ」でクラウンからシングルデビューし、当時としては斬新な音楽性に加え、ミリタリー・ルックをいち早く取り入れるセンスのよさ、そしてコミカルタッチな演出をも得意とする実力派バンドとして評価される[注釈 4]

1966年に入り、2月「ノー・ノー・ボーイ」、4月「ヘイ・ボーイ」、7月「サマー・ガール」とブリティッシュ・ビートの影響を大きく受けた、かまやつ作品によるシングルが発売され、5月には日劇ウエスタンカーニバルに初出場するものの、未だに青春歌謡ムード歌謡の勢いが強かったために芳しいセールスへと繋がらなかった。しかし9月発売の浜口庫之助作品「夕陽が泣いている」が公称120万枚を超える大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がる。なお、3月にはオランダ・フィリップスから「フリ・フリ'66」、4月にはアメリカ・フィリップスから「ノー・ノー・ボーイ」、10月にはオランダ、11月にはイギリスで「Sad sunset(夕陽が泣いている)」が発売されている。

同年5月、当時所属していたホリプロダクション(現:ホリプロ)の事務所内にほんの僅かな一角を間借りする形で、田辺がスパイダクション(Spi Duction、田辺エージェンシーの前身)を設立、セルフマネージメントを開始する。

1967年は、3月「太陽の翼」、5月に再び浜口庫之助作品である「風が泣いている」(公称70万枚)と順調なセールスを続け、5月には映画『夕陽が泣いている』、8月には初主演映画となる『ザ・スパイダースのゴー・ゴー・向こう見ず作戦』が公開されるなど順風満帆と思えたが、ライバルグループのジャッキー吉川とブルーコメッツが「ブルー・シャトウ」で150万枚の大ヒットを記録(同年の日本レコード大賞受賞)。さらに同年夏には、ザ・タイガースザ・カーナビーツザ・ジャガーズなどの10代後半 - 20代前半の若手グループが次々と台頭してきたことでGS(グループサウンズ)ブームが巻き起こり、ザ・スパイダース、ブルーコメッツといった、当時としては年齢層の高いグループが徐々に窮地に立たされていく転機も迎えていた。

ソロ活動の増加

1969年の夏頃から観客数の落ち込みが進み、公演会場ではメンバー全員が仮装して臨む(井上順談)といった出来事もあり、さらに個々のメンバーの人気が高かったこともあり、収益面などの理由からソロ活動が優先されることになった。堺が1970年2月にTBS系ドラマ『時間ですよ』に出演したことを皮切りに、同月にはかまやつがソロ・アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』、4月には堺がシングル「明日を祈る」(堺正章とザ・スパイダース名義)、順がシングル「人生はそんなくり返し」(井上順とザ・スパイダース名義)で発売する。

この影響で堺と順のスケジュールが過密となったこともあり、前年から若干程度始動していた「スパイダース5/7」(スパイダースから堺、順を除いた編成)としての活動も多くなる。また、5月には田辺が自身の経営するスパイダクションでのマネージメント業務に専念するため、同月末で現役を引退することを表明し、6月にバンドボーイであった前田富雄が2代目ドラマーとなった。

解散

9月にはシングル「エレクトリックおばあちゃん」が発売されるもヒットには程遠く、11月にかまやつが脱退。これが引き金となり、年内の解散が発表された。なお、1971年1月の第43回日劇ウエスタンカーニバルを最後のステージとして、同じく前年12月末に解散した弟分グループ、ザ・テンプターズ萩原健一と共に出演したが、これは「再編成」という形で行われた。


注釈

  1. ^ 常日頃から田辺より「いずれリード・ギターにしてやるから!」と言われるも希薄な気配を感じ取り、とある日のジャズ喫茶出演時、田辺のドラム・ソロの真最中に「お世話になりましたっ!」とギターを抱え失踪。寺内タケシとブルージーンズを経てザ・ワイルドワンズ結成の運びとなる(「強行手段に出なければ辞めさせてもらえなかったので苦渋の策だった」とTVで語っている)。
  2. ^ 1985〜1987年の何れかに読売テレビスター爆笑Q&A』でGS特集の際に出演したかまやつひろしが詳細を語っていた。
  3. ^ スパイダースはこの曲をアニマルズのアレンジを元にカバーしていたため、出番と勘違いしたヴォーカルのエリック・バードンがステージへ飛び出して来そうになったという[7]
  4. ^ 「フリフリ」のジャケット写真にかまやつが写っていないが、これはかまやつが撮影時に遅刻をしたためである。また、かまやつが到着してからも写真を撮っているが、何故か6人の写真がジャケットに採用された。

出典

  1. ^ [1]
  2. ^ 大野克夫先生インタビュー:日本テレビ音楽株式会社
  3. ^ ザ・セント・オー・ジーンズホームページ 加藤充インタビュー
  4. ^ 日本の60年代ロックのすべて:COMPLETE:ロカビリー登場からGS革命まで 黒沢進シンコーミュージックエンタテイメント 2008年3月刊 かまやつひろしインタビュー 220頁[注釈 2]
  5. ^ 「贅沢な人生。」セオリーvol.1、講談社、2009年1月、120頁。
  6. ^ 「贅沢な人生。」セオリーvol.1、講談社、2009年1月、123頁。
  7. ^ フォーエヴァーマガジン VOL.5 1983年9月刊 かまやつひろしインタビュー 95頁
  8. ^ https://www.nikkatsu.com/movie/20543.html


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