オフコース エピソード

オフコース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 14:19 UTC 版)

エピソード

  • “オフコース (OFF COURSE)”という名前はコンサートのためにいつも中心となって動く聖光野球部OBが作った草野球チームの名前が“勝ってof course”、“of course 勝つ”という意味で“OF COURSE”だったことから。コンサートを始めてなにか名前をつけるということで“調子っ外れ”とひっかけて“OFF COURSE (THE OFF? COURSE)”にしたという[8]
  • さよなら」、「Yes-No」、「YES-YES-YES」、「君が、嘘を、ついた」などのヒットで当時、TBSの人気番組『ザ・ベストテン』に何度となくランクインしたが、この番組を含むすべての音楽番組には出演しなかったため、「オフコースの皆さんはコンサート活動に専念するため…」とお詫びのお辞儀をする久米宏の姿が毎週のように見られた。[独自研究?]「YES-YES-YES」では一度、レコーディング・スタジオから中継で小田が単独でコメントを出したことがある。その一方で『笑っていいとも』と『オレたちひょうきん族』には出演したので、フジテレビの音楽番組担当プロデューサーは、バラエティ担当プロデューサーを羨ましがったという。[要出典]
  • オリコンシングルチャートでは『さよなら』、『君が、嘘を、ついた』が最高2位止まり、アルバムチャートでは『We are』と『over』が1位になっている。なお、小田が作った曲のシングルチャート1位は、ソロのシンガーソングライターとしてデビュー後、『ラブ・ストーリーは突然に』で達成した。
  • 八曜社刊『Three and Two』でのインタビュー[要文献特定詳細情報]で小田は「去年初めて『銀河鉄道999』の(映画)音楽をやらないかって話があってね、さんざん考えた末、やろうっていう気になったら映画会社とかレコード会社の問題とか、いろいろいきさつがあって、結局ゴダイゴということになっちゃって」と、実現しなかったいきさつを語っている。
  • ’80年11月に開催されたコンサート・ツアー“We are”は、日本武道館での4日間公演も含め、メンバーとスタッフが一丸となって力を発揮した。最終地である仙台公演のラスト、「愛を止めないで」のエンディングにさしかかった瞬間、舞台の袖から沢山のカーネーションがスタッフの手によって演奏中のメンバーに向かって投げられた。後に小田は「僕たちの制作するものの中で特に、レコーディングとステージに関しては何がどうなっているか知らぬ部分はない。だから、僕らの想像を超えて何かが創造されるということは全く考えたことがなかった。しかしそれは起こった。他人が聞けば他愛のないシャレに過ぎないかも知れないが、それが僕にとっては今度のアルバム・レコーディング、そしてこのコンサート・ツアーのすべてが覆されるほどの衝撃だった。だから僕は『ヤラレタ…』と思ったのだった。そして、あんなことが起こったのが心から嬉しかった」[37] と語っている。ベスト・アルバムSELECTION 1978-81』の中袋に掲載されている下段の写真は、その時の様子を捉えたもの。
  • I LOVE YOU」のエンディングのコーラスは当初、少年合唱団によるテイクを予定していたが、結果的にはレコーディングスタジオ近くの公園にいた子供たちやその親を迎え、さらにそこにメンバーやスタッフも加わってレコーディングしたテイクに変更された。また、この曲はアルバムI LOVE YOU』収録の際、ビル・シュネーの友人がジョン・レノン死亡の新聞記事をニュース調に読み上げたナレーションが間奏部に挿入された[38][要出典]
  • YES-YES-YES」に女性の声(ねぇ、私のこと好き?)が入っていると、テレビのオカルト番組で取り上げられることがあるが、この声の主はレコーディングのとき、同じ録音スタジオを使っていた“レモン・トリー”という男女デュオの女性である合沢尚子で、意図的に収録されていることが当時の音楽雑誌『ギターブックGB』(ソニー・マガジンズ)の記事[要文献特定詳細情報]に掲載されている。
  • 1982年の日本武道館10日間公演中の6月23日、ツアーの追加公演という形で横浜スタジアムでのコンサートが8月に計画されたが、7月5日に鈴木からの「区切りをつけたい」との申し入れにより中止となった。横浜スタジアム公演は後に小田がソロとして1992年8月29日、 30日の“MY HOME TOWN”で実現させている。
  • 僕等の時代」は1987年から1991年まで、名古屋テレビオープニングBGMとして使われた。
  • 「僕等の時代」の詞がオフコースの写真・プロフィールと共に、教育出版発行の中学校国語教科書『伝え合う言葉』に採用されている。[要出典]
  • 言葉にできない」のフェードアウトで曲が終わる直前に、当時の解散を示唆する「We are」「over」「thank you」のナレーションが収録されている。[要出典]
  • シングルのA面はほとんどが小田の曲だが、最初から小田の作品がA面と決められていたわけではなく、メンバー(ほとんどは小田か鈴木)が曲を持ち寄り、コンペティションを行った結果だった。このことは小田が『たしかなこと』[39] で、鈴木が自身のホームページでのファンからの質問への回答で、それぞれ異口同音に語っている。結果として小田の曲が多くA面に採用されたことについて、小田は「ヤス(鈴木)に対して申し訳ないと思っていた」、鈴木は「そういう結果だから仕方ないと思っていた」と語っている。鈴木はよく自身のオフコース時代を“B面人生”と自嘲したりしたことがあったが、A面の選ばれ方自体には特にわだかまりは無いと思われる。[独自研究?]
  • 全米デビューへの足がかりの一環として『Back Streets of Tokyo』が制作された1985年以前に、全米デビューを打診されていたことがある。松尾によれば、『We are』と『over』を聴いてオフコースを気に入ったBS&Tの元メンバーで当時キャピトル・レコードのプロデューサーだったBobby Colombyから「きかせて」と「せつなくて」で是非アメリカ・デビューを、との話をもらったという。すぐに英詞の仮歌によるデモテープが制作されたものの、直後に鈴木の離籍とグループの解散問題が浮上したため、それきりになったという[40]

注釈

  1. ^ その数少ないテレビ出演も歌番組ではなくオレたちひょうきん族等のバラエティ番組でファンを驚かせた。[要出典]
  2. ^ 大間はSoul & Beat Unit 天地人を2003年に結成。
  3. ^ 小田は2004年12月25日放送の『クリスマスの約束』でオフコースを取り上げているが、それは元メンバーに対して「(オフコースは)終わった」、「オフコース(の再結成)はもうないよ」というメッセージだという旨の発言をし、言葉をつまらせている。また、2004年10 - 12月放送の『風のようにうたが流れていた』では、「オフコースは学校のようなもの。学校はいずれ卒業する時が来る」と語っている。[要出典]鈴木の考えは鈴木康博の項参照。
  4. ^ 大阪の中学時代の同級生だった廣田龍人(リッキー)(ジョン担当)と清水仁(ポール担当)を中心に1969年結成されたビートルズコピーバンド。メンバーは廣田・清水のほか、ダンスホールのオーディションに彼らと共に来ていた他のバンドの川端孝博(ジョージ担当)と、廣田の弟の友人の城間正博(リンゴ担当)。1973年9月20日にアルバム『MEET THE BAD BOYS』 (LP:ETP-8269)でデビュー、同年10月20日にシングル『ビートルズが教えてくれた ⁄ チークを踊ろう』 (EP:ETP-2924)をリリース。1975年8月20日に2枚目のシングル『僕と踊ろう ⁄ アイツのせい』 (EP:ETP-20166)をリリース後、同年冬に解散。
  5. ^ 当初は本編の前座的な意味合いで午前中に登場、「グリーン・スリーブス」や「イエロー・バード」などフォークのヒット曲を演奏し歌ったが評判となり、閉会式の前にアンコールでステージに立った。このとき味わった喜びが、その後の小田・鈴木・地主の音楽を通じての交流に繋がった。[要出典]
  6. ^ 「そこなら十分に受かるだろう」と言われていたことから高校三年生の時、千葉大学医学部を受験するつもりで、キャンパスを見に行った。しかし、校舎、教室、白衣を着た学生たちの雰囲気が暗かったことから、志望を変えた[6]
  7. ^ 「西花苑」は、現:仙台市青葉区西花苑にあった遊園地。1963年(昭和38年)から昭和40年代まで存続し、小西造園が運営していた。ヘルスセンター(南欧風ジャングル大浴場・200畳の大広間)、花のコーナー(温室・花壇・熱帯植物園)、子供用の遊具などで構成されていた。仙台地区予選は温室で開催された。
  8. ^ 仙台地区からの出場は、関東地区から出場すれば非常に競争が激しいだろうという計算もあってのことだったが、実際には関東地区よりも仙台地区のほうがレベルが高かった。申し込みに行くと早速、係員に全国大会までの日程を尋ねた。合計四回行われる大会について詳しく聞いてゆくと、係員は途中からまるで真剣に取り合わなかったという。前年の「第3回 FOLK SONGの…」を最後に解散と考えていたが、もうひとつ、客観的な尺度での評価を受けたいとの希望からの出場だった。その一方で、「うまくすれば全国大会まで進めるかもしれない」という自信もあった。[要出典]
  9. ^ 第1位は赤い鳥
  10. ^ この時のレパートリーは「One Boy」(ミュージカル『バーディー・バーディー』挿入歌)と「Jane Jane」(ピーター・ポール&マリー)、小田は最優秀歌唱賞を受賞。
  11. ^ 自分たちの演奏には絶対の自信があり、優勝して「ジ・オフ・コース」とアマチュア音楽活動を終え社会人になるつもりだったが、2位にとどまったことで小田・鈴木は気持ちに決着がつかなくなった。鈴木はミュージシャンになることを親に反対されていたが、これで音楽で生きて行く決心が固まり、内定を取っていた安川電機への就職を辞退した。[要出典]
  12. ^ パシフィック・エンタープライズが、プロダクション業務以外の事業を、並行して行うことに決まり、それまでも事務所の方針に疑問を感じることがあったミュージシャン達は、これを機に全員事務所から脱退した[9]。加藤和彦、杉田二郎はそれぞれ独立事務所を設立することになり、オフコースは両方から誘いを受けた。加藤の事務所はプロダクションとPA会社“ギンガム”を併合したもので音楽的に魅力があった。片や杉田には一緒にコンサートを回るうちに人間的に惹かれ結局、杉田の「俺について来い」の一言で意を決した[9]。後に小田は、加藤にそう決まったことを報告したら、「二郎のところもいいけど、音楽、全然違うじゃん」と言ったのを覚えているという[10]
  13. ^ 東芝レコード所属アーティストによるイベント・コンサート。出演:トワ・エ・モワ、イースト、オフ・コース、アリスシュリークス、はしだのりひことエンドレス、ザ・ラニアルズチューリップりりィ、杉田二郎、加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド、赤い鳥。
  14. ^ このコンサートの数日前に新曲「忘れ雪」(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)が発売されたが、自分たちが望んでリリースした曲ではないとの理由で演奏しなかった。この出来事はファンの間で“「忘れ雪」事件”と呼ばれるようになり[12]、この曲はその後も演奏されることはなかった。
  15. ^ 以前にレギュラー出演していたラジオの公開番組からヒントを得た、当時のマネージャー上野博の発案で計画されたシリーズ・コンサート。ひと味違った人たちと触れ合う中で何か新鮮なものを見つけ、色彩の豊かなコンサートにしようという目的で[13]、この年に5回、全部で計8回開かれた。
  16. ^ 聖光祭実行委員会のイベント担当者が依頼したところ、音響設備だけ手配すればとの条件で、ノーギャラでの出演をOKした。このコンサートの開始前には、オフコースの2人と同期にあたる当時の世界史担当の斉藤教諭と在校生との座談会を実施。座談会には、10月4日の“秋ゆく街でII”で「オフコース万歳」と叫んだ声がライブ・アルバムにも収録された当時の現役聖光生も出演した。コンサート終了後、在校生が花束贈呈とともにステージ上で「オフコース万歳」と叫んだ。[要出典]
  17. ^ 清水の参加に、鈴木は「最初は俺は、ヒトシさんがメンバーになることに反対していたんだよ(笑)。というのもさ、それまで(小泉)良司にベースをやってもらっていたんだけど、彼の方が器用で、テクニック的にもうまかったからね、そういう音楽的な意味でさ、ヒトシじゃない方がいいんじゃないかと思っていたわけ(笑)。でも小田が「絶対オフコースにはヒトシのような人柄の人間が必要だ。ヒトシの方が絶対いい」って引き下がらないんでね(笑)、多少納得しきれないところもあったんだけど、まあいいだろうってことになった。でも、やっぱり人間的な雰囲気はすごくよかったからね、結果的には小田の言う通りになった(笑)」[14] と、後に語っている。
  18. ^ “全国60か所”というのはというのは県庁所在地クラスの都市40か所以上を回る、一流の証だという。[要出典][誰によって?]
  19. ^ 曲目:季節は流れて - やさしさにさようなら - 眠れぬ夜 - 恋を抱きしめよう - 通り過ぎた夜 - あなたのすべて - 新しい門出 - ひとりで生きてゆければ - 潮の香り - 秋の気配 - California Dreamin' - 想い出のサンフランシスコ - 君を待つ渚 - 愛の唄 - 老人のつぶやき - HERO - 心は気紛れ - ランナウェイ - のがすなチャンスを - 愛を止めないで - (アンコール) 風に吹かれて - 眠れぬ夜 - ランナウェイ - さわやかな朝を迎えるために - のがすなチャンスを - いつもいつも[16]
  20. ^ 曲目:愛を止めないで - 眠れぬ夜 - おまえもひとり - こころは気紛れ - 愛の唄 - Today - A Soalin' - 僕の贈りもの - でももう花はいらない - Day By Day - 秋の気配 - 風に吹かれて - Yes-No - 一億の夜を越えて - のがすなチャンスを - 私の願い - きかせて - 僕等の時代 - 時に愛は[18]
  21. ^ 他に松任谷由実水の中のASIAへ』、大滝詠一A LONG VACATION』も同賞を受賞。
  22. ^ それまでテレビメディアの取材をほとんど受けなかったため、当時異例の番組だった。アルバム『over』のレコーディング・リハーサル初日(8月16日)から終了(10月30日)までの約2か月半を密着取材。レコーディングの様子のほか、2月10日の日本武道館公演の模様も放送された。[要出典]
  23. ^ 最終日には小田が「言葉にできない」で感極まり、歌に詰まっている。[要出典]
  24. ^ ストーリーは1982年夏の武道館コンサート後に解散し、それぞれの道を歩んでいたメンバーが5年後の1987年夏に無理矢理再結成させられ、9月21日に再び武道館でコンサートを行うというもの。6月30日の武道館のライヴ映像がダイジェストで使われた。共演は謎の男役に中村敦夫、再結成についてコメントをする近藤真彦(声は田原俊彦)・具志堅用高小森和子(の物真似)で片岡鶴太郎がそれぞれ出演したほか、メンバーを連れ去る2人組としてスタッフの富樫要と柿崎譲二も出演した)。
  25. ^ 当時の彼らのプライベート・スタジオ名にちなんで“GETTING BETTER DEMO”と題されたこのときのレコーディング曲は「SAYONARA(さよなら)」、「CITY NIGHTS(哀しいくらい)」、「YES-YES-YES (YES-YES-YES)」、「QUIET AS THE NIGHT(きかせて)」、「THE LITTLE ONES(生まれ来る子供たちのために)」、「THE PRICE OF FAME(NEXTのテーマ〜僕等がいた)」、「MYSTERY IN MY LIFE(哀しき街)」、「IT'S NOT MY AFFAIR(せつなくて)」、「GOOD TO HAVE YOU HERE (Yes-No)」の計9曲。[要出典]
  26. ^ タモリは、自身のラジオ番組でオフコースについて「見せかけだけの優しさ」と批判し、「フォークソングは暗くて嫌い」とも発言していた[22]これによりオフコースのファンから所属事務所へカミソリ入りの脅迫状が届くまでになったが、小田本人はタモリのことは「けっこう好き」と雑誌『ギターブック』でファンからの質問に回答し、このときの出演も簡単にOKした。[要出典]
  27. ^ 曲目:おまえが欲しいだけ(吉田拓郎) - Yes-No
  28. ^ ライブの開催について、後に小田は「俺は、“本当にスタッフのみんながやりたいって言ってるのか?”って、そう尋ねたのさ。そしたら、“そうだ。やりたいと、言ってる”って。“じゃあ、やろう”。この時は、メンバーの間でのわだかまりも、すでになかった」[23] と、インタビューで答えていた。
  29. ^ 曲目:緑の日々 - 君住む街へ - LAST NIGHT - 夏の日 - こころは気紛れ - 逢いたい - 時に愛は - 言葉にできない - きかせて - たそがれ - 夏の別れ - IT'S ALL RIGHT (ANYTHING FOR YOU) - She's so wonderful - 君が、嘘を、ついた - ぜんまいじかけの嘘 - Tiny Pretty Girl - YES-YES-YES - 生まれ来る子供たちのために - 君住む街へ - (アンコール)Yes-No - 眠れぬ夜 - 愛を止めないで - いつもいつも[24]
  30. ^ 小田の弾き語りソロでパフォーマンスされた8曲目の「言葉にできない」の曲中、感極まったのか突然小田のボーカルが途絶えた(中略)。音だけが流れてゆく。会場から声がとぶ。それはやがて大きな拍手となって、ステージの小田に降り注ぐ。その声援に気を取り直したかのように歌い終えた小田は、一言「だから歌いたくなかったんだよね、この歌は」と、誰に語りかける風でもなく、ポツリとつぶやいた[25]
  31. ^ 小田にとってグループ解散後初の、元メンバーの楽曲へのレコーディング参加作品。

出典

  1. ^ a b c Eremenko, Alexey. Off Course | Biography & History - オールミュージック. 2020年6月20日閲覧。
  2. ^ a b オフコース(オフコース)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2021年1月13日閲覧。
  3. ^ 田中隆信 (2020年5月17日). “デビューから50年!オフコースの歩みと伝説の武道館コンサート”. ホミニス (スカパーJSAT). https://hominis.media/category/musician/post5768/ 2020年6月27日閲覧。 
  4. ^ a b c d e NHK教育若い広場』「オフコースの世界」(1982年1月3日放送)[出典無効]
  5. ^ a b c d e f g “バイオグラフィー”. オフコース (UNIVERSAL MUSIC LLC). https://sp.universal-music.co.jp/offcourse/bio/ 2021年1月23日閲覧。 
  6. ^ 『Give up オフコース・ストーリー』株式会社飛鳥新社、1982年8月1日、137-166頁。全国書誌番号:83035915。"第四章 グッドバイ"。 
  7. ^ “ドラマ『OUR HOUSE』主題歌「愛を止めないで」のオフコース、“OFF COURSE”の“F”はなぜ2つなのか”. BARKS (ジャパンミュージックネットワーク). (2016年4月20日). https://www.barks.jp/news/?id=1000126379 2020年6月27日閲覧。 
  8. ^ a b 『はじめの一歩(1)』株式会社サンリオ、1983年8月15日、56-70頁。全国書誌番号:84007237。"第一章 FOLK SONGの…"。 
  9. ^ a b 『はじめの一歩(1)』株式会社サンリオ、1983年8月15日、113-114頁。全国書誌番号:84007237。"第二章 サブミュージック・パブリシャーオフィス"。 
  10. ^ 『YES-NO 小田和正ヒストリー』株式会社角川書店、1998年12月18日、78-111頁。ISBN 4-04-883529-7。"第4章 建築への決別"。 
  11. ^ 「Best of GB」『別冊ギターブック Off Course -Now The Time』、株式会社CBS・ソニー出版、1982年7月15日、179-199頁。 
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  15. ^ a b 『はじめの一歩(1)』株式会社サンリオ、1983年8月15日、259-268頁。全国書誌番号:84007237。"第四章 コンサート・ツアー"。 
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  17. ^ スージー鈴木『1979年の歌謡曲』彩流社、121頁。ISBN 4-7791-7038-9 
  18. ^ 『はじめの一歩(1)』株式会社サンリオ、1983年8月15日、246-258頁。全国書誌番号:84007237。"第四章 一九七七〜七八年"。 
  19. ^ 活動〜日本レコード大賞〜”. 日本作曲家協会. 2020年6月27日閲覧。
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  26. ^ オリコン週間 CDアルバムランキング 2006年12月18日〜2006年12月24日”. ORICON STYLE. オリコン (2007年1月1日). 2016年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月15日閲覧。
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  38. ^ 『月刊カドカワ』角川書店 VOL.9 NO.6(1991年)雑誌コード13533-6 総力特集小田和正 [いい時も悪い時も] ”本人自身による全作品解説” 68頁 2段落目
  39. ^ 小貫信昭『たしかなこと 小田和正インタビュー』ソニー・マガジンズ、2005年3月18日。ISBN 4-7897-2511-1 [要ページ番号]
  40. ^ Gallery-Untitled 松尾一彦公式サイト内BBS “2677 Re:2674 I always cry at christmas。”投稿日:2009/12/25(Fri) 18:15[リンク切れ]






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