エジプトの歴史
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マムルーク朝
バフリー・マムルーク朝
サラーフッディーンの息子たちによって分割されたアイユーブ朝は緩やかな連合国家を形成したが、相互の利害は必ずしも一致せず、十字軍国家も巻き込んでの政争が行われた[400]。そして、ヨーロッパから襲来する十字軍はこの時期、エジプトを主たる攻撃目標とした。1217年から始まった第5回十字軍はエジプトの重要な港湾都市ダミエッタ(ディムヤート)を1219年に占領した[401][402]。エルサレムに入城した第6回十字軍(無血十字軍、1229年)を経て、第7回十字軍(1248年-1254年)を主導したフランス王ルイ9世が1249年にダミエッタを再占領した[401][403]。
戦いの最中、アイユーブ朝のスルターンとしてカイロ政権を率いていたサーリフが陣中で病死(1249年)すると、妻のシャジャル・アッ=ドゥッルは軍の士気が崩壊するのを恐れ、夫が生きているかの如く振る舞って文書を発行し続けたという[404]。そしてメソポタミアからサーリフの前妻の息子トゥーラーン・シャー(在位:1249年-1250年)が帰国し、スルターンとなった[404][401]。サーリフが購入し組織したマムルーク軍団(バフリー・マムルーク軍団[注釈 30])とそれを指揮するバイバルスらによってフランス軍(第7回十字軍)は撃破され外敵の脅威は除かれたが、トゥーラーン・シャーは継母シャジャル・アッ=ドゥッルと折り合いが悪く、またバフリー・マムルーク軍団出身のアミール(将軍)たちを次々と逮捕して軍団の弱体化を図った[407]。このためバイバルスらは1250年5月、クーデターを起こしトゥーラーン・シャーを殺害するとともに、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルターンに推戴した[408]。これがマムルーク朝の成立であり、バフリー・マムルーク軍団が政権中枢を占めた初期マムルーク朝時代はバフリー・マムルーク朝とも呼ばれる。またシャジャル・アッ=ドゥッルはイスラーム史上初の女性のスルターンとなった[408][409]。しかし、女性スルターンの誕生には広範な反発が巻き起こり、情勢不穏を感じ取ったシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリー・マムルーク軍団の総司令官(アター・ベグ)イッズッディーン・アイバクと結婚し、即位から80日後にこの新たな夫にスルターン位を譲渡した[410]。
このマムルーク(奴隷)の政権に対しても、国土の正統な所有権を主張するアラブ遊牧民の反乱などが続き政権は安定しなかった[411]。最終的に転機が訪れたのは中央アジアから到来したフレグ率いるモンゴル軍がシリアに侵入した時であった。これを迎え撃つため、バイバルスの指揮でバフリー・マムルーク軍団がシリアに向かい、1260年9月にアイン・ジャールートの戦いで圧勝を収めた[411][412]。この勝利によってマムルーク朝は自らこそがイスラーム世界の真の防衛者であることを内外に強く印象付けることができた[411][412]。また、ファーティマ朝期から継続していたバグダードからの知識人や商人の流入により、マムルーク朝時代にはエジプトがアラブ世界の政治・文化をリードする中心地としての地位を確立していくこととなる。モンゴルに追われたアッバース朝のカリフもマムルーク朝に逃げ込みその庇護を受けた。これはイスラーム世界におけるバグダードからの重心の移動を象徴する出来事であった[413]。
紆余曲折を経つつも、マムルーク朝は血統原理による世襲ではなく、スルターン所有のマムルーク軍人の中から次代のスルターンを選抜するという特異な王位継承制度を発展させていった[414][415]。マムルークはその来歴やスルターン所有のマムルークかアミール(将軍)所有のマムルークか、といった要素によって区別された[414][415][416]。マムルークたちは幼い頃に奴隷商人を通じてスルターンやアミールに購入されて軍人養成所に入れられ、武芸学問の教育を受けた[414][415][416]。そして成人後には主人の下で軍人として職務についた[414][415][416]。彼らの養育費は全て主人の負担であり、主人とマムルークの関係は親子のようなものと見なされていた[414]。また、同じ軍人養成所を出た仲間たちは同窓意識(フシュダーシーヤ)を強く持ち、マムルーク軍人たちにとって同窓関係は強い意義を持った[414]。スルターン位を継ぐものは慣例としてスルターン所有のマムルークの中から選ばれ、たとえスルターンの子供であってもマムルークとして購入され軍人養成所を出たという経歴を持たないものはマムルーク軍団に入ることができず、スルターン位を継承することもできなかった[414]。このためスルターンの子弟は自由身分出身者やマムルーク子弟からなる格下のハルカ騎士団に所属するか、軍人以外の道を選ばなければならなかった[414]。
マムルーク朝の歴代スルターンはそれぞれに子飼いのマムルーク軍団を編成したため、時代の進展とともにマムルークとその子弟の人員は増大し13世紀末頃までにはイクターを付与する土地の枯渇が重大な問題として浮上するようになった[417]。13世紀末にアミールたちの傀儡として即位したスルターンのナースィル・ムハンマドをマンスール・ラージーン(フサーム)が排除し[418]、彼によって1298年に検知(ラージーン検知、フサーム検知)とイクターの再分配が試みられたが、スルターンのマムルーク軍団に著しく偏重した配分のために他のマムルーク軍団やハルカ騎士団の強い反発を受け、1299年にブルジー・マムルーク軍団の総司令官クルジー(Saif al-Din Kirji)らによって1299年にラージーンは殺害された[419]。ブルジー・マムルーク軍団は、スルターン・カラーウーン(在位:1279年-1290年)が編成したマムルーク軍団である[420][注釈 31]。その後、スルターン位を追われたナースィルが激しい権力闘争の中で玉座を奪還し、その後も退位と即位を繰り返して3度スルターンとなった。ナースィルもまたイクターの再分配を試み、史上名高いナースィル検知によって抜本的な税制改革を行うとともに、ジズヤ(人頭税)のイクターへの組み込みなどとあわせてバフリー・マムルーク朝の国家体制を一新した[421]。
ナースィルの改革によって統治は安定したが、14世紀半ばに入ると黒死病(ペスト)の記録的な流行がエジプトを襲った[422][423]。ペストはモンゴルによって中東地方に伝染したとも言われ、当時ユーラシア大陸の広い範囲で大流行となっていた。エジプトでも1347年の最初の流行以降、マムルーク朝の滅亡に至るまで、平均して8-9年に1度の割合でペストの流行が断続的に続き、総人口の4分の1から3分の1が失われたとされる[422][424]。激しい人口減は兵力の減衰、税収の低下という形でマムルーク朝の支配体制を揺さぶり、税収の分配をめぐってスルターンやアミール間での争いも激化した[425]。
ナースィルが1341年に死去した後、スルターン所有のマムルーク軍団から新スルターンを選定するというマムルーク朝の伝統は後退し、ナースィルの血族(ナースィルの父カラーウーンの子孫)がスルターン位に就くべきであるという意識が共有された[426]。しかし実態はスルターンは傀儡と化して実権は有力なアミールたちの手に握られるようになり[426]、やがて複数のアミールの合議による集団指導体制が形成された[427]。その後もアミールやマムルーク軍団たちの権力闘争はやむことはなく、クーデターや武力蜂起が繰り返された[428]。やがて、争いの中でブルジー・マムルーク軍団が優勢となり、その長バルクーク(在位:1382年-1389年、1390年-1399年)がスルターンに推戴された[425]。これによりカラーウーンの子孫たちによるスルターン位の継承も終わり、以降の時代はブルジー・マムルーク朝と呼ばれる[425]。また、このブルジー・マムルーク軍団の主要構成員がチェルケス人奴隷であったことから、チェルケス朝とも呼ばれる[425]。
ブルジー・マムルーク朝(チェルケス朝)
ブルジー・マムルーク朝の立役者となったバルクークが死去した後、マムルーク朝では再びクーデターと反乱が頻発し世相が安定しなかった[425]。バフリー朝時代からのペストの流行は変わらず猛威を振るっており、このことは政治・社会に大きな影響を与えた。スルターン・バルスバーイ(在位:1422年-1438年)はペストの流行を人々の罪に対する神の罰と解釈し、異教徒への課税の強化や戒律の厳格な実践を要求する一方、イクターからの税収減を補うために様々な代替制度が準備された。既に、バフリー・マムルーク朝末期から、有力なアミールたちは減少するイクターの収入を補填するために国家がハラージュ(地租)を徴収する直轄地を「賃借地」として手中に収め、私有地も含めて私財の獲得にまい進していた[429]。スルターンもまた元来はアミールの一員であったことから、このような私財を蓄え、広大な私領を抱えていった[430]。また、バルスバーイは香辛料、砂糖、織物などの専売制を敷き、スルターン自身がこれらの商品をヨーロッパ商人に割高の価格で販売することを定めたことが知られている[431][432]。ブルジー朝期においては、アミール時代からの資産獲得活動の一環として、スルターンという地位を利用しての国家資産からスルターン私財への転用も頻繁に行われた[433]。しかし、スルターン私財の多くが国家資産の転用となったことで、スルターン私財と国家資産の区別は曖昧となり、やがてスルターン私財はスルターン就任者が直接掌握する地位に付属した財源に発展していった[433]。
マムルーク朝が財政難や様々な政治的混乱を乗り切るべく大きな変化を遂げている最中、中東ではオスマン帝国が急速に勢力を拡大し、政治地図を大きく塗り替えつつあった。オスマン・ベイ(在位:1299年-1326年)率いる小集団から出発したオスマン帝国は、15世紀にはビザンツ帝国を滅ぼし(1453年)、アナトリア半島のテュルク系諸侯も次々と制圧するとともに、バルカン半島にも勢力を拡張していた。15世紀半ば以降、マムルーク朝支配下にあったシリアにオスマン帝国が侵入するようになり、その軍事的圧力はマムルーク朝の財政難を一層深刻化させた[434]。銃火器を多用するオスマン帝国軍に対抗するためにマムルーク朝でも銃砲の導入が進められたが、騎乗して戦うことを重視したマムルークたちがこれを忌避したため、新編の軍団や傭兵という形で銃砲を装備した歩兵軍団が整備された[435][434]。
また、マムルーク軍団は元来、軍事奉仕の引き換えに割り当てられたイクターによって武装を自弁するのが建前であったが、イクターによる収益の縮小はそれを不可能なものとし、この頃にはスルターンに集中した財政からの俸禄の支払いが重要になるとともに、軍事力は弱体化していた[436][437]。しかしこの俸禄も女性や子供を含む戦闘能力を持たないマムルーク子弟たちの間で単なる収入源として受給するものが増えていた[436]。スルターン、カーイトバーイ(在位:1468年-1496年)の時代には、シリア周辺における相次ぐオスマン帝国との戦闘によって巨額の遠征費用と俸禄が必要とされたため、財政を回復させるべく俸禄の支給対象者の軍事能力審査などの改革を行われ、財政再建が図られた[436][438]。
しかし、最終的にマムルーク朝はオスマン帝国の圧力に対抗することはできなかった。スルターン・ガウリー(在位:1501年-1516年)は1516年8月にシリアのアレッポ北方にあるマルジュ・ダービクの戦いでオスマン帝国のスルターン・セリム1世(在位:1512年-1520年)に敗れて戦死し、次いで最後の抵抗を試みたトゥーマーンバーイ(在位:1516年-1517年)もカイロ近郊で敗れ、1517年1月にオスマン帝国軍がカイロに入場した[437]。トゥーマーンバーイは逃亡を図ったが捕らえられて殺害され、ここにマムルーク朝が滅亡しエジプトはオスマン帝国の一属州となった[437]。
注釈
- ^ ナイル川が特定の祭祀場(神殿)を持たないことを言う[4]。
- ^ 最も有名なナイロメーターの1つであるエレファンティネ島のナイロメーターは古代エジプト時代に建造されたものだが、今日残されている目盛りはローマ時代のものであり、1870年代にもムハンマド・アリー朝の副王イスマーイール・パシャによって修復が行われている[12]。
- ^ エジプトはナイルの賜物というヘロドトスの記述は有名であるが、実際にはこのフレーズはヘロドトスに先立つヘカタイオスによるという[21]。またしばしばエジプトの富の源泉について語るフレーズとしても使用されるが、ヘロドトスの『歴史』においては、エジプトの国土の成り立ちを説明する地理的な文脈で使用されている。
- ^ 高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック(19世紀後半)による定義では打製石器と磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[30]。
- ^ ファイユーム地方ではかつてファイユームA文化とファイユームB文化と呼ばれた2つの文化が見つかっていた。20世紀前半には、ファイユーム地方の中心であるカルーン湖の水位が時代とともに低下し続けていたという仮定の下、高地で検出されたファイユームA文化の方が古いと考えられていた。しかしその後、ファイユームB文化の方が終末期旧石器時代に位置付けられるより古い文化であることが判明し、さらにファイユームA文化よりも新しい新たな新石器時代の文化も発見された。このため、かつてのファイユームB文化をカルーン文化(Qrunian)、ファイユームA文化をファイユーム文化(Faiyumian)、もう1つの新しい新石器時代の文化をモエリス文化(Moerian)とする新しい区分が提案された[46]。ただし、ファイユームA文化という名称も今なお使用されている[38]。
- ^ これらの時代区分の確実な定義、および年代を提示することはほとんど不可能である。現代においてこの問題について各学者個々人の分類が互いに完全に一致することはない。例示した分類はクレイトン[55]やスペンサー[56]、山花[57]、ドドソンおよびヒルトン[58]など、多数の学者が用いているもっとも一般的なものである。だが、それぞれの時代にどの王朝を位置付けるかについてはこれらの学者の間で一致しない。また編年についても時代が遡るほど年代設定の差は大きくなり、例えば初期王朝時代の開始は前3150年に置くクレイトン[59]やドドソン、ヒルトン[60]から、前3000年におく山花[61]まで多岐にわたる。そしてこれらの学者たち自身が編年について確実性がないことを付記するのが普通である。
- ^ ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な「国家」に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである[88]。詳細はノモスを参照。
- ^ 古王国の期間について主だった見解は以下の通りである。前2686年-前2181年[55][91][92]、前2680年-前2190年頃[90]、前2686年-前2160年頃(第8王朝まで)[56]、ドドソンおよびヒルトンはこの時代について遥かに遅い年代を採用しており、第3王朝の開始を前2520年に置き[60]、第6王朝の終焉を前2117年とし、第8王朝の滅亡年は率直に不明とする[93]。
- ^ いわゆる4.2kイベントによる4200年前の寒冷化は、エジプト固有のものではなく全地球規模のものであった。その程度をどのように評価するかについて差異はあるにせよ、日本の縄文時代[108]やメソポタミアなど[109]、各地における生活様式や集落形態の変化、政治的な変動などをこの出慣例化と結び付けるような研究が複数存在する。
- ^ 第1中間期の期間と、その時期に属する王朝についても各学者間の想定年代は基本的に一致しない。王朝については大きく第7王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類と[55][90][111]、第9王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類[56][58]に大別される。他、第7、第8王朝の分類について特に言及しないような場合もある[89]。フィネガンは第7王朝から第10王朝までを第1中間期として章立てをしているが、大枠としては前者のそれと変わらない[91]。編年については仮に第7王朝からとした場合、概ね前22世紀半ばから前21世紀半ばまでのおおよそ100年強が一般的となる。具体的な編年としては、前2181-前2040年[55]、前2145年頃-前2040年頃[111]、前2190年頃-前2020年頃[90]、前2181年-前2040年[91]、などがある。第9王朝からとする分類としては、第1中間期の編年は前2160年頃-前2040年頃[56]、開始年代不明-前2040年頃などがある[58]。これらの分類・編年の中から「正しいもの」を提示することはできない。
- ^ エジプト学における「アジア人」と言う用語は通常、パレスチナやレヴァント、シリアの住民を指す。
- ^ アジア系の首長はエジプト人たちから「ヘカウ・カスウト(異国の支配者たち)」と呼ばれ、彼らがエジプトで作り上げた勢力を指すヒクソスという名称はこれに由来する
- ^ プトレマイオス朝時代の神官で、今日でも使われる30あまりの古代エジプト王朝区分を確立したマネトは、『エジプト史』において第16王朝の王を「羊飼いたちの王32人」としており、このために第15王朝を大ヒクソス、第16王朝を小ヒクソスと表現して第16王朝もヒクソスの政権として扱われる場合もある[130]。ただし、マネトの『エジプト史』現存しておらず、引用によってのみ伝わり、セクストゥス・ユリウス・アフリカヌスによる引用では前述の通り「羊飼いたちの王32人」であるが、カエサレアのエウセビオスによる引用では「テーベの王5人」となっている。近年では第16王朝についてはテーベのエジプト第13王朝の後継政権であるとする説が唱えられており[135]、概説書においても第16王朝をテーベの政権とするようになっている[136]。詳細はエジプト第16王朝を参照。
- ^ 新王国時代に入るとエジプトの編年情報はかなり増加し、学者間の時間的差異も数十年程度まで縮小する。新王国時代を築いたイアフメス1世の即位年としては、前1570年[55]、前1552年[111][91]、前1549年[58]などがある。
- ^ ただし、近年では北レヴァントのルウィ語の象形文字碑文において「パリシュティン」などの地名が確認されており、語形の類似からペリシテ人の名を冠した地名であるとも考えられる[165]。
- ^ 伝統的にプトレマイオス1世から3世までの時代をこの王朝の最盛期とし、プトレマイオス4世以降徐々に衰退と縮小を続けたとするのが一般的なプトレマイオス朝に対する認識である[213][214]。しかしこのような認識には疑問も呈されている[213]。詳細はプトレマイオス朝を参照。
- ^ エジプト総督位が元老院議員ではなく騎士に委ねられた理由は不明瞭である。コルネリウス・タキトゥスやカッシウス・ディオらはローマ市の穀物供給におけるエジプトの重要性をその理由として説明しているが、エジプトがローマの主要穀物供給元になるのはウェスパシアヌス帝(在位:69年-79年)時代のことであり、アウグストゥス時代に当てはまらない[232]。従ってこの説明はタキトゥスとディオが自分の生きた時代の状況を、およそ100年前のアウグストゥス時代に投影したものであると考えられる[232]。新保良明はこれについて、元老院議員の多くが属州勤務のためにローマ市外での勤務を余儀なくされる中、規模の大きなエジプト属州に元老院議員の総督や行政官を置くには人的資源に対する圧迫が大きかったためであると想像している[230]。ローマ帝国の官僚機構は帝政初期において極めて小規模で、2世紀半ばにおいても総人員数は300名に満たなかった[233]。この小規模な官僚組織による統治を可能としていたのが、周辺村落を従える現地の都市を行政単位として内政全般を担当させるという属州統治のあり方であったが、自律的な都市が未発達であったエジプトではこのような運営の在り方は不可能であったという[230]。
- ^ ファラオの名を囲む枠
- ^ 当時のキリスト教においては神がいかなる存在であるか、ということが重要な論争点であり、第1回ニカイア公会議以来の議論によって4世紀末までには父(神)と子(キリスト)は同質であり、父・子・聖霊は一つの神格の三つの位格が現れたものであり、その本質において同一であるとする三位一体説が正統教義として確立されつつあった[268]。しかし、神とキリストの同一性が確立された後も、『聖書』に現れるキリストの「神性」と「人性」をどのように理解するかを巡っての論争が継続していた。
- ^ ビザンツ側はサーサーン朝との戦争の最中、キリスト教徒間の宗派的対立を解消すべく、新たにカルケドン信条と単性説を折衷させた単意論(キリストは神性と人性を有するが一つの行動様式を有する)を提唱してエジプトへの普及を図り、アレクサンドリア主教キュロスがその任務を委ねられていた。しかしエジプトの反カルケドン派の修道士たちは単意説をカルケドン信条と同一視してこれを拒否し、キュロスは厳しい弾圧によってこれに応じた[307]。キュロスの弾圧の過酷さのために、後世のコプト派キリスト教徒たちの伝承ではキュロスはキリスト教徒ではないとされた[305]。
- ^ 杉村によれば、642年にはビザンツ帝国のエジプト支配は放棄されていたが、『テオファネス年代記』には653/654年の項までアレクサンドリア主教位の在任期間が記載されており、ビザンツ帝国がエジプトを断念して完全に放棄したのは655年であるという[310]。
- ^ 683年にウマイヤ朝によるイスラーム共同体統治に反旗を翻したイブン・アッズバイルがカリフ位を宣言し、ムスリム支配地のほとんどの支配権を得たことで始まった第二次内乱(683年-692年)を経て、ウマイヤ家のマルワーン1世(在位:684年-685年)とアブド・アルマリク(在位:685年-705年)が支配権を確固たるものとし、以降のウマイヤ朝はマルワーンの子孫(マルワーン家)出身のカリフによって統治されていくことになる[319]。その後エジプトの支配はマルワーン1世の息子アブドゥルアズィーズに委ねられた[320]
- ^ 厳密には、ジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)といった異教徒に対する課税がエジプト征服当初の段階で後世のように体系化されていたわけではない。初期イスラーム時代にはこれらの用語の定義はかなり曖昧で、「頭のハラージュ」や「土地のジズヤ」などの用語も見られ、単なる「貢納」という意味合いでも使用されていた[329]。さらにイスラームの征服後にギリシア語で書かれたエジプトの税務文書では、ジズヤのギリシア語訳としてディモウスタ(δημόστα、国税/現金税)という語が使用されており、このことからジズヤは物品税に対する「現金税」という意味でも使用されていたと見られる。こうした用法はウマイヤ朝期半ばまで継続しており、イスラーム法的なハラージュやジズヤの体形が整備されたのは8世紀以降となる[329]。ここでは簡単のため、こうした税体系の変遷は取り扱わない。
- ^ ここでいう「白人」という用語は現代的な意味でのいわゆるヨーロッパ人の人種集団を指す白人という用語とは異なる。この「白人奴隷兵士」の出自は中央アジアのテュルク人(トルコ人)、モンゴル人や東欧のスラヴ人、ギリシア人らが含まれた。
- ^ ここで言う「トゥルク(Turk)」は言語系統の分類による現代の学術用語であるテュルク人、あるいは「トルコ人」と完全に一致する概念ではない。当時のアラビア語文書において「トゥルク」という言葉は使用言語に関わらず中央アジア的な諸部族民を指して使用されていたと見られる[337]
- ^ マムルーク、グラーム、アトラーク、それらと関わるマワーリーなど、イスラーム世界の奴隷軍人に関わる用語の厳密な定義、分類、用語法の問題は極めて複雑であるため、本項では白人奴隷軍人を便宜上全てマムルークと呼称する。この問題に関する詳細な整理・解説は関連する記事及び、佐藤 1991, 清水 2005を参照されたい。
- ^ 同一の書籍内であるが、三浦 2002, p. 272ではムハンマド・ブン・トゥグジェ「イラン系」、私市 2002, p. 208ではイフシード朝は「トルコ系」と書かれている[351][352]。Britanicaによれば、ムハンマド・ブン・トゥグジェは中央アジアのソグディアナ出身の将軍であるが、イフシード朝は「Turkish dynasty from Fergana in Central Asia」と描写されているため、ここでは「テュルク」とした[353]。
- ^ 当時のキリスト教徒(コプト教徒)はなお人口の40パーセントを占めていたとも言われる[359]。
- ^ ファーティマ朝時代にもイクターの授与は行われており、既に軍人や官僚によるイクターの保有は一般化していた。しかし同一の名前で呼ばれてはいるものの、ファーティマ朝のイクター制はイラク地方で発達したそれとは運用体系を異にしており、質的に異なっている。またイクターの対象となった土地もエジプト全体の土地面積に対して小規模であった[392]。
- ^ サーリフが購入した、主にテュルク人(トルコ人)とモンゴル人からなるマムルークの軍団はナイル川のローダ島に兵舎が遷された後、バフリーヤと呼ばれるようになった。これはナイル川を「バフル(海)」と呼んだことから来た名前である[405][406]。
- ^ チェルケス人を主体として編成された軍団で、カイロの城塞(ブルジュ)の兵舎で育成されたことから「ブルジーヤ」と呼ばれた[420]。
- ^ カーシフは武官職でありマムルーク朝から引き継がれた制度である。元来はジスル(灌漑土手)の管理を行ったが、マムルーク朝時代のうちにワーリー(地方総督)の職務であった治安維持や徴税も担当するようになっていた。オスマン帝国においてもジスルの管理、徴税、アラブ人部族の取り締まりなどがカーシフの職務であることがカーヌーン・ナーメによって規定されている[444]。
- ^ ムハンマド・アリーの内政政策全般についてはムハンマド・アリーの記事を参照。また、簡潔にその全体像を描いているものとして、加藤 2013を参照されたい。
- ^ オラービー革命によって解体されたエジプト軍はその後イギリスの主導で再建され、総司令官職はスーダン総督を兼任するイギリス軍人が担当するようになっていた[517]。
- ^ エジプト軍は長期に渡り実質的にイギリス軍の管理下にあり、単独での実戦はマフディーの乱以来であった[533]。
- ^ このデモの暴徒化は、あらかじめ火炎瓶や松明が支給されていたことから事前に準備されていたものであるといわれている。計画主体としてはムスリム同胞団やエジプトの共産化を図る東側諸国の諜報組織などの説があるが詳らかでない[538]。
- ^ ロジャー・オーウェンはエジプト外のアラブ諸国首脳の懸念を次のように説明している。「当時、エジプトの経済力と軍事力はアラブ世界のなかで抜きん出ていたため、仮にアラブの統一が実現したとしても、それは不可避的にエジプト優位で進められることを意味していた。だが、これこそが他のアラブ諸国の指導者が懸念していた点であった。特に、エジプト政府が各国の指導者に配慮することなく各国の人々を動員しようとしたために、各国の指導者は懸念を強めていった[568]。」
- ^ 歴史的にシリアと呼ばれる地域は元来現在のイスラエル、ヨルダン、レバノンなどを内包する広大な範囲であった。しかし第一次世界大戦後の戦後処理によって後にシリアとなる地域はフランスが、その他の地域はイギリスが統治することとなり、この時に引かれた人工的国境線を独立したアラブ諸国が引き継いでいた。加えて、オスマン帝国時代からシリアには全体を統合するような(事実上エジプトの支配層を形成したマムルーク・ベイのような)強力な政治主体が形成されていなかった[572]。
- ^ この種の若者グループをどのように呼称するかは定まった用語がない。「青年勢力」「若者グループ」「若年層」などの用語で説明される。
- ^ エジプト革命の原因として貧困と貧富の格差、社会的不公正は真っ先にあげられる要素である[611]。山口直彦はムバーラク政権下の貧富の格差について、人口の0.2パーセントが国富の8割を握っているという推計(2003年)を紹介し、富の集中は腐敗を糾弾されたムハンマド・アリー朝末期よりも進展していることになるという見解を出している[612]。一方で加藤博は世界銀行の統計をもとに、1990年代から2010年までエジプトは所得格差の小さい国であると評価している[613]。しかし同時にゲーテッドコミュニティの普及やアシュワラーヤと呼ばれる貧困層の「不法」住宅街の拡大などとの関連から、こうした統計データの信憑性に問題がある可能性のあることを指摘し、統計の分析から国民の実質生活水準は大半の層で低下傾向にあった可能性を示している[614]。
- ^ エジプトは女性を含めて教育水準の向上した現在もなお出生率が高く、多くの若年人口を抱える国である(特に上エジプトは出生率が高い)。また、ナイル川の存在によって中東諸国の中でも特に多くの農村人口を持つ国でもある。こうした中、ムバーラク政権下の経済成長を大きく牽引したのが労働の非正規化が起こりやすいサービス業であったことや、カイロを中心とする製造業の雇用吸収能力が低下したことは、各地で教育水準の高い若年失業者の増大という社会問題を引き起こした[615]。
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