t.A.T.u.との協業
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「エリェーナ・キーペル」の記事における「t.A.T.u.との協業」の解説
キーペルは、音楽活動の前に8年間テレビに出演していた。当時、彼女はすでに記者としてだけでなく、ディレクターとしても活躍していた。そんな中、キーペルに思いがけない依頼があり、新しい音楽プロジェクトを考えることになった。 「私はまだテレビの仕事をしていたので、この依頼は楽しい冒険であり、新しいものであると同時に、以前から慣れ親しんでいたもののようにも思えました。作劇術、音楽、PR……。私の知識はすべて役に立つだろうと。仕事から帰ってくるのが遅く、朝6時まで眠れないこともありましたが、アイデア出しや曲作りをしていました。結局、イワン・シャポワロフと私が計画を実現し始めたとき、私はテレビの仕事を辞めて、私たちが生み出したプロジェクト『t.A.T.u.』に専念しなければなりませんでした」 キーペルは、このプロジェクトに共同プロデューサーとして専属することとなり、t.A.T.u.のファースト・アルバム『200 ポ・フストレーチノィ(英語版、ロシア語版)』に収録される楽曲を書いた。キーペルが作詞を担当した「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(ロシア語版)」と「ナス・ニェ・ダゴーニャット(ロシア語版)」の2曲はt.A.T.u.の名刺代わりとなり、瞬く間に世界的な人気を博した。 アルバム『200 ポ・フストレーチノィ』は、世界の多くの国でゴールド、プラチナとなった。このアルバムの収録曲は非常に多くの賞を受賞しているが、最も影響力のある賞は「BMI最高欧州作詞作曲家及び音楽出版社賞」(BMI Honors Top European Songwriters and Publishers)で、キーペルは2003年にロンドンで「オール・ザ・シングス・シー・セッド」(「ヤー・シャスラー・ス・ウマー」の英語版)、2004年には「ノット・ゴナ・ゲット・アス」(「ナス・ニェ・ダゴーニャット」の英語版)で受賞している。 2009年4月15日、ルジニキ・スタジアムで行われたアーラ・プガチョワの60周年を記念したショー「С днём рождения, Алла!」(ス・ドニョム・ラジュディーニャ、アーラ!)で、プガチョワはソフィーヤ・ロタールとともに「ナス・ニェ・ダゴーニャット」を披露した。2014年2月7日、2014年ソチオリンピックの開会式で、「ナス・ニェ・ダゴーニャット」の抜粋が2回使用された。「ナス・ニェ・ダゴーニャット」とクイーンの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をミックスした曲で、ロシアの選手たちが登場した。20世紀後半の国の出来事をバレエで描いたオリンピック開会式の芸術パートでは、アラム・ハチャトゥリアンの「剣の舞」に「ナス・ニェ・ダゴーニャット」(訳注:私たちが追いつかれることはない)という一節が混じっていた。
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