ROUTE 66始動から休業まで
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「ROUTE 66 (ロックバンド)」の記事における「ROUTE 66始動から休業まで」の解説
ROUTE 66としてのファーストギグは、1982年2月24日の新宿STUDIO JAMである。セカンドギグとしての3月7日の新宿KIMONO MY HOUSEでは、G.I.S.M.とのツーマンギグを行なう。以降、彼らの活動を列記してみると、同月17日・新宿STUDIO JAM、27日・渋谷EGG MAN、4月1日には新宿LOFTにおいてTAM氏主宰のADKとポリコン企画との合同で開催された東京PUNK DAYに出演。G.I.S.M.、GAUZE、HALLOWEEN、MASTURBATION、ALLERGYと共演する。同月7日、14日ともに目黒ROCKY、19日・新宿LOFT、29日・福生SUNSHINE UZU、5月2日・目黒ROCKYと短くてわずか3日、長くても10日というスパンでの極めて精力的な活動を展開する。ギグのマネジメントはほとんどが石井氏によるものである。 このころ、彼らのリハーサル場所は千駄ヶ谷にあった。これは、石井氏や近藤氏と同じ高校の同級生で、ROUTE 66のバンドスタッフ的な存在だった山口雄司氏の母親の実家が空き家状態になっていたため、そこへ楽器や機材一式を持ち込みROUTE 66専用のリハーサル場所として利用したものだった。以後、そこはパンクロッカーたちの溜まり場にもなり、ROUTE 66と深い親交のあったTHE STALINやGAUZEのメンバーをはじめ、多くのパンクロッカーたちが遊びに来ていた。 5月22日から23日にかけてオールナイトで行なわれ全16バンドが結集した東大赤門ギグに出演。しかし、森氏は体調不良により出演出来なくなり、代わりに石井氏がベーシスト兼ボーカリストとして演奏する。以降も数々のギグに出演し、COMES、SCHEME、MADAME EDWARDA、JUGEND-STILなどをはじめ様々なバンドと共演する。8月9日には新宿LOFTで行なわれたGAUZEの消毒GIG Vol.5に出演。 怒涛の如く活動を続けてきた彼らであったが、ギグを重ねていく中で自分たちのやりたいことやバンドにとってプラスになるものはなんでも取り入れてきたがそれが広がり過ぎてしまい、自分の思い描く音楽への疑問や不安などが生じ、入り乱れ、それがきっかけとなり夏に解散することを決定する。彼らは予定していた最後のギグのリハーサルと、最後のオリジナル曲となる「ラスト ソング」の仕上げを兼ねて、伊豆高原の宿泊施設で2泊3日の合宿を行なう。 9月、EMOTIONAL MARKET開催1周年を迎えた新宿STUDIO JAMにおいて、29日に彼らのラストギグが行なわれる。解散を知ったファンたちが駆け付け、会場はステージ前までファンで埋まるほどの満員となる。ギグの途中で森氏は、解散という言葉は使わずに、休業することを告げ、大勢のファンに惜しまれながらもこの日を最後に活動を停止する。奇しくもファーストギグを行なった場所でのラストギグとなった。
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